26 構図変更
枝野利久は小室民部卿から呼び出しを受けた。
民部省の廊下には、昼過ぎの光が細く差し込んでいた。
高い窓から入る日差しは、磨かれた板敷きの上に長方形の明るい影を落としている。廊下の左右では、下級官吏たちが木簡や帳簿を抱えて行き交い、時折、紙の束を落としそうになって慌てる者もいた。
普段の民部省なら、それでも空気はもっと事務的であった。
租税、戸籍、山川、道路、賦役。
どれも人の生活に関わる重い仕事ではあるが、役所の中では数字と書類に置き換えられる。人が生まれ、田が荒れ、橋が壊れ、税が足りなくなる。それらが一つ一つ帳簿へ記され、役人たちは黙々と処理していく。
だが、今日の空気は違った。
北方から瘴気が来たという報せが、すでに官庁街へ広がっている。
しかも、それを祓ったのが自分が世話係を押し付けられている素王・佐藤綾子であるというのだから、民部省の廊下を歩く枝野の足取りも重くなる。
「なんのことだろうか?もしや・・・。」
枝野に心当たりは一つだけあった。
朝、鳩女が「あ、泰鳳様と杏麟様から召喚だ!」と言って消えていったのである。
思い返せば、あの時点で止めるべきだったのかもしれない。
しかし、鳩女は朱雀である。
しかも人間にはまだ変化できないと言いながら、鳩になったり朱雀になったりして都で仕事を探していた変わり者である。枝野にできることなど、せいぜい「気を付けろよ」と言うぐらいだった。
もっとも、その「気を付けろよ」すら言う暇もなく、鳩女は羽音を残して消えたのである。
その後、瘴気が北方から来ている話を聞いた。
大王宮は事前に人皇宮から通知が来ていたのに対策を打っていなかったという。
そのような中で佐藤綾子が動いたと聞いて「素王らしい」と思ったものだが、鳩女が佐藤綾子に召喚されたということは――やや嫌な予感はした。
枝野は小室民部卿の執務室の前で足を止めた。
扉の向こうからは、紙をめくる音が聞こえる。
小室通衡は、民部省を束ねる高官である。普段は穏やかに見えるが、税と戸籍の話になると妙に冷静で、冷静すぎるところがある。枝野にとっては、怒鳴られるよりも、淡々と詰められる方がよほど怖かった。
戸口を叩くと、中から短い返事があった。
枝野は一礼して室内へ入る。
室内には香木の煙が薄く漂っていた。
壁際には帳簿が積み上げられ、机の上には山川に関する報告書、戸籍の照合表、そして伝書鳩の管理に関する木簡まで広げられている。普段なら別々の棚に収まっているはずの文書が、今日は一つの机の上に集められていた。
嫌な予感は、確信に変わりつつあった。
「枝野よ、お前は確か昨日から鳩女とかいう朱雀と一緒に暮らしておるな?」
「あ、はい、そうですが。」
小室通衡は怒っているわけでも無く、ただ淡々と聞く。
その淡々とした声が、かえって怖い。
「素王から召喚されたことは?」
「知ってます。」
「実はな、その素王が瘴気祓いに四神を連れて行ったのだ。」
「四神ですか?青龍、朱雀、白虎、玄武の、あの四神ですか?」
枝野は思わず確認した。
もちろん、四神が何かを知らないわけではない。
大倭帝国で官吏をしていて、青龍・朱雀・白虎・玄武の名を知らぬ者などいない。山川や方位、霊気の流れに関わる存在として、民部省の職務とも無関係ではない。
だが、知識として知っていることと、実際に素王が四神を引き連れて瘴気祓いに向かったと聞かされることは別である。
まして、その朱雀の一人が、昨日から自分の家に転がり込んでいる鳩女かもしれないのだ。
「やっぱり鳩女も・・・。」
「うむ。そこまで知っているならば話は早い。でな、その時に何故か鳩女とやらは鳩を20羽ほど連れて現場まで行ったのだ。」
「え?」
「そしてその中に何故か我が総漢国の伝書バトもいた。」
「は?」
枝野は一瞬、意味が分からなかった。
鳩女が鳩を連れていくのは、まだ分かる。
いや、本当は分からないが、鳩女ならそういうこともあるかもしれない、と思えてしまう程度には昨日から感覚が麻痺していた。
