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19 変わらずに生き残るためには、自ら変わらなければならない

 同じ頃、飛天宮――


 それは贅を尽くした建物だった。


 紫檀の柱、絹の衝立、翡翠を埋め込んだ床、香炉から立ちのぼる甘い香り。


 召喚されたばかりの異世界人を迎えるには、あまりにも豪奢だった。


 だが綾子は、その贅沢に飲まれてはいなかった。


 寝台の上に腰を下ろし、腕を組み、扉の前に立つ泰鳳を冷ややかに見ていた。


「だから!」


 綾子は言った。


「寝室に勝手に入らないで!」


 泰鳳は困った顔をしていた。


 総漢国の鳳凰たちを率いる若き実力者にして、謁見の間では尚英大王を相手に一歩も引かなかった男。


 その泰鳳が、今は一人の女に完全に押されている。


「誤解だ。」


 泰鳳は言った。


「同衾しようという話ではない。護衛と聖別後の状態確認のために、近くに控える必要がある。」


「同じ部屋に男がいる時点で却下。」


「私は鳳凰だ。」


「男の姿をしているでしょう?」


 綾子は即答した。


「それに、あなたが鳳凰だろうと何だろうと、初日から寝室に入ってくる時点で論外!」


 泰鳳は言葉に詰まった。


 彼にとっては合理性の問題だった。


 召喚した素王の安全を守る。


 綾子の霊力の流れを確認する。


 そのため近くにいる。理屈は通っているはずだった。


 だが綾子にとって、理屈以前の問題だった。


「私、育ちの良い男にしか興味ないの。」


 綾子は寝巻きの襟元を正しながら言った。


「初対面で女の寝室に入ろうとする男は、どれだけ偉くても育ちが良いとは言わない。」


 泰鳳の眉がわずかに動く。


「そもそも初対面ではなく数日前に召喚してから一緒にいるはずだが。」


 怒りではない。


 困惑だった。


「変わらないわ?付き合ってもいない男と寝ろと?」


「同衾など求めていない。私は礼を失したつもりはない。」


「失している側はだいたいそう言うわ。」


 綾子の声は冷たい。


「それに私には杏麟がいる。あなたが近くにいる必要はない。」


 その時、廊下から楽しげな声がした。


「その通りですわ!」


 扉の外に立っていた杏麟が、するりと中へ入ってきた。


 泰鳳と共に佐藤綾子を召喚した張本人の女性麒麟。


 柔らかな笑みを浮かべているが、その目は泰鳳に勝ち誇っていた。


「泰鳳殿には申し訳ありませんけれど、綾子様のお部屋は私が見ます。」


「杏麟。」


 泰鳳の声が低くなる。


「これは遊びではない。」


「分かっています。」


 杏麟は微笑んだまま答えた。


「だからこそ、綾子様が安心できる形にすべきでしょ?」


 綾子は杏麟を見る。


「あなたからも言ってやって。常識がないのよ。」


「ええ、ええ。綾子様のおっしゃる通りです。」


 杏麟は泰鳳に向き直る。


「泰鳳殿。今夜はお引き取りください。護衛は廊下の外で十分です。」


 泰鳳はしばらく沈黙した。


 やがて深く息を吐く。


「分かった。」


 そして綾子を見た。


「明日、尚英大王との謁見がある。準備をしておけ。」


「謁見?」


 綾子の目が細くなる。


「するとは言ってないけど。」


 泰鳳は眉をひそめた。


「何?」


「敵とわざわざ会う気はないと言ったの。」


 部屋の空気が変わった。


 杏麟の笑みもわずかに薄くなる。


 泰鳳は静かに綾子を見る。


「尚英を敵と呼ぶか?」


「違うの?」


 綾子は寝台から立ち上がった。


 その所作には、育ちの良さがにじんでいる。


 だが目は冷たかった。


「私をこの世界に引きずり込んだ目的は、魔王討伐だけじゃないでしょう。総漢国の大王を代えるため。つまり、いつか尚英を引きずり下ろすつもりなのよね?」


 泰鳳は答えなかった。


 杏麟が代わりに口を開く。


「ええ。」


 あっさり認めた。


「少なくとも泰鳳殿は、そのつもりです。」


「杏麟!」


 泰鳳が咎めるように言う。


「隠しても仕方ありませんわ。綾子様は馬鹿ではありませんもの。」


