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11 素王の聖別

 前田弘貴が目を覚ました時、庵の中はまだ薄暗かった。


 緊張していると眠りが浅くなることがある。やはり異世界に来るという異常事態で睡眠時間が減っていた。


 入口近くでは、美凰が壁にもたれたまま目を閉じていた。


 眠っているように見えたが、前田が身じろぎした瞬間、その目が開いた。


「起きたか?」


 相変わらずの無愛想な声だった。


「おはようございます。」


「朝だ。支度をしろ。」


 庵の外からわずかに光が漏れている。まだ眠い体を起こして、まずめ時の外に出た。


 夜露を含んだ空気は冷たく、肺に入るたび頭が冴えた。


 華麟の姿はない。美凰に案内されて庵から少し離れた場所に行くと小さな空き地があり、そこに華麟の後ろ姿があった。


 周囲を杉に似た巨木が囲んでいる。湿った土の匂いが漂う。


 華麟は真剣な顔で庵の外で何やら地面に線を引いている。


 前田は昨夜、美凰から聞いた言葉を思い出した。


「明朝、正式な聖別を行う。」


 それは単なる儀式ではない。


 華麟と美凰が、自分を主君として認める契約。そして、自分が素王として歩み始めるための第一歩だった。


 地面には巨大な陣が描かれていた。白い粉で引かれた二重円の内側に複雑な文様が組み込まれている。


 だが前田には意味が分からない。


 文字にも見えるし、図形にも見える。どこか回路図にも似ていた。


「これは?」


「聖別のための補助陣だ。」


 美凰が答えた。


「麒麟と鳳凰の聖別は本来もっと簡素なものでも行える。だが、お前は異世界から来たばかりで霊力の流れも安定していない。それに皇太子の夫ともなるとより強力な術式で聖別を行うのが理想とされる。」


「強力な術式・・・・。」


 聖別にも力の強さがあるらしい。単なる契約ではないようだ。


 華麟が振り返る。


「緊張してます?」


「そりゃあ。」


 前田は苦笑したが、異世界に来た翌日に苦笑で済むところを見ると、中々この世界への適応力が高そうだ。


「昨日まで会社員だったんですよ?」


「昨日まで?」


 華麟が首を傾げた。


「そう、昨日まで。」


 前田は自分で言ってから妙な気分になった。たった一日しか経っていないのに、異世界に飛ばされて、わけのわからないことを説明され、あまりにも多くのものを見た。


 元の世界が遠い昔のようだった。


「中央へ。」


 美凰が言う。


 前田は陣の中心へ立った。


 空気が変わる。不思議な感覚だった。見えない水流の中に入ったような感覚である。


 周囲の大自然と、自分の身体が微かに繋がった気がした。いや、身体と自然の境界が無くなるような感覚、といったらよいか。


 内界と外界の区別が曖昧になったかのような錯覚に襲われる。


 華麟が東側へ進む。


 美凰が西側へ進む。


 二人は向かい合う位置に立った。


 そして、同時に跪いた。


 前田は思わず目を見開く。


 主君と認める契約だからとはいえ、華麟も美凰も自分よりはるかに強く、知識も経験もある存在だ。その二人が地面へ膝をついている――サラリーマン時代の感覚だと、有能な先輩を部下にしてしまったような、恐怖を感じる。


 昨日までの人生では味わったことのない重みを感じてしまった。


 華麟が口を開く。その声は凛としていた。


「我、華麟。麒麟の名において誓う。」


 朝靄が揺れた。


「前田弘貴を我が主君と認める。」


 白い陣が淡く輝く。


「その歩みを助け、その命を守り、その志に従うことを誓う。」


 前田の胸が熱くなった。


 美凰が続く。


「我、美凰。鳳凰の名において誓う。」


 紅い光が生まれる。


「前田弘貴を我が主君と認める。」


 空気が震えた。


「その行く末に忠誠を尽くし、その敵に抗うことを誓う。」


 光が集まる。


 白と紅の光が中央へ流れ込み、前田を包む。


 冬の日向のような温かさを感じ、身体の奥へ何かが染み込んでくる。


 目に見えない回路が繋がるような感覚がして、前田は思わず息を呑んだ。


 華麟と美凰の生命の気配のようなものを感じた気がした。


 華麟が目を閉じる。涙が頬を伝っていた。


「・・・受理されました。」


 安堵したように呟く。


「聖別が成立しました。」


 美凰も深く息を吐く。額には汗が浮かんでいた。


 聖別する側も消耗することに前田は秘かに驚いていた。もっとも、この時に華麟と美凰を観察できる前田は、やはり適応力が高い。


「終わったぞ。」


 美凰が立ち上がる。


「これで正式な素王だ。」


 前田は自分の手を見たが、見た目は何も変わっていない。


 だが何かが違う。気のせいなのか、身体が軽いのだ。


 森の生命が少しだけ近く感じるような気がした。


 純仙になった時とも違う、より世界と繋がった感覚だった。


「体調は?」


 華麟が駆け寄って前田の顔を覗き込む。


「大丈夫です。」


「本当に?」


「はい。」


「頭痛とか?」


「ないです。」


「吐き気は?」


「ないです。」


「息苦しくないですか?」


「ないです。」


 華麟はようやく安心したようだった。


 その様子に前田は笑う。この男の余裕さは、まさに勇者に相応しいものと言えるだろう。なのにこの世界の政界は彼を政略結婚の道具にしようとしているわけだが。


「心配しすぎですよ。」


「だって初めてなんです!」


「初めて?」


「異世界から来た素王への聖別です!」


 華麟は胸を張った。


「私だって緊張するんですよ!」


 美凰がため息をつく。


「お前は少し落ち着け。」


「美凰だって緊張してたじゃないですか。」


「していない。」


「してました!」


「していない!」


 前田は少しだけ笑った。


 昨日まで死ぬほど緊張していたはずなのに、二人を見ていると少し安心する。


「おめでとうございます!」


 華麟が嬉しそうに言った。


「これで私たちの契約も正式なものになりました!」


「契約か・・・。」


「はい!」


 前田は少し考えた。いや、何も考えずに言った。


「なんだか恋人みたいですね。」


 華麟が固まった。


 数秒間、本当に固まった。


「こ、こ、こ、恋人!?」


 顔が真っ赤になる。


「ち、違います! 違いますから!」


 ぶんぶん首を振る。


「聖別はそういうものじゃなくてですね!」


 美凰も顔を背ける。


「馬鹿なことを言うな!」


 前田は思わず吹き出した。


「そんなに慌てなくても。」


 普通はいきなり恋愛ネタをぶち込まれると慌てるか戸惑うかが普通である。前田の基準はやはりどこかずれている。


「慌ててません!」


「慌てているな。」


 美凰が言う。


「美凰!」


「事実だ。」


 空気が少し和らいだ。


 だが美凰はすぐ真顔へ戻る。


「遊んでいる場合ではない。」


 前田も表情を引き締めた。


「そうですね。」


「お前は今、力だけは手に入れた。」


 美凰は言う。


「だが使い方は何も知らん。」


「確かに。」


「修行が必要だ。」


 華麟も頷く。


「霊力の制御も覚えないといけませんし、総漢国の政治も勉強しないといけません。」


「政治か・・・。」


 前田は頭が痛くなった。


「魔王討伐より先にそっちですか?」


「そりゃそうだ。」


 美凰は即答した。


「魔王討伐は建前だと言っただろ。お前の本当の敵は、政界の鵺たちだ。」


政界の鵺って、本当、どんな妖怪よりも怖いですよね・・・・。


(経験者が限られそうなあるある。)

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