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13 素王・佐藤綾子

 そのころ、総漢国図書寮(ずしりょう)――


 総漢国図書寮は、大王宮の外郭に近い官庁街の一角にあった。


 役所というより、寺院か学問所に近い雰囲気の建物である。白壁と黒い柱で造られた重厚な門の奥には、いくつもの蔵が並び、その蔵を結ぶ回廊には、朝の光が斜めに差し込んでいた。


 湿気を避けるためか、床は高く造られている。回廊の下には白い砂利が敷かれ、歩くたびに衣擦れと足音だけが静かに響いた。


 門の前には、警備の官人が二人立っている。


 そこへ、緑を基調とした(きら)びやかな着物を着た女性が、当然のような顔で歩いてきた。


「ここは身分のある者しか立ち入れない場所であって――」


 門番は一歩前へ出て、形式通りに制止しようとした。


 しかし、その女性――佐藤綾子は、眉一つ動かさない。


「あら?素王の身分だと不足だと言いたい訳?」


 門番の顔色が変わった。


 彼の視線が、綾子の後ろに控える杏麟と枝野利久へ向く。杏麟はにこやかに頷き、枝野は目を逸らした。要するに、事実である。


「そ、素王殿下!?そうとは知らずに失礼しました!」


 図書寮の門番が冷や汗を盛大に書きながら頭を下げて、緑を基調とした煌びやかな着物を着た女性を通す。


 綾子は当然のように門をくぐった。


 その後ろを、杏麟は誇らしげに歩き、枝野は頭痛を堪えるように額を押さえながら続いた。


「素王殿下、ですからこういうところへ来るときは紫衣(しい)を来ませんと――」


 枝野は小声で注意した。


 図書寮の回廊を行き交う官人たちが、綾子の衣をちらちらと見ている。誰も声には出さないが、その視線には明らかに戸惑いがあった。


 緑の衣は美しい。


 しかし、素王が着るべき色ではない。


「なに?枝野は私がかわいい服を着たいというのが良くないと言いたいの?」


 綾子は振り返った。


 その声は穏やかだったが、反論を許さない響きがあった。


「枝野さん、綾子様のご希望を叶えるのが我々の務めですわよ?」


 杏麟も微笑みながら枝野に言う。


 佐藤綾子と杏麟に言われて枝野利久は不承不承頷きながら小声で言う。


「なんでもありになってしまっている。」


 律令国家である大倭帝国にファッションの自由などと言う概念は存在しない。


 男性官吏の朝服と比べて女性の服装の自由度は高いとはいえ、それでも紫色が最上位でその次が緋色、その次に緑色、その次が縹色、庶民は黄色で賤民は橡色(つるばみいろ)(紺黒色)と決められていた。


 素王は実権の無い王者という語義の通り素王であることになんら権限は附随しないが、権威は親王や大王と同格であるという建前である。そのため、紫色の衣を着るのが習わしだ。


 もっとも素王は要するに異世界から召喚されたものであるから、紫衣がこの世界では高級だから着よ、と言われても全員が納得するわけではない。


 綾子は現代日本の感覚で、かわいい服を着ているだけである。


 しかも彼女の場合、単に文化の違いを知らないのではない。知った上で、自分の美意識を優先している。


 そこが枝野には余計に厄介だった。


「綾子様、なんでもありでも良いのですよ?」


 杏麟が綾子を肯定するような言葉を言う。


「杏麟様!それは――」


「だって綾子様は素王ですもの。古い慣例に縛られないところも、異世界から来られた方の尊さではありませんか?」


「尊さで官制を破壊しないでください!」


「破壊ではありませんわ。刷新ですわ。」


「言い方を綺麗にしても困るものは困るんです!もういいです、ああもう、民部省に帰りたい。」


「枝野さんは今でも民部省の官吏ですよ?」


「そういうことじゃない!」


 疲れた声で枝野は杏麟に言った。


 その声は、すでに半分ほど魂が抜けているようだった。


 図書寮の中は広かった。


 高い天井まで届く書架がいくつも並び、木箱に収められた書物が整然と置かれている。紙の匂い、墨の匂い、古い木材の匂いが混ざり合い、外の官庁街とは別の時間が流れているようだった。


 壁際には筆写を行う下級官人が座り、机の上で静かに筆を走らせている。


 綾子が入ってくると、彼らは一斉に手を止めた。


 素王――異世界から召喚された者。


 魔王討伐のための存在。


 そして今、総漢国の宮廷に波紋を広げている女。


 視線が集まるのも当然だった。


 しかし綾子は、そんな視線を気にしない。むしろ、見られることに慣れているように、まっすぐ書架へ向かった。


 二人が言い合っている間に綾子は図書を読み漁る。


 最初に手に取った本を、彼女はぱらぱらとめくった。


 紙質を確かめるように指先で撫で、綴じ方を観察し、少し意外そうな顔をする。


「意外に本の形なのね。」


「と言いますと?」


 杏麟が聞くと綾子が言った。


「巻物ばかりだと思っていたわ。」


 現代日本では昔の日本や中国の本は巻物ばかりであったかのようなイメージが定着してしまっているが、それは俗説である。古くから刊本や写本と言った形で今のような綴じたタイプの本は存在した。


