23 迫る瘴気
午前の修行が終わる頃には、前田はすっかり疲れ果てていた。
浮遊はできた。
短い距離を滑るように移動することもできた。
しかし、力の加減が難しい。
少し意識を強めると跳ね上がりすぎる。
逆に弱めると足元が急に重くなる。
美凰は容赦なく指摘した。
「雑だ。」
「はい。」
「力の立ち上げが急すぎる。」
「はい。」
「落下の制御が下手だ。」
「はい。」
昨夜は抱きしめて寝てほしいなどと大胆に言っていた男が、驚くほどおとなしくなっている。
「だが、反応は悪くない。」
前田は顔を上げる。
「褒めました?」
「事実を言った。」
「やっぱり褒めてますよね。」
「調子に乗るな!」
華麟は笑っていた。
山の斜面にある開けた草地。
そこが今日の修行場だった。
日が高くなり、木漏れ日が柔らかく三人を照らしている。
午前中だけで前田は何度も転び、何度も浮き、何度も美凰に叱られた。
純仙の身体は丈夫だが、疲れないわけではない。
前田は草の上に座り込んだ。
「少し休んでもいいですか?」
「五十息だけだ。」
美凰が言う。
「短い!」
休憩に入るとおとなしさは消えてしまったようだ。
「では百息。」
「ありがとうございます!」
華麟が慌てて近づく。
「前田様、肩の霊流が乱れています。無理しすぎです。」
「霊流?」
「霊力の流れです。右肩から首にかけて固くなっています。」
美凰も前田の背後に回った。
「確かに右肩の経絡が乱れている。」
「経絡もあるんですか?」
「お前の世界にも似た概念はあるだろう。」
「ありますけど、実在するんですね。」
「この世界ではな。」
華麟は草の上に正座した。
そして自分の膝をぽんと叩く。
「前田様、どうぞ!」
「え?」
「膝枕です!」
前田は固まったがすぐ笑顔になる。
「え? 華麟さん、膝枕してくれるんですか!」
華麟の顔が一気に赤くなった。
「ち、違います! いえ、違わないですけど、これは医術的な処置です!」
美凰が後ろでぼそりと言う。
「膝枕が医術か。」
「みおう、黙っててください!」
華麟は必死だった。
「聖別者が近くで気を整えると、主君の霊流が安定しやすいんです。膝枕は、その、頭部の位置が安定しますし、休息にもなりますし・・・だから、これは合理的なんです!」
「言い訳が長い。」
「美凰!」
前田は苦笑しつつも嬉しそうな態度を隠さずに、促されるまま華麟の膝に頭を預けた。
柔らかかった。
温かかった。
華麟の身体が小さく震える。
「だ、大丈夫ですか?」
「はい!ありがとうございます!」
前田は目を閉じた。
背後から美凰の手が肩に触れる。
熱とも冷気とも違うものが流れ込んだ。
右肩から首へ、細い糸をほどくように気が通る。
不思議な感覚だった。
華麟の膝の温もり。
美凰の手から流れる霊気。
山の風。
木漏れ日。
あまりに穏やかで、前田は思わず呟いた。
「華麟さんの身体、気持ちいい・・・。」
華麟の身体がびくっと跳ねた。
「き、気持ちいいって・・・!」
顔どころか首まで真っ赤になっている。
「そういうことは、思っても口に出さないでください!」
美凰の手も止まった。
「お前は本当に遠慮というものを知らないな。」
「すみません。」
「謝ればいいと思っているだろう?」
「いえ、せっかくだから楽しみたいと。」
「正直だな。」
華麟は前田の頭をどかそうとしたが、結局そのままにした。
手の置き場に困り、しばらく宙を彷徨わせた後、ぎこちなく前田の髪を撫で始める。
「こ、これは頭部の血流を促しているだけですからね。」
「血流なんですか?」
「霊流もです。」
「便利な説明ですね。」
「前田様まで!」
美凰はため息をつき、再び肩へ気を流し始めた。
だが次の瞬間、その手が止まった。
美凰の視線が北へ向く。
「北の空・・・。」
声が低い。
華麟も顔を上げた。
前田は膝から身を起こす。
遠く北の空に、黒い雲があった。
最初はただの雨雲に見えた。
だが、違う。
風は南から吹いている。
なのに雲は、風に逆らってこちらへ進んでいる。
しかも雲の縁が蠢いていた。
生き物のように。
紫がかった靄が、時折雲の下から垂れる。
美凰の表情が険しくなる。
「魔瘴雲だ。」
華麟も息を呑んだ。
「魔王の瘴気が凝ってできる雲です。」
「危険なんですか?」