しかし、総漢国の伝書鳩まで混じっていたとなると話が変わる。
伝書鳩は通信手段である。
役所の管理下にある。
勝手に瘴気祓いへ同行してよいものではない。
「その伝書バトが三匹ほど先ほど帰ってきてな。まぁ、鳩語だからあまり論理的な内容ではないが、一言で言うと鳩女とやら言う朱雀たちが素王の命令で山の一部を壊した、と。で、鳩女も素王もそれに達成感を感じている、と。」
「はい!?」
伝書鳩は通常は信書を運ぶ鳥であるが、今回はもちろん信書などは持っていない。
ただ、仙人たちは動物の言葉もある程度は理解できるため、鳩の鳴き声からだいたいの状況は理解できたのである。
もちろん、鳩の報告は人間の報告書とは違う。
鳩たちは興奮していたらしい。
「空が光った」「雷がすごかった」「鳩女様が飛んだ」「山が揺れた」「素王がすごかった」「怖かった」「でも勝った」――そういう断片的な鳴き声を、伝書鳩の係官が必死に意味へ直した結果が、今の小室の説明だった。
報告書の隅には、係官の筆跡で小さく「鳩語につき詳細不明」と添えられている。
その一文が、かえって事態の深刻さを物語っていた。
「山の一部を壊した、というのは比喩ではなく?」
「鳩語を信じるなら比喩ではない。まぁ、事実であれば違法行為だわな。素王を罰すことが出来るかはともかく。」
「何やってんだあいつ・・・。」
枝野は思わず頭を抱えた。
昨日、市場で出会った時の鳩女を思い出す。
市のはずれで何気なく鳩に餌をやった。
すると、その鳩が頭の中へ直接話しかけてきたのである。
驚く枝野の前で、鳩は紅い朱雀へ姿を変えた。人間にはまだ変化できないと言いながら、都で仕事を探していると言い、姉である紅蓮鷹女が人皇の側近であることを誇らしげに語った。
雇ってください、家事でも何でもします、住み込みの朱雀です――そう言って枝野へ迫ってきた鳩女は、確かに変わっていた。
だが、悪い朱雀ではなかった。
明るく、人懐っこく、少し落ちこぼれ扱いされることを気にしていて、それでも出世したいと言っていた。
枝野も一人暮らしの寂しさに少し負けた。
だから家へ連れて帰った。
その結果がこれである。
「加えてもう一人の素王もいた、と。違法召喚された素王と佐藤綾子が組んでいるならば、それもヤバいわな。」
「ヤバすぎますね。」
「しかも、だ。問題は総漢国は彼らを充分に取り締まれぬ。」
素王は大王や親王と権威的には同格だ。
しかも、佐藤綾子は合法的に召喚された素王であり、泰鳳の背後には地皇がいる。
前田弘貴も違法召喚ではあるが、召喚した美凰は大王派のホープであるから大王も本気で取り締まれとは言ってこない。
さらに言えば、二人は瘴気を祓っている。
結果だけ見れば、村を救った功労者である。
だが、過程で山を壊しかけたなら、それは民部省の扱う山川の問題になる。
村を救ったからといって山を壊してよいわけではない。
しかし山を壊しかけたからといって、瘴気を祓った功績を無視するわけにもいかない。
役所にとって、これほど扱いに困る事案もなかった。
「すると、その山を壊した実行犯の四神たちが罪を――」
「ところが、その実行犯の一人が人皇陛下の側近である紅蓮鷹女の妹だという。」
「あ!」
枝野は思わず声を上げた。
鳩女が姉の話をしていたことを思い出したのだ。
紅蓮鷹女――人皇陛下に聖別を与え、一気に出世した朱雀。
その妹が鳩女である。
鳩女本人がどれほど呑気であっても、外から見れば人皇宮につながる朱雀であることに変わりはない。
「というわけで罰することはできないのだが、次に別の問題が発生した。」
「もしかして人皇宮といえば華麟様が若い頃――」
「そういうことだ。」
なおここで言う「若いころ」は今と比べてと言う意味だ。
麒麟や鳳凰は長寿であるので、100歳でも若手である。
華麟や美凰が実は100歳前後であることは――前田は知らない方が良いであろう。
「今から50年ぐらい前に華麟は人皇宮に仕え、その後は皇太夫人宮に仕えていた。」
皇太夫人は先代の法皇の妾(夫人)であり、人皇と沙耶親王の母親である。
