14 夜明けの前に戻りたい
正式な聖別を終えた後、前田は庵に戻った。
すると華麟が紫色の衣装を出してきた。
「これが朝服と言ってこの世界での正装になります。」
「朝服?」
「律令で定められた服装ということになります。」
すると美凰が口を挟んだ。
「衣服令という法律で服装については細かく決まっている。従二位以上の位階を持つものと親王や大王、素王は深紫色の朝服か礼服という服装を着ることが義務付けられている。」
「なるほど・・・。」
前田は律令の位階制度についてはよく理解できないまま、その朝服を着ようとした。
「着方が――」
「手伝います。」
華麟が着付けを手伝ってくれた。
「あれ、意外とゆったりしているな。」
「そりゃそうだ。全く実用性のない服で勤務などできない。」
そう言いながら美凰が木椀の入ったお盆を持ってやってきた。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
中身は薬草茶である。香りは悪くない。少し苦く、少し青い。元の世界で飲んだどの茶にも似ていないが、山の冷気に冷えた体にはありがたかった。
朝の聖別の余韻は、まだ身体の奥に残っている。
胸の内側に細い糸が二本通ったような感覚があった。
一本は華麟へ。
もう一本は美凰へ。
相手の心が読めるわけではない。何を考えているかまで分かるわけでもない。ただ、近くにいると分かる。気配の輪郭が、以前よりはっきりしている。
お茶を飲みながら周囲を見る。
着付の手伝いを終えた華麟は庵の中で保存食を整理している。
美凰は再び外に出て周囲を警戒している。
庵の外など見えるはずがないのだが、見ていなくても、それが分かった。
不思議だった。
だが、怖さはなかった。
むしろ、少し安心した。
この世界に来てから、前田はあまりにも多くのものを失った。職場も、家も、スマートフォンの電波も、元の世界の常識も。だが代わりに、自分を守ろうとする二つの気配がすぐそばにある。
それは、心細さを完全に消してはくれない。
けれど、孤独だけは少し遠ざけてくれた。
「前田。」
庵の扉が開き美凰が戻ってきた。
手には木簡を数枚持っている。
「休憩は終わりだ。講義を始める。」
「講義?」
前田は思わず顔をしかめた。
「修行って、剣を振ったり霊力を使ったりするものじゃないんですか?」
「それもやる。」
美凰は当然のように言った。
「だが、お前が無知のまま力だけ持てば、ただの危険物だ。」
反論はできない。身の程を超えた力を持つと破滅することは、サラリーマン時代に嫌と言うほど見てきた。
「危険物か・・・。」
「褒めてはいない。」
「分かってますよ。もっとも、前の世界では自滅するぐらい力がある人がうらやましかったんですけどね。」
それを聞くと美凰が顔を顰めた。
「そういう手合いが一番危うい。これまで何人の素王がそうやって散っていったか。」
「あ、異世界でもそこは一緒なんですね。」
華麟が庵の奥から顔を出した。
「前田様は昨日まで別の世界にいたんですから、最初は分からなくて当然ですよ。美凰は言い方がきついんです。」
「甘やかすな。」
「甘やかしてません。励ましてるんです!」
「同じだ。」
「違います!」
二人のやり取りは、昨日より少しだけ柔らかく見えた。
正式な聖別が終わったからだろうか。
それとも、前田が二人の気配を感じ取れるようになったせいだろうか。
美凰の言葉は相変わらず冷たい。だが、その根元にあるものが敵意ではないことは、もう分かる。
華麟の明るさも、単なる能天気ではない。
彼女は不安を隠すように笑う。
そのことも、少しずつ分かってきた。
庵の中の小さな机に、木簡と巻物、それに本が広げられた。
華麟が前田の隣に座り、美凰が正面に立つ。
完全に授業だった。
前田は会社員時代の研修を思い出したが、内容の重さは比べ物にならなかった。
「まず魔王について整理する。」
美凰は木簡の一つを指で叩いた。
「魔王は、怪物でも悪魔でもない。帝国の制度から生まれた反逆的な権威だ。」
「要するに、元は伯王だった波旬という仙人なんですよね?」
前田は確認するように言った。
「法皇に任命された高位者で、神学や秘術を統べる立場だった。でも、皇身位者より神々が上だとか、仏教より魔法が上だとか言い出して、自分で魔王を名乗った。」
華麟がぱっと顔を明るくした。
「すごいです、前田様。もうかなり理解されています。」
「幸い、本を読むのは得意ですので。」