 もっとも、この世界の本は現代日本の本とはやはり違う。


 糸で綴じられ、表紙には題名が墨で書かれている。紙はやや厚く、手触りもざらついていた。だが、ページをめくって読むという点では、綾子にとって十分に馴染みのある形だった。


「ところで綾子様は漢字が読めるのですか?」


「バカにしないでよ。漢文ぐらい読めるわよ。」


 綾子は本から目を離さずに答えた。


 そもそも仮名文字で書かれている方が読めなかっただろう。象形文字が起源の漢字はこの世界でも元の世界と似たものがかなり多いが、元々が漢字の崩し字である仮名についてはこの世界と元の世界ではかなり異なる。


 第一、佐藤綾子は元の世界で漢文は習っても仮名文字の崩し字など習っていないから、仮にこの世界と元の世界の仮名が同じものであったとしても読めはしない。いくら天才であっても習っていないものを覚えることはできない。


「流石、綾子様です。」


 杏麟は綾子を肯定することしか言わない。枝野は苦虫を噛み潰したような顔で見ている。


 綾子は一冊目を読み終えると、迷いなく次の本へ手を伸ばした。


 読む速度が異様に速い。


 単に文字を追っているのではない。必要な情報と不要な情報を瞬時に選別し、構造を掴んでいるのだ。


 枝野はその様子を見て、思わず腕を組んだ。


 我が儘な素王。


 そう思っていた。


 実際、我が儘である。


 だが、ただの我が儘な女ではない。理解力も、記憶力も、情報処理能力も常人離れしている。


 だからこそ厄介だった。


「へぇ、この世界では霊的なこともかなり客観的に検証されているのね。」


 元の世界ではイカガワシイ心霊現象とされているようなことについて、真面目に複数人による検証を行った記録などが、この世界の本には少なくなかった。


 霊力の流れを測る方法。


 麒麟や鳳凰の聖別に伴う身体変化。


 召喚術の成功例と失敗例。


 登仙における個体差。


 綾子はそれらの項目を目で追いながら、小さく頷いている。


「ええ、異世界からの召喚など最初は迷信と言われていたものも、麒麟と鳳凰が協力すれば再現可能であることが証明できましたから綾子様をここに召喚することが出来ましたし。」


「ふ~ん。」


 生返事をしながら綾子はもうその本を読み終えて別の本を読んでいる。


 枝野はその本の山を見て、思わず顔を引きつらせた。


 図書寮の官人が恐る恐る近づき、読了済みの本を片づけようとする。だが綾子はちらりと目を向けるだけで、まるで気にしない。


 次に綾子が手に取ったのはかなり分厚い本で、今度は何も言わずに黙々と読んでいる。


 表紙を見た枝野の顔色が変わった。


「杏麟様、あれって『令集解』では・・・。」


「そうね。律令について一から百まで覚える気ですわ。流石は綾子様。」


 杏麟はうっとりしたように言った。


 『令集解』は律令の各学者による解説をまとめた本である。通説派以外の法学者の説も載っているが、今で言うと民法について複数の専門書を並行して読むようなもので、一般人は通常読まない。


 ましてや、異世界から来たばかりの人間が手に取る本ではない。


 普通ならば、まず生活習慣、官職名、身分制度、通貨、暦、礼法あたりから覚える。律令解釈の専門書など、官僚でも必要に迫られなければ読まない。


 しかし綾子は、平然と読んでいる。


 しかも眉をひそめるところを見るに、内容を理解した上で疑問点まで拾っているらしい。


 枝野の背筋に、嫌なものが走った。


「やっぱり綾子様は立ち上がってくれそうね。」


 小声で杏麟は枝野に耳打ちする。


 それを聞いて枝野は高松が昨日言っていた「官吏が反逆に手を貸さないことだ」と言う言葉を思い出した。


 確実に嫌な予感がする。高松の言うことが当たりそうな気がしていた。


 外では、総漢国の官庁街がいつも通りに動き始めている。官人たちは文書を抱えて走り、馬車が門前を通り、遠くで太鼓が鳴る。


 だが、この図書寮の一角だけは別だった。


 そこでは今、異世界から来た女が、この国の法を読み始めている。


 ただ与えられた服や食事に不満を言うだけの客人ではない。


 自分が置かれた世界の仕組みを理解し、その仕組みを利用するために、最短距離で知識を吸収している。


 それは、官吏にとっては頼もしい姿であるはずだった。


 だが枝野には、どうしてもそうは思えなかった。


 知識は力である。


 そして、力を持った素王が何をするかは、まだ誰にも分からない。


 綾子は分厚い本の一節で手を止めた。


 その指先が、律令の条文の上をなぞる。


 彼女の表情には、恐怖も迷いもなかった。


 あるのは、理解しようとする冷静さと、理解したものを使おうとする意思だけである。


 杏麟は嬉しそうにそれを見つめている。


 枝野は深く、深くため息をついた。


 しかし、枝野にはその流れを止める力はないのだ。


ようやくもう一人の素王の登場です!

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