「落ちれば森が枯れます。人間なら病みます。霊力の弱い仙人も危ないです。」
美凰は立ち上がった。
「まだ遠いが、このまま進めば人里にかかる。」
前田は黒雲を見つめた。
下の森に、微かに紫の影が伸びている。
胸がざわつく。
魔王――千年倒せなかった相手。
その本体ではないにせよ、力の一端が目の前に現れた。
前田は深く息を吸った。
「瘴気払いは、素王が四神と組んで行うんですよね?」
美凰がこちらを見る。
「よく覚えていたな。」
「昨日本を読みました。」
華麟が頷く。
「麒麟と鳳凰は四神を呼ぶことができます。ただし、来てくれる個体は状況次第です。近くにいて応じられる個体になるので、必ずしも高位の四神とは限りません。」
「近くの人里に紛れて暮らしている玄武、青龍、白虎、朱雀を一体ずつ呼べますか?」
前田が言うと、美凰の目がわずかに変わった。
見直したような目だった。
「素王としての自覚が少しは出てきたか。」
「今は褒められたと思っておきます。」
「いいだろう。」
美凰は北の空を睨む。
「華麟、北方の陣を描け。玄武はお前が呼べ。東西南は私が補う。」
「はい。」
華麟は頷いた。
もう頬の赤みは消えていた。
その顔は麒麟としてのものだった。
彼女は地面に膝をつき、指先で土に陣を刻む。
美凰は鳳凰の姿へ変じた。
赤金の翼が広がる。
周囲の草が霊気で震えた。
華麟も麒麟の姿を取る。
額の角が淡く輝き、四方へ光の線が走る。
空気が変わった。
山の鳥たちが一斉に飛び立つ。
地面の下から低い響きが聞こえる。
まず北の陣が黒く光った。
地面が盛り上がる。
土の中から、甲羅を背負った大蛇のような巨躯が現れた。
玄武の渺蔵だ。
黒い鱗は光を吸い込み、甲羅には古い文様が刻まれている。
「呼んだか、麒麟?」
声は地鳴りのようだった。
華麟は息を切らしながら頭を下げる。
「お久しぶりです、渺蔵様。」
次に東の陣から青い風が巻いた。
風は水を含み、渦を成し、やがて白銀の鱗を持つ龍が姿を現す。
青龍の広海。
その身体は完全に地に接していなかった。胴をくねらせるたび、周囲の風と水気を掴むように浮かぶ。翼はない。だが空そのものが道になるように、龍身が宙を泳いでいた。
「呼んだ?」
「よりによって東のはお前か・・・。」
美凰が言うと広海が抗議した。
「俺はこれでも蒼龍真君のはとこの三男だ!」
「良いのは血統だけだろ。」
「うるさい!」
美凰はそれ以上は無視して西の方へ向く。
西の陣には白い霧が集まり、巨大な虎が現れる。
白虎の和子だ。
四肢は地面に触れているが、跳ぶときには霧の足場が生まれる。空中を駆けるというより、見えない山道を蹴って進むのだろう。
南の陣は炎に包まれた。
朱雀の量哉が羽ばたく。
翼から散る火の粉は熱いが、草を焼かない。炎そのものを羽衣のようにまとい、空に留まっている。
美凰が四体を見渡した。
「揃ったな。」
華麟が小声で言った。
「急な召喚に応じられる、近くで暇をしていた・・・いえ、比較的手の空いていた方々です。」
広海の耳のような角がぴくりと動いた。
「暇、と言ったか?」
「い、言ってません!」
和子が欠伸をする。
「言い換えても失礼だぞ、麒麟。」
朱雀の量哉が羽ばたき、華麟の顔に温風を送った。
「まあ実際、暇だったけどな。で、何の用だ?」
玄武の渺蔵は前田をじっと見ていた。
「この者が素王か?」
その視線は重い。
値踏みされているようでもあり、好奇心を向けられているようでもある。
「純仙の匂いがする。異界の匂いも混じる。面白い。」
前田は思わず頭を下げた。
「前田弘貴です。よろしくお願いします。」
和子が目を細める。
「礼儀はあるな。」
広海が北を見た。
「で、あれか?」
黒雲は先ほどより近づいていた。
風に腐ったような臭いが混じり始めている。
渺蔵の目が細くなる。
「小さくはないな。」
量哉が翼を広げた。
「瘴気払いだな?」
美凰が頷く。
「素王と四神で祓う。協力しろ。」
「あんなにばかにしておいて命令か?」
広海が言う。
「依頼だ。」
美凰が返す。
広海は鼻を鳴らした。
「まあ、放っておけば近くの村がやられる。受けてやる。」
荼枳尼に弱すぎると言われた広海君が(少しだけ)活躍します!
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