30 皇太夫人
そのころ、皇太夫人宮――
大倭帝国の喧騒から切り離されたかのように、皇太夫人宮の回廊には静謐な空気が流れていた。磨き抜かれた床には、中庭の木々が落とす濃い影が映り込み、時折、風に揺れる御簾の触れ合う音だけが微かに響く。
皇太夫人宮大夫の正田義明は、衣の裾を小さく鳴らして歩く沙耶親王を、恭しく案内していた。
皇太夫人は本来、先代の法皇の夫人(従四位から従五位の位階を有する妾)の内、現・法皇の母親である者が就く位である。しかしながら、歴史上しばしば“柔軟に”解釈されてきた。今の皇太夫人も、先代の法皇の夫人であったとはいえ、人皇と沙耶親王の母親であるにすぎない。だが、その政治的な重みから、事実上の皇太夫人としてこの宮に君臨しているのである。
現在の法皇は先代の皇太妃の長男であり、法皇と人皇は共に今の皇太后の猶子となっているという、極めて複雑な家族関係の中にあった。
「正田、何があったの?」
沙耶は、案内の背に問いかけた。その声には、人皇宮から退出した直後の呼び出しに対する、隠しきれない不安が混じっている。
「総漢国で動きが。」
正田は歩みを止めず、淡々と答えた。
「総漢国で?」
沙耶は怪訝な顔をしたが、すぐに何かを思い出したように扇を口元に当てた。
「そういえば総漢国って、鷹女の妹の鳩女がいた国よね?」
「まさにそれに関して陛下がお待ちです。」
「それに関して? お兄様が関わるってこと?」
沙耶の脳裏には、先ほど人皇宮の回廊で見かけた、絵の具だらけで不遜な態度をとっていた朱雀・鷹女の姿が浮かんでいた。あの不愉快な女の妹が、異国の地で何かをしでかしたというのか。
「沙耶様、こちらです。」
正田は重厚な引き戸の前に立ち、静かにそれを開けた。室内からは、深い香木の香りが漂ってくる。正田は沙耶に入室を促すと、自らは敷居を越えず、一礼して外で控える構えをとった。
「母上、ごきげんよう。」
室内へ入った沙耶は、居住まいを正し、深く礼をした。
奥に座る皇太夫人は、宮中を何百年も生きてきた女だけあって、穏やかな容姿の裏には常に貫録と重さが張り付いている。彼女が扇を置くわずかな音さえ、部屋の空気を震わせるような威圧感があった。
「沙耶、ごきげんよう。」
皇太夫人は、慈しみと鋭さが混じった瞳で娘を見据えた。
「母上、どうなされましたか? お兄様関連のことですか?」
「そうね。華麟のこと、覚えているかしら?」
「ああ、母上やお兄様に昔仕えていた麒麟の。」
「そう、その華麟です。華麟は総漢国の大王派の鳳凰である美凰と共に前田弘貴という素王を召喚しました。皇太子の夫にするためです。同時に反大王派の泰鳳と杏麟も佐藤綾子という素王を召喚しました。」
沙耶は口を半ば開けたまま、母の語る政争の構図を黙って聞き入った。
「で、鷹女の妹の鳩女が佐藤綾子側です。」
「え?」
沙耶の沈黙は破られた。驚きで身を乗り出した彼女に対し、皇太夫人は冷徹に事実を積み重ねていく。
「どうも前田と佐藤が突如手を組んだという速報も入ってきましたが、こちらは真偽を確認中です。ただ、鳩女が佐藤綾子側近の枝野利久という総漢国民部省の官吏に仕えていることについては、裏が取れました。」
「そんな・・・! お兄様の側近には鳩女の姉の鷹女がいるではありませんか。それではまるで、お兄様が裏で総漢国の反大王派を支持しているようではありませんか。人皇宮が二人の素王を同時に操り、総漢国の政情を左右しようとしている・・・そんな疑念を放置しておくわけには参りませんわ。」
沙耶は困惑し、膝の上で手を震わせた。人皇の妹として、その名が謀略に利用されることへの強い拒否感があった。
「ええ。意図はどうあれ、外からはそう見えるものです。お兄様の立場を守るためには、わたくしたちも覚悟を決めなければならないということですね。」
皇太夫人は沙耶の動揺を静かに受け流し、厳しい現実を突きつけた。
「そうすると、まるでお兄様が総漢国の大王派と反大王派の双方の黒幕みたいじゃない!」
「ほぼ確実にみんなはそう思うでしょうね。」