小室通衡は机の上の木簡を一本、枝野の方へ押し出した。
そこには、人皇宮に出入りした麒麟や鳳凰、四神の名が記されている。民部省の本来の管轄ではないが、戸籍や身分に関わる記録として写しが残されているのだろう。
枝野はそれを見て、胃のあたりが重くなった。
華麟、紅蓮鷹女、紅蓮鳩女、人皇宮、皇太夫人宮、そして二人の素王――。
実際に陰謀があるかどうかは別として、紙の上で名を並べると、いかにも線が引けてしまう。
「要するに、前田側の華麟様も佐藤側の鳩女も人皇陛下の方の人脈、と。」
「まぁ、私もお前の家に居候に来た朱雀が政治的な意味を持っているとは思わぬ。だが、外見上の話だな。」
「外から見ると、人皇宮が二人の素王の両方に手を伸ばしているように見える、ということですか。」
「察しが良いな。」
「しかも片方は彩比売殿下の夫候補、もう片方は総漢国大王候補。放置すると、人皇陛下が総漢国の政争と皇太子問題の両方に関与しているように見えるわけですね。」
「そういうわけだ。それで、弾正臺その他の警察機構が動くと角が立つ。逮捕権も捜査権もない我々が、二人を任意の上での保護をするように、という話になった。」
「そんな無茶な!」
枝野は思わず叫んだ。
民部省は戸籍と税の役所である。
山川も道路も扱う。
確かに、理屈の上では、今回の件は民部省のどこかに引っかかる。
異世界から来た素王の身分は戸籍に関わる。
素王が山を壊したなら山川に関わる。
瘴気で村が枯れれば租税にも関わる。
四神や朱雀が関わったなら、その身分や所属の確認も必要になる。
しかし、だからといって、二人の素王を任意で保護しろというのは、話が飛びすぎている。
逮捕権も捜査権もない役所が、どうやって素王二人を保護するのか。
しかも一人は佐藤綾子である。
枝野はすでに、あの女がどれほど人を振り回すかを少し知っている。
もう一人の前田弘貴については、直接会っていない。
しかし、佐藤綾子と同じ世界から来た素王で、しかも美凰と華麟に守られているというだけで、簡単な相手であるはずがなかった。
「まぁ、あくまでも今はまだ事実確認の段階だがな。かなり高い確率でそうなる。」
「長官、民部省の仕事って、なんでしたっけ?」
「戸口・戸籍・山川・道路・租税・賦役などに関する事務をつかさどることだな。」
「なんか最近、仕事増えてません?」
「異世界から来た素王の扱いは戸籍に関すること、素王が山を壊していたらそれは山川に関すること、だ。」
「強引過ぎる!」
「仕方なかろう。」
小室通衡は少しも悪びれなかった。
むしろ、理屈としては通っているだろう、とでも言いたげな顔である。
枝野は反論しようとして、言葉を飲み込んだ。
確かに、民部省の仕事ではないと言い切ることはできない。
できないからこそ厄介なのだ。
役所の仕事は、だいたいこうして増えていく。
誰かが「これはうちの管轄ではない」と言い、別の誰かが「いや、ここに少し関係がある」と言い、その「少し」が積み重なって、いつの間にか正式な職務になる。
今回もそれである。
ただし、相手が二人の素王と四神と朱雀である分、普段よりもはるかに悪質だった。
窓の外で風が吹いた。
庭の木の葉が揺れ、薄い影が障子に映る。
枝野は昨日の市場を思い出した。
鳩に餌をやっただけだった。
ただ、それだけだった。
それが他心通で礼を言い、朱雀に変じ、出世したいと言い、雇ってくれと頼み込み、住み込みの朱雀だと胸を張った。
枝野は一人暮らしの寂しさもあって、それを受け入れた。
あの時は、少し変わった朱雀を家に置くことになった、という程度の話だった。
だが実際には、総漢国の政争、人皇宮の人脈、二人の素王、四神、瘴気、山川行政、その全てが鳩女の羽にくっついて枝野の家へ入り込んでいたのである。
偶々餌をやった一羽の鳩によって、枝野の人生は後戻りできなくなってしまった。
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