 杏麟は綾子の隣に座った。


「尚英は重税で民を苦しめています。魔王討伐に固執し、成果を出せず、それでも税を下げない。総漢国のためには、彼を退かせる必要があります。」


 綾子は鼻で笑った。


「やっぱりね。」


「不快ですか?」


「不快というより、確認できてよかったわ。」


 綾子は杏麟を見た。


「ただし、私は傀儡になるつもりはない。」


「もちろんです。」


 杏麟はにっこり笑う。


「綾子様には、綾子様の政治をしていただきます。」


「口では何とでも言える。」


「では行動で示します。」


 杏麟は泰鳳を横目で見た。


「そのためにも、明日の謁見は必要です。」


「敵と会うため?」


「敵を知るためです。」


 泰鳳が静かに言った。


「尚英を倒すにも、退かせるにも、懐柔するにも、まず本人を見なければならない。」


 綾子は泰鳳を見る。


「選択肢は?」


 杏麟が指を三本立てた。


「一つ。法皇に上奏し、尚英を廃位させる。」


「血は?」


「流れにくい。ただし時間がかかります。」


「二つ目は?」


「軍事的圧力。」


「血が流れる。」


「はい。」


「三つ目。」


 杏麟は少し間を置いた。


「尚英自身に退位を選ばせる。」


 綾子は目を細めた。


「それができると思う?」


「弱点次第です。」


 泰鳳が言う。


「尚英には誇りがある。魔王討伐への執着もある。そこをどう扱うかで変わる。」


「面倒ね。」


「政治とはそういうものです。」


 綾子は黙った。


 数秒、考える。


 そして寝台へ戻る。


「分かった。明日会うわ。」


 泰鳳はわずかに安堵したようだった。


「助かる。」


「ただし。」


 綾子は指を立てた。


「私はあなたたちの言いなりにはならない。尚英が本当に救いようのない暗君かどうかは、私が見て判断する。」


 泰鳳の表情が引き締まる。


「それでいい。」


「いいの?」


「傀儡が欲しかったわけではない。」


 泰鳳はそう言った。


 その言葉だけは、綾子にも嘘ではないように聞こえた。


 やがて泰鳳は部屋を出た。


 扉が閉まる。


 杏麟は満足げに笑った。


「ようやく二人きりですわね。」


「あなたも十分面倒よ?」


 綾子は冷たく言った。


「私は女性ですから同衾しても問題ありませんわよね?」


「ダメに決まっているでしょ!」


 気色を代えて言う綾子を見て、杏麟は楽しそうに笑う。


 夜着に着替えた後も、綾子は眠ろうとしなかった。


 異世界に召喚され、素王になった。素王は王位につかない王と聞いていた。つまり実権の無い名ばかりの王のはずだった。


 ところが、大王候補にされている。


 普通なら混乱して当然だった。


 だが綾子は、混乱を外へ出さなかった。


 不安はある。恐怖もある。


 帰りたい気持ちもないわけではない。


 しかし、それを見せれば利用される。


 綾子はそういう世界で育った。


 裕福な家、整った教育、上品な人間関係。


 だが、そこにも序列と計算はあった。


 誰と親しくするか、誰に見られるか、誰に見下されるか、誰を選び、誰を選ばないか。


 綾子はその中で、自分の価値を守る術を身につけてきた。


 これまでの綾子は上流階級の暗黙のルールを意図的に無視して生きてきた。自分の感性を最優先にして生きていた。


 しかし、自分の感性を守るために最大限の努力をしてきた。


 努力をせずに自分の好き勝手にはできない。我儘をするためには、我儘になるための努力が必要なのだ。


「ねえ、杏麟?」


「何でしょう。」


「この世界では、召喚術は学問として成立しているのよね?」


「ええ。」


「つまり、あなたたち以外にも素王を召喚できる者がいる。」


 杏麟は感心したように目を細めた。


「本当に飲み込みが早いですわ。」


「褒めなくていい。答えて?」


「理論上は可能です。麒麟と鳳凰が揃えば理論上は上位個体ではなく幼い麒麟と鳳凰でも召喚術の行使は可能です。もちろん召喚術は高度な技術なので、法的制約はもちろんありますが、物理的にも上位個体でないと困難ですが。」