「お兄様がそのような謀略を巡らせているはずがありません! ですが、周囲はそうは見てくれない・・・。人皇宮が二人の素王を同時に操り、総漢国の政情を左右しようとしている・・・そんな疑念を放置しておくわけには参りませんわ。」
沙耶は必死に訴えたが、皇太夫人は動じない。
「だからこそ、先手を打つのです。力があると思われてしまったならば、適切なタイミングでその力を使い、既成事実を作らねばなりません。」
母の言葉に、沙耶は唇を噛んで頷くしかなかった。
「お兄様の立場を守るためには、わたくしたちも覚悟を決めなければならないということですね。わかりましたわ、母上。仕方のないことだと考えます。」
沙耶は事の重大さを噛みしめた。しかし、皇太夫人の本題はここからだった。
「そうね。それで皇太子の件だけど、皇太子の夫に前田をつけることに、私は積極的に賛成します。」
「え?」
いきなり話が飛んだように見えたが、繋がっているはずだ。沙耶は一生懸命頭を動かす。
「沙耶、覚えておきなさい。その気がなくても、仮に不本意な噂が原因でも、力があると思われてしまったならば、適切なタイミングでその力を使わないといけません。」
「お兄様の母親だから、ということ?」
「貴女もですよ? 沙耶、よく聞きなさい。貴女は人皇陛下の妹として、何としてでも皇太子を猶子にしなさい。手段は問いません。」
「猶子に・・・? ですが、先ほどお兄様は『猶子になるかは皇太子が決めることだ』とおっしゃったばかりです。わたくしのような若輩者が、次期法皇であらせられる彩比売殿下の後ろ盾になど務まるでしょうか。ましてや殿下は、あの臣民出身の皇后陛下の御娘ですわ。」
沙耶は自信なげに問い返した。兄・人皇からは、皇太子の意思を尊重せよと言い含められている。
「人皇陛下の意思はこの際、関係ありません。」
「お兄様は『皇后と敵対しないように』とも釘を刺されました。お兄様のお考えを無視して動くことは、あまりに独断が過ぎるのでは・・・。皇族としての筋を通すべきではないでしょうか。」
人皇の顔色を伺う沙耶に対し、皇太夫人の声は一段と鋭くなった。
「甘いわ、沙耶。それがお兄様のため、そして人皇宮を守る唯一の道なのですから。その屈辱すら飲み込んでみせなさい。」
厳しい母の言葉に、沙耶は息を呑んだ。
「皇太子を猶子とするためならば、皇后陛下との協力も厭いませんわ。わかりましたわ、お母さま。」
沙耶の決意を確かめるように、皇太夫人はさらに踏み込んだ指示を与えた。
「あと、沙耶。手段を問わないというのはもちろん、皇太子を猶子とするために必要な皇后と組むことについても、です。プライドは捨てなさい。皇后に土下座してでも皇太子を猶子にするのです。」
皇太夫人の言葉には、自らも臣民出身でありながら、娘がその出自ゆえに皇后を見下していることへの危惧、そして親心が含まれていた。
「あの、臣民出身の女に・・・この私が、頭を下げ、あまつさえ土下座など・・・屈辱ですわ!」
沙耶は顔を伏せ、拳を強く握りしめた。誇り高き皇族として、それは死に等しい屈辱に思えた。
「誇りなど、結果を出した後に持てばよいのです。わたくし、その屈辱すら飲み込んでみせます。お前もそうしなさい。」
母の冷徹な、しかし揺るぎない視線が沙耶を貫く。
「・・・いえ、わかりましたわ。お兄様のため、そして人皇宮を守る唯一の道ならば、皇太子を猶子とするためならば、皇后陛下との協力も厭いませんわ。」
沙耶は覚悟を決め、静かに答えた。
「物分かりが良くて助かったわ。」
皇太夫人は満足げに目を細めた。
沙耶は一礼して立ち上がり、静かに退室した。その背中は、入室時よりもどこか重い責任を負っているように見えた。
「正田、なんか大変なことが起きているようね。」
廊下で待っていた大夫に、沙耶はため息混じりに声をかけた。
「まぁ、私は皇太夫人陛下にお仕えする身ですから。」
正田はそう言って笑みを持って沙耶を見送った。その瞳の奥には、宮中に吹き荒れようとしている新たな嵐を予見するような、鋭い光が宿っていた。
8/6 一部訂正しました




