16 可愛いのが悪い
午後は実技だった。
といっても、最初から派手な仙術を使うわけではない。
美凰が用意したのは、木剣と縄と石だった。
「まず体を動かす。」
「霊力じゃなくて?」
「霊力は体を通る。体が使えなければ霊力も使えない。」
美凰は当然のように言う。
「走れ」
そこから数時間、前田は山の中を走らされた。
いや、走るというより、転びながら進んだ。
斜面を登る。
沢を渡る。
倒木を越える。
足場の悪い山道を何度も往復する。
元の世界の前田なら十分で倒れていたはずだ。
だが、今の身体は違った。
息は上がる。
汗も出る。
足も痛い。
それでも動ける。
自分の体ではないようだった。
「純仙の肉体は人間より頑丈だ。」
美凰が横から言う。
「正式な聖別を受けたことで、霊力の流れも安定している。お前が思っているより体は動く。」
「すごいですね、これ。」
前田は肩で息をしながら言った。
「元の世界だと運動は全然駄目だったのに。」
「調子に乗るな。」
「はい。」
「だが、悪くない。」
美凰が小さく言った。
前田は顔を上げる。
「今、褒めました?」
「事実を言っただけだ。」
華麟が横から笑う。
「みおうの褒め言葉ですよ、それ。」
「黙れ。」
その後、霊力の基礎訓練に入った。
これは肉体訓練より難しかった。
美凰は「丹田に意識を置け」と言う。
華麟は「大地の流れを感じてください」と言う。
前田にはどちらも分からない。
ただ座り、呼吸を整え、内側の温かさを探る。
それは禅寺の座禅に近かった。
前田はかつて、短期間だが座禅を経験したことがある。雑念を捨てろと言われても、捨てようとするほど雑念が湧いた。足が痺れ、背中が痛み、時間ばかり気になった。
だが今は違う。
聖別を受けたせいか、自分の内側に細い流れがあることが分かる。
それは水脈のようでもあり、呼吸のようでもあった。
華麟の気配が近づく。
《前田様。》
声ではない。
思念だった。
《その流れを無理に掴もうとしないでください。掴むのではなく、沿うんです。》
《沿う?》
《はい。川に手を入れるように。》
前田は目を閉じたまま頷いた。
しばらくして、美凰の思念も届く。
《華麟は感覚で言いすぎる。お前はまず呼吸を数えろ。四で吸い、四で止め、八で吐け。》
《分かりました。》
前田は言われた通りにする。
少しだけ、胸の奥のざわつきが落ち着いた。
これまでも思念のやり取りはあった。
だが今は、それよりもずっと鮮明だった。
声に近い。
けれど声ではない。
言葉より先に、相手の気配が届く。
華麟の思念は温かく、少し跳ねるようだった。
美凰の思念は鋭く、無駄がない。
同じテレパシーでも、まるで筆跡が違うように個性があった。
「一度、声に出さず送ってみろ。」
美凰が言った。
「どちらに?」
「まず華麟に。」
「はい。」
前田は華麟を見る。
華麟は期待に満ちた目で待っている。
前田は少し迷った。
そして、思念を送った。
《華麟さん、聞こえますか?》
華麟の肩がぴくりと跳ねた。
「聞こえました!」
華麟は嬉しそうに声を上げる。
「すごくはっきり聞こえました!」
「成功ですか?」
「成功です!」
華麟はにこにこしている。
「じゃあ、次はもっと自然に送ってみてください。言葉を作るというより、思ったことを届ける感じで。」
「思ったことか・・・。」
前田は華麟を見た。
朝からずっと、自分のために動いてくれている。
召喚した張本人ではある。
そのせいで大変な目に遭っているとも言える。
だが、前田を道具としてだけ見ているわけではないことは、もう分かっていた。
前田はふっと思った。
この人は、可愛いな。
その瞬間。
華麟の顔が真っ赤になった。
「えっ!」
華麟が両手で頬を押さえる。
「い、今、頭の中に・・・。」
前田はすぐに察した。
「あ・・・。」
本当に思ったことが届いてしまうようである。これからは、間違っても下ネタを想像することはできないという、如何にも仙人らしい苦行が科せられることを前田は理解した。
美凰の目が鋭くなる。
「何を送った?」
「いや、その。」
前田は目を逸らした。だが、内心では華麟の反応を見てちょっとした悪戯心が生まれた。
華麟は口をぱくぱくさせている。
「な、なんでもないです! 練習です! 前田様がテレパシーの練習をしただけで!」
「私には届かなかったが。」
美凰が言うと前田は露骨に安心した顔をした。どうも明確な対象のことを思い浮かべない限りは大丈夫らしい。
「華麟だけに送ったのか?」
「たぶん。」
「次は私に送れ。」
美凰の声音は平静だった。
だが、なぜか華麟がにやにやし始めた。
「美凰、自分にも送ってほしいんですね?」
「訓練だ。」
「はいはい、訓練ですね。」
「華麟?」
「ごめんなさい。」
前田は気まずく咳払いした。
そして美凰を見る。
美凰は腕を組み、まっすぐこちらを見ている。
前田は思念を整えた。敢えて明るい口調になるようにイメージして。
《美凰さん、よろしくお願いします!》
美凰の動きが止まった。
本当に止まった。
手にしていた木剣がわずかに傾く。
落としかけたそれを、美凰は慌てて握り直した。
耳が赤い。
首筋まで赤い。
華麟が目を輝かせる。
「あれー? 美凰、顔赤いですよ?」
「暑いだけだ。」
「今日はそんなに暑くないですよ?」
「黙れ。」
美凰は木剣を振ろうとした。
だが三振り目で力加減を誤り、木剣が手からすっぽ抜けて飛んでいった。
数秒の沈黙。
華麟がぽつりと言う。
「美凰が物を落とすところ、初めて見ました。」
「拾え。」
「はいはい。」
華麟が木剣を拾いに走る。
美凰は顔を背けたまま、小さく呟いた。
「律儀な男だ。」
「聞こえてますよ?」
「聞くな。」
前田は苦笑した。
この世界の緊張感の中で、こういう時間があることが不思議だった。
死ぬかもしれない。
政争に巻き込まれている。
魔王という千年来の敵がいる。
それでも、人は照れたり、からかったり、笑ったりする。
その当たり前のことが、前田には少しだけ救いだった。