「実際に、私以外にも召喚されている?」


 杏麟は少しだけ黙った。


 綾子はその沈黙を見逃さなかった。


「いるのね?」


「はい。」


「何人?」


「把握している限りでは、少なくとも一人。」


「誰?」


 杏麟は答えた。


「前田弘貴。」


 綾子の表情が止まった。


 その名は、あまりにもこの世界に似合わなかった。


 紫檀の柱、絹の衝立、鳳凰、麒麟、大王、法皇――この世界では上流階級に位置する世界に綾子はやってきた。


 その中に突然、元の世界の上流階級とは正反対の名前が落ちてきた。


「……前田くん?」


「ご存知ですか?」


 杏麟が首を傾げる。


 綾子はしばらく黙っていた。


 やがて、深い息を吐く。


「知っているわ。」


 声は低かった。


「元の世界での知り合い。」


「それだけ?」


 杏麟の目が楽しそうに細くなる。


「それだけよ。」


 綾子は即答した。


 だが、少し早すぎた。


 杏麟はそれを見逃さなかった。


「恋人?」


「違う。」


「では、元恋人?」


「違う。」


「片想い?」


 綾子の眉が動いた。


「前田くんが、ね。」


「あら。」


 杏麟は微笑む。


「綾子様に?」


「そう。」


「振ったのですか?」


「ええ。」


 綾子は腕を組んだ。


「私、育ちの良い男にしか興味ないの。前田くんは悪い人じゃないけど、そういう対象じゃなかった。」


 杏麟は黙って聞いている。


「ただ――」


 綾子は少しだけ言葉を選んだ。


「完全に嫌いだったわけではないわ。弟分みたいなものだった。」


「弟分?」


「そう。」


「その弟分が、今は素王として召喚されている。」


 杏麟の声に、わずかな面白がりが混じる。


「華麟と美凰が召喚したそうです。彩比売殿下の夫候補として。」


 綾子の目が鋭くなる。


「彩比売殿下?」


「次期法皇です。」


「つまり前田くんは、皇太子の夫候補?」


「そうなります。」


 綾子は黙り込んだ。


 あの前田くんが、皇太子の夫候補。


 あまりにも不釣り合いで、笑いそうになった。


 だが、笑えなかった。


 なぜなら、この世界では不釣り合いなことが現実になる。


 自分が大王候補にされているのだから。


「面倒ね。」


 綾子は呟いた。


「前田くんは私たちの敵になるの?」


「今のところは、立場が違います。」


 杏麟は答えた。


「華麟は彩比売殿下を支えたい。美凰は尚英側に近い。泰鳳殿は尚英を退かせたい。ですから、前田弘貴様がこちらに与する可能性は低いでしょう。」


「前田くん本人は?」


「そこまでは分かりません。」


 杏麟はにこりと笑った。


「でも綾子様は、彼の扱い方をご存知なのでは?」


 綾子は苦い顔をした。


「扱い方って。」


「お知り合いなのでしょう?」


「あの人は単純よ。」


 綾子は言った。


「おだてれば動く。恩を売れば返そうとする。誰かに必要とされると弱い。」


「便利ですね。」


「犬みたいなものよ。」


 前田は確かに単純だった。


 育ちが悪く、洗練されておらず、自信もなく、こちらの何気ない言葉に一喜一憂した。


 男として見ることはできなかった。


 だが、悪い人ではなかった。


 むしろ、あの素直さを少し羨ましいと思ったことすらある。


 綾子はその感情をすぐに押し込めた。今は感傷に浸る時ではない。


「杏麟。」


「はい。」


「前田くんと会うことになる?」


「いずれは。」


「なら、その前に情報を集めて。」


「どのような?」


「華麟、美凰、彩比売殿下。前田くんが今どこにいて、誰に守られていて、何を教えられているか。」


 杏麟は満足そうに微笑んだ。


「承知しました。」


「それと。」


 綾子は目を伏せる。


「前田くんを侮りすぎないで。」


 杏麟が意外そうに見る。


「綾子様がそうおっしゃるのですか?」


「あの人は単純だけど、馬鹿ではないわ。」


 綾子は静かに言った。


「追い詰められると、妙に粘るところがある。」


 それは、綾子自身も忘れていた記憶だった。


 前田は何度拒まれても、完全には折れなかった。


 惨めなくらい傷つきながら、それでも人を恨みきれないところがあった。


 それを弱さと見るか、強さと見るか。


 綾子にはまだ分からなかった。


 だが一つだけ確かだった。


 前田弘貴がこの世界にいる。


 その事実は、綾子の計算を少しだけ狂わせた。


 窓に外に広がる総漢国の都。


 重税に苦しむ民の国。


 尚英の国。


 泰鳳が変えようとしている国。


 そして今や、綾子自身が奪うかもしれない国。


 その遠い山中に、前田弘貴もいる。


 別々の陣営に召喚された二人の素王。


 かつて同じ世界で交わらなかった二人の人生が、異世界で再び交わろうとしていた。



これで第一章は終わりです!


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