27 初陣の後
前田と佐藤らの活躍で瘴雲は消えていた。
確かに、消えた。
北の空を覆っていた黒い雲は、もうどこにもない。紫の靄も、腐ったような臭いも、魔王の気配を帯びた重たい風も、すべて吹き散らされていた。
だが、その代償として、山の一部が変わっていた。
尾根の木々は根こそぎ倒れ、黒く焦げた幹があちこちで煙を上げている。地面は大きく抉れ、岩肌がむき出しになっていた。瘴雲があった空域の向こうには、まるで誰かが空を磨き上げたような青が広がっている。
前田弘貴は、膝に手をつきながらも、その空を見上げていた。
息は上がっている。
身体の奥に残る熱も、まだ震えている。
次帥轟雷法――名を口にした瞬間、術は形になった。
自分の内側から湧き上がった力が四神へ流れ込み、空へ放たれた。怖いほど大きな力だった。だが、その力が自分の中から出たことに、前田はどこか奇妙な納得も覚えていた。
元の世界での自分は、決して強い人間ではなかった。
会社では上司に頭を下げ、生活には余裕がなく、綾子には男として見られなかった。
しかし、それは前田の中に何もなかったという意味ではない。
やる時はやる、言う時は言う、損をすると分かっていても、正しいことをする。
だからこそ綾子にも呆れられ、振られ、それでも腐れ縁のような関係が続いたのかもしれない。
この世界に来て、その無鉄砲さが、術という形を得てしまった。
「修行の成果は認める。」
美凰がこめかみを押さえながら言った。
「だが、瘴雲ひとつにあの術を使う馬鹿がどこにいる!」
声は低かった。怒鳴るよりも怖い。
前田は素直に頭を下げた。が、彼は今回の件で自信を持ってしまった。
「被害を人里に向けなかっただけ、まだ良かったと思います。」
「反省しろと言っている。」
「しています。次はもう少し絞ります。」
全く反省の色が見えない。
「絞る、で済む術ではない!」
美凰の声が跳ねた。
前田はそこで初めて少しだけ肩をすくめた。
「でも、瘴雲は消えました。」
「そこを綾子と同じ言い方にするな!」
美凰は深く息を吐いた。
「次帥法は、お前たち素王が扱える術式の中でも最上位に近い。大元帥法は法皇・天皇・地皇・人皇だけのもの。元帥法も、その許可なく使うことは許されない。それらを除けば、次帥法は最強格だ。」
美凰は抉れた山肌を指差した。
「その術を、瘴雲ひとつに対して、しかも二人同時に使った。分かるか。これは害獣を追い払うのに宮殿ごと大砲で吹き飛ばすようなものだ。」
「分かりやすいです。」
「感心するな!」
少し離れた場所では、泰鳳も同じように頭を抱えていた。
佐藤綾子は服についた埃を払い、少し乱れた髪を手櫛で整えている。
綾子の表情には、反省よりも満足が勝っていた。
「でも消えたでしょう?」
その言葉に、泰鳳のこめかみが跳ねた。
「消えればよいというものではない。あの規模の衝撃波が人里に向かっていたらどうするつもりだった!」
「向かってないじゃない。」
「結果論だ!」
「結果は大事よ。」
「過程で国を壊しかけた者が言う言葉ではない!」
泰鳳の声は硬かった。
それでも、彼は怒鳴りつける寸前で踏みとどまっている。綾子が素王であること、彼女を自分たちの陣営の中心に据えようとしていること、ここで無用に関係を壊せないこと。その全てが、彼の怒りを辛うじて抑えていた。
杏麟は少し遠い目をしていた。
「私の素王も人の話を聞かないところがあるけれど・・・あなたの素王も大概ね、華麟」
あれだけ綾子の我が儘を後押ししていた女が言ってよいセリフではない。
華麟は乾いた笑いを浮かべた。
「あはは・・・でも瘴雲は消えましたし。」
「消えたけれど、山も少し消えたわね。」
「うっ。」
華麟は言葉に詰まった。
渺蔵は、甲羅からまだ煙を上げていた。
「久々に全力を出した。悪くない。」
満足そうである。
広海は空を一周してから降りてきた。
「悪くない、ではない。霊力を一気に持っていかれた!」
和子は焦げた尾根の上を見渡し、低く笑った。
「素王というのは、力加減を知らぬものか」
量哉は楽しげに羽ばたく。
「退屈しない。俺は気に入った。」
剛志はぐったりしていた。
「腹が減った。あと、下っ端呼ばわりした女はあとで水に落とす。」
綾子は平然としている。
「できるものならどうぞ?」
泰鳳が慌てて青龍へ向き直った。
「失礼は詫びる。今は抑えてくれ。」
「お前が詫びることではない。」
「そうなのだが、私が詫びるしかない。」
泰鳳の声には疲れが滲んでいた。
前田はその様子を見て、少しだけ同情した。
綾子に振り回される立場には、前田にも覚えがありすぎた。
「あ~あ、鳩さんたち帰っちゃった。」
鳩女が言う。
「鳩には帰巣本能があるものよ?」
亜香子がツッコミを入れた。
綾子は前田へ歩み寄った。足取りは軽い。
山を抉るほどの術を使った直後とは思えない。
「ふうん?」
彼女は前田を上から下まで眺めた。
「でもまあ、術の威力だけは立派じゃない?」
「だけ、ですか?」
「だけよ。」
綾子はくすりと笑い、前田の肩をぽんと叩いた。
「あんた、この世界でもちゃんとやっていけそうじゃない。お姉さん安心したわ。」
その言い方は昔のままだった。
弟分に向ける声――下に見ているが、完全に突き放しているわけでもない。
優しさのように見えるものが、前田の胸を余計に刺す。
だが前田も、ただ俯かなかった。
「綾子さんも相変わらずですね。」
「あら、どういう意味?」
「人のことを下に見ながら、妙に面倒は見ようとするところです。」
綾子は一瞬だけ目を細めた。
それから、面白そうに笑った。
「言うようになったじゃない、前田くん。」
「異世界に来ましたから。」
「異世界に来ると育ちも良くなるの?」
「そこは変わりません。」
「でしょうね。」
軽口だった。
だが、綾子の目には少しだけ楽しげな光があった。
華麟はそのやり取りを複雑そうに見ていた。
美凰は冷たい目で綾子を見ている。
その時だった。
抉れた地面の中心で、何かが光った。
最初は焼けた石かと思ったが、違う。
倒れた木々と割れた岩の下から、小さな石の台座が露出している。その上に、黒ずんだ珠が一つ乗っていた。
珠は脈打っていた。
黒い表面の奥に、赤黒い光が明滅している。
まるで心臓のようだった。
華麟が目を凝らす。
「瘴珠?」
言った後で前田に説明する。
「魔王の力の欠片が結晶化したものです。」
美凰の表情が変わる。
「近づくな。」
しかし、その言葉より先に綾子が身を乗り出した。
「え、それって凄いやつ?」
「危険なやつです。」
杏麟が言う。
綾子は珠を見め顔をしかめる。
「黒ずんでいて綺麗じゃないわね。じゃあ前田くんにあげる。」
「それ、危ないから押し付けてますよね?」
「貰えるものは貰っておきなさい。」
「では貰います。」
前田は普通に一歩踏み出した。
美凰の反応が一瞬遅れた。
「触るな!」




