103 サリーマンが倫理的なわけがない
華麟は膝を僅かに前へ進め、前田の顔を覗き込んだ。金色の髪が肩から滑り、灯明の光を受けて淡く輝く。
彼女が恐れているのは、前田が歴史の複雑さに嫌気を差すことだけではなかった。東宮の夫となる道を退けば、自分が前田を召喚した最大の目的も失われる。そして何より、前田自身が自分たちの争いへ巻き込まれたことを後悔するのではないかと不安に感じていた。
前田は華麟の表情を見た。
二千年前の戦争を、今の自分が正しく裁けるわけではない。現在の大王家と鳳凰界との争いも、どちらか一方だけが全面的に正しいほど単純ではなかった。
前田は別に政治に関わりたくないと思ったわけではない。前田の空気が変わったのは、鳳凰や麒麟も中立では無いと知ったからなのだが、それを前田が表に出さなかったのは、流石はサラリーマンであった。
「いえ、むしろ頑張らないといけないと思いました。」
前田は笑顔で彼女に告げる。すると華麟は嬉しそうな顔をした。
華麟の肩から力が抜け、金色の瞳が柔らかく細められる。綺凰も張り詰めていた息を静かに吐き、冷めかけた汁椀を前田の前から下げ始めた。
華麟は、前田が東宮の夫となる道から逃げず、帝国の過去を学びながら政治へ向き合う決意をしたのだと受け取った。
その理解は間違っていない。
ただ、前田が何を守るために、どのような政治をするのかまでは、まだ誰にも分からなかった。
同じ笑顔も、その時には今とは違う意味を持つかもしれない。
窓の外では、雨脚が少しずつ弱まっていた。
濡れた大路に宿屋の灯りが細長く映り、増水した川の音だけが夜の宿場へ残っている。
「前田様、大丈夫ですか?」
綺凰は華麟とは違って不安そうな顔をしてきく。前田の変化を本能的に感じ取ったらしい。
「いえ、確かに重い話でしたが、知らないといけないことでしたから。」
そういう前田の姿から全く嫌味を感じさせない。好印象しか抱かないものであった。
だが、綺凰はその前田の姿が一瞬、鵺に見えてしまった。もっとももう一度前田を見るといつもの好青年に戻っていたので、先ほどの印象は錯覚かと思いなおす。
「前田様、お汁を温めなおしてきました。」
華麟が屈託のない笑顔で持ってきた。麒麟は鳳凰とは違い主君を好意的に見る本能があるのだ。況してや、前田は彼氏であるから疑いようがなかった。
「ありがとう!」
前田は恋人の言葉に心からの感謝を述べた。そこに偽りはなかった。




