表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
23/62

21 予定変更

 その日、前田弘貴は鳥の声で目を覚ました。


 庵の天井は低い。木の梁には夜露を吸った匂いが残り、炉には昨夜の灰が静かに沈んでいる。


 最初の一瞬だけ、自分がどこにいるのか分からなかった。


 会社の寮でもなく、自分の部屋でもない。


 ふと昨夜のことを思い出した。大胆になり華麟と美凰に何か要求をしていたことを思い出す。


 前田はゆっくり身を起こした。


 右側にいた華麟はいない。


 左側にいた美凰もいない。


 前田は額を押さえた。


 自分は何を言ってしまったのか。


 何を聞いてしまったのか。


 佐藤綾子の話題になった瞬間の、あの冷えた空気。


 その後、華麟が申し訳なさそうに寄り添い、美凰が無言で袖を掴んでいた感触。


 この世界に来てから、前田の人生は常に非常事態だった。だが、その中でも昨夜は特に妙な夜だった。


「起きましたか?」


 台所の方から華麟の声がした。


 前田が顔を向けると、華麟が小さな盆を持ってこちらを覗いていた。頬に粟粒がついている。本人は気づいていないらしい。


「おはようございます、前田様。よく眠れましたか?」


「おはようございます。眠れた・・・と思います。」


「よかったです。」


 華麟は嬉しそうに笑った。


 その笑顔に昨夜の気まずさはない。


 いや、ないように見せているだけかもしれないが、美凰の言う通り麒麟には主人に好意的になる脳内フィルターがかかっているのだろう。


 炉のそばには美凰が座っていた。黙ってお茶を啜っている。こちらを見ない。


 昨夜のことなど何もなかったかのような平静な顔をしているが、首筋がわずかに赤い。


「座れ。」


 美凰は短く言った。


「冷める。」


「はい。」


 前田は膳の前に座った。


 朝餉(あさげ)は質素だった。


 蒸した粟に干し野菜の汁物。


 木の実を甘く煮たもの。


 それでも、華麟が丁寧に整えたのだと分かる食事だった。


「今日の予定ですけど。」


 華麟が膳を置きながら言った。


「まず華胥(かしょ)の仙境へ向かいます。」


「かしょ?」


「はい。華胥です。仙術の基礎を学ぶ場所としては、かなり安全です。結界も強いですし、外部から見つかりにくいです。」


 もちろんそれを聞いても前田には何のことだかわからない。古代中国の伝説の国の存在など、前田の教養にはない。


 いや、そんな伝説を知っていたところで、現実の異世界でどれだけその知識が役に立つかは未知数であったが。


「この庵より安全なんですか?」


「安全の種類が違います。」


 美凰が茶碗を置いた。


「ここは隠れ家だ。華胥の仙境は修行場だ。逃げ込む場所ではないが、霊力を扱うには適している。」


「なるほど。」


 前田は粟を口に運んだ。


 噛むほどに淡い甘みが出る。元の世界の白米に比べれば粗いが、嫌いではなかった。


 華麟は続ける。


「それから、彩比売殿下への正式なご挨拶の日取りも決めないといけません。前田様は正式な聖別を受けた素王ですから、いつまでも山の中に隠れているわけにはいきません。」


 彩比売――自分が夫候補にされている相手。


 前田はまだ彼女に会っていない。


 十六歳だと聞いている。


 その年齢で、女系法皇を認めない派閥から圧力を受け、異母弟への譲位を求められ、夫の存在まで政治問題にされている。


 前田は想像しようとした。


 だが、できなかった。


 自分が二十三歳の会社員だった頃、政治や血統や宗教権威の渦中に立つ十六歳の少女など、想像したこともなかった。


「その前に。」


 美凰が前田を見た。


「一つ確認する。」


「何ですか?」


「お前は元の世界で何の術も使えなかった。そうだな?」


「当然です。」


 使えてたまるものか。元の世界で本当に仙術が使えていたら大騒ぎになっていただろう。


「だが、この世界に召喚された時点で純仙になっている。さらに昨日、華麟と私の聖別を受けた。」


「はい。」


「身体の内側に、熱いものが巡っている感覚はあるか?」


 前田は手を見下ろした。


 確かにある。


 昨日からずっと、身体の奥に細い熱が流れている。


 血液とは違う、呼吸とも違う。


 もっと深いところを通る流れ。


 意識すると、丹田のあたりが温かくなる。


「あります。」


「動かせるか?」


「たぶん。」


「やってみろ。」


 前田は少し迷った。


 昨夜から、何となくできそうな気がしていたことがある。


 元の世界で読んだ仏典や説話に出てくる理仙、リシ、仙人たち。


 空を行き、身体を軽くし、遠くを見る。


 それらは現実には物語の中の出来事だった。


 しかし、この世界に来てから、どういうわけか、その概念が身体の内側で形を持ち始めている。


 前田は呼吸を整えた。


 足裏の感覚をゆっくり薄くする。


 地面に預けていた重さを、ほんの少しだけ内側へ引き上げる。


 身体が浮いた。


 ほんの数寸。


 だが、確かに床から離れた。


 華麟が持っていた盆ががたんと揺れた。


「え?」


 華麟の目が丸くなる。


 頬についていた粟粒が落ちた。


「ええっ!? もう浮けるんですか!?」


 美凰も動きを止めていた。


 驚きを表に出さないようにしているのは分かる。だが瞳がわずかに開いている。


「術式なしの浮遊か。」


 美凰は低く呟いた。


「しかも、安定している。」


 前田はゆっくり床へ降りた。


「こういうのなら、何となくできます。元の世界の仏典に出てくる理仙みたいなことは、基本的にできそうな気がします。」


「理仙?」


 華麟は感動したように両手を合わせた。


「すごいです、前田様! 普通の純仙でも浮遊は修行を積まないと難しいんですよ!」


「でも少し浮いただけですよ?」


「それがすごいんです!」


 美凰は立ち上がり、前田の周囲をゆっくり歩いた。


 観察するような目だった。


「異世界から来た素王には、この世界の術式体系に縛られない力があると言われてきた。だが、ここまで早いとはな。」


「危険ですか?」


「危険だ。」


 美凰は即答した。


「力があることと、制御できることは別だ。お前は今、刃物を握った幼子に近い。」


「例えが怖い。」


「怖い方がいい。過信するな。」


 華麟も真剣な顔で頷いた。


「理仙の術が元の世界で高度なものだったなら、なおさらです。前田様の体は純仙になっていますけど、心と経験はまだ元の世界のままです。力だけ先に動くと、体を壊したり、周りを傷つけたりします。」


 前田は頷いた。


 浮いた時の感覚は心地よかった。


 だが、その心地よさの奥に、底の見えない深さもあった。


 少し間違えれば落ちる。


 あるいは、自分でも知らない方向へ飛んでいく。


 そんな予感があった。


「では予定変更だ。」


 美凰が言った。


「華胥へ行く前に、ここでお前の力の底を少し測る。」


「いきなりですか?」


「いきなりではない。必要だからだ。」


「美凰の言い方は厳しいですけど、その通りです。」


 華麟が優しく言う。


「まずは安全な範囲で試しましょう。」


第二章も皆様のお蔭で無事書けており、ありがとうございます!


ブックマークや評価をしていただけますと幸いです!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