漢字のような表語文字や表意文字は比較的翻訳されやすい。仙人は多言語の意味を把握する能力が発達しているので、特にそれが容易なのだ。
「それが大事なんです!」
華麟は嬉しそうに言った。
美凰もわずかに頷く。
「おおむね正しい。ただし、波旬が問題だったのは、単に異端の教義を唱えたからではない。」
「ほかにも?」
「権能を持っていたからだ。」
美凰は淡々と続けた。
「法皇、天皇、地皇、人皇、斎王、魔王、法王は、純仙ではない者を登仙によって成仙にする能力を持つ。これは官僚制や貴族制を支える力でもある。高級官僚には仙人しかなれないからな。」
「つまり、人事権に近いんですね?」
「そうだ。」
美凰の目が少し鋭くなる。
「波旬は伯王だった時代に、その力を得た。そして離反後も、死ぬまではその力を失わなかった。さらに死ぬ前に息子へ魔王位を譲った。結果、魔王は世襲され、代々成仙を生み出し続ける勢力になった。」
前田は黙り込んだ。
魔王討伐。
その言葉は、元の世界の物語では単純だった。
悪い魔王を倒す。
勇者が剣を持って城へ向かう。
しかし、この世界では違う。
魔王は、制度の外にいる怪物ではない。
制度から分裂した、もう一つの権威なのだ。
「だから千年倒せない。」
前田は呟いた。
「相手は個人じゃなくて、制度と人材を持つ勢力だから。」
「そういうことだ。」
美凰は短く答えた。
華麟は少し暗い顔で木簡を見つめる。
「歴代の素王も挑みました。でも、魔王本人に届かなかった人も多いです。配下の成仙に阻まれたり、情報戦で潰されたり、味方のはずの朝廷内で足を引っ張られたり。」
「味方に?」
「はい。」
華麟は小さく頷いた。
「素王が本当に魔王を倒してしまったら、困る人もいるんです。」
「なぜ?」
「魔王討伐を名目に予算や権限を得ている者がいるからだ。」
美凰が言った。
「私たちも一緒だ。素王は血統政策にも使われる。皇族や王族に新しい血を入れる存在としてな。魔王討伐が達成されれば、素王召喚の大義は一つ減る。」
前田は思わず苦笑した。
「どこの世界も、名目と本音が違うんですね。」
「お前の世界でもそうだったのか?」
「たぶん、かなり。」
美凰はそれ以上聞かなかった。
前田も言葉を飲み込んだ。
元の世界でも、理想を掲げる制度が現実には利害で動くことは多かった。会社でも、政治でも、組織でも。きれいごとと本音は常にずれていた。
だが、この世界では、そのずれが命に関わる。
自分はその中心に引きずり込まれたのだ。
「それで――」
前田は顔を上げる。
「華麟さんは、私を彩比売殿下の夫にしたい。美凰さんは、魔王討伐も本気で考えている。二人は目的が違うんですよね?」
華麟は少し困ったように笑った。
「違いますね。」
「認めるのか。」
美凰が横目で見る。
「だって本当ですし。」
華麟は悪びれない。
「私は、前田様を彩比売殿下の夫にして、殿下の法皇即位を支えることを最優先に考えています。魔王討伐もできればいいと思っていますけど、政争の方が先です。」
「正直ですね。」
「前田様には隠したくないので。」
華麟の言葉は素直だった。
その素直さが、前田には少し眩しかった。
美凰は腕を組む。
「私は魔王討伐も軽視しない。だが今は、泰鳳と佐藤綾子の動きを抑えることが先だ。尚英が暗君であることは否定しないが、総漢国が内乱になれば魔王に隙を与える。」
「本当に二人、目的も性格も違うんですね。」
前田がそう言うと、華麟はくすくす笑った。
「でも仲良しですよ。」
「仲良しではない。」
美凰が即座に否定する。
「古い付き合いというだけだ。」
「またそういうこと言う!」
「事実だ。」
「みおうは昔から素直じゃないんです。」
「余計なことを言うな!」
美凰が華麟の額を指で弾いた。
「あうっ。」
華麟が額を押さえる。
前田は思わず笑った。
張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
だが、前田の胸には別の重さが残っていた。
しかもあの佐藤綾子が、もう一人の素王として泰鳳の側にいる。
昨日聞いた時の衝撃は、まだ消えていなかった。
ただ、その衝撃は少しずつ別の感情に変わりつつある。
驚きではない、不安でもない、劣等感に近いものだった。
綾子なら、この世界でもうまくやるだろう。
あの人はいつもそうだった。
自分より早く状況を読み、自分より堂々と振る舞い、自分より上の場所に立つ。
それが分かっているから、前田は怖かった。
各話のタイトルのつけ方はちょっと試行錯誤しています。




