餞、手向け
朝六時。
カンッ!
カンッ!
紫月の暮らす別邸の道場に、木刀がぶつかり合う軽快な音が響く。
「はぁっ!」
カッ!
雪乃が墨男の木刀を鮮やかに受け流し、そのまま木刀の切っ先を彼の頭へと寸止めすることで、勝負は決した。
「ッ……参りました。」
「肝心なところで力みすぎよ。」
二人は木刀を下ろす。
(今回も負けた回数が多い……)
雪乃との一本勝負は三勝五敗。
墨男は悔しさに、拳を握りしめた。
「でも、腕を上げたわね。」
「まだまだです。」
墨男も相当な腕前だが、純粋な剣技では雪乃に一歩及ばない。
何でもありな実戦では墨男の方が上だが、稽古場での勝負は雪乃の方が上というのが今の現状であった。
もっとも、“色つき”である紫月やロメオと比べれば、二人とも遠く及ばないが。
タッ……タッ……
規則正しい足音が道場へ近づく。
「二人とも、おはよう。」
姿を現したのは紫月だった。
墨男と雪乃は稽古の手を止め、揃って頭を下げる。
「「おはようございます、姫様。」」
顔を上げると、紫月は緊張した面持ちで墨男の顔を見つめていた。
「稽古中にごめんなさい。雪乃、少しだけ墨男と話がしたいの。」
「かしこまりました。」
雪乃は一礼すると、二人の表情をそっと見比べる。
何かを察したように寂しく微笑み、そのまま静かに道場を後にした。
「……」
「……」
紫月と墨男の間に、重たい沈黙が走る。
「……もう、手は大丈夫なの?」
「はい。まだ少し痛みますが、この程度であれば問題ありません。」
墨男は、かつてマティアスに刺された右手を開いては閉じてみせた。
傷を負ってまだ十日も経っていない。
当然、癒えてなどいなかった。
それでも、痛みを悟らせまいとするように微笑んでいる。
「……」
紫月は、後ろめたさで胸が締め付けられた。
あの傷は、紫月を守るためにできたものだ。
墨男よりも遥かに強い自分が交戦していれば、彼は傷一つ負うことはなかっただろう。
しかし、墨男は“ 黒”であるにも関わらず、“ 護衛”という立場から紫月の傍にいることを許されている。
そのため、彼の仕事を奪うような行いは出来なかった。
そのせいで彼は手を短刀で刺され、命を危険に晒したのだ。
さらに墨男は激痛の中で菓子を作り、紫月を助けに山へ入ってきてくれた。
ずっと己の立場を重んじていた彼が、正直な想いを伝えてくれた。
そんな墨男に、紫月も伝えなければならない。
ロメオと生きるという選択を、伝えなければならない。
「……」
「姫様。」
先に、墨男が口を開いた。
「よろしければ、私に稽古をつけてはいただけないでしょうか。」
「稽古?もちろん、構わないけれど……」
「ありがとうございます。」
「……すぐに着替えるから、少し待っていて。」
「もちろんでございます。」
紫月は足早に自室へ戻る。
ほどなくして紫色の道着に袖を通し、動きやすいよう髪を一つに結うと、道場へと走った。
「お待たせ。」
「……稽古相手として、姫様の道着姿を見るのは久しぶりですね。」
「ええ。確か、一緒に稽古をしていたのは私が八歳の頃までだったかしら。」
「はい。大旦那様に共に叱られていたあの頃が、懐かしいです。」
「……墨男、毎日のように泣きそうになってたわね。」
「姫様こそ、涙目になっていましたよ。」
墨男が微笑むと、紫月も肩の力が少し抜けた。
「では、早速お相手をお願いいたします。」
「本当に、久しぶりね……」
紫月は過去を懐かしみながら、墨男と共に木刀を構えた。
二人とも、中段の構え。
「十数えたら、開始しましょう。」
「分かったわ。」
一、二、三、四、五、六、七、八、九、十
墨男が踏み込もうとした、その時だった。
スッ
「!」
もう目の前に、木刀があった。
まだ木刀を振るどころか、足すらも動かしていない。
何もさせて貰えていない。
「……参りました。」
「……えぇ。」
紫月は木刀を下ろす。
「やはり、姫様はお強いですね。思い返せば……幼少の頃から、姫様に勝てたことは一度もありませんでした。」
「……ありがとう。」
「やはり、私は護衛に相応しくありません。」
「え?」
紫月は目を見開いた。
墨男は跪き、頭を下げる。
「主より弱い護衛など、なんの意味も成しません。ですから、私は姫様の護衛から退かせていただきます。」
「墨男……?」
「勝手なことばかり、申し訳ございません。」
墨男は床に、頭を強く擦り付けた。
(どうして、どうして……!!)
紫月は泣き出したくなる衝動を抑え、ゆっくり深呼吸する。
もう彼女には分かっていた。
墨男は、自分のことを考えて発言をしていることを。
「墨男、それでは分からないわ。ちゃんと理由を話して。」
「……かしこまりました。理由は、二つあります。」
「まずは顔を上げなさい。」
「……はい。」
墨男は頭を上げ、紫月をまっすぐ見据える。
「一つ目の理由は先ほど申した通り、私が弱くて無力だからです。先日の山での一件では、私は殆どお役にたてませんでした。また、マティアス・ルーファスと交戦した際も、緑田様がいなければ私は命を落とし、姫様はあの男に追いつかれていたでしょう。これでは、職務を全うしているとはとても言えません。」
「……二つ目は?」
「姫様と殿下のお傍に、私のような者がいる訳にはいきません。これは、姫様もお考えなられたことかと思います。」
「……」
その通りだった。
紫月と墨男の気持ちは、ロメオも知っている。
そんな彼から見れば、ずっと紫月の傍にいる墨男は間男のように映るかもしれない。
しかも、ロメオは自分の想いに区切りをつけ、異国の地にまで婿入りしに来たのだ。
それなのに、自分だけ墨男を置いておくことなど、彼に対して不誠実だと思い悩んでいた。
「……これから、どうするか決めたの?」
「“ 緑”の入隊試験を受けようかと思います。“ 緑”には緑田様や桐生様などお強い方々がいらっしゃいますから、鍛え上げていただく所存です。もし試験に落ちた時のことは……まだ考えておりません。」
「……墨男の実力なら、問題なく受かるでしょう。あなたは、並の兵士よりも遥かに強いもの。」
「ありがとうございます。」
「……もう、決めたのね。」
「はい。」
墨男の瞳には、確かに固く強い光が宿っていた。
「お父様には……」
「既にお話しました。私と大旦那様との雇用契約は、今週いっぱいで終了です。退職金をいただけるとのことなので、しばらくはその金で生活し、入隊試験に備えるつもりです。」
「そう……そこまで話が進んでいるなら、もう何も言わないわ……」
その時。
紫月の頬に、一粒の涙が伝った。
(ダメッ……!)
彼女はすぐに気づき、それを素早く拭う。
「姫様、涙が……」
「違う、これは……汗よ。少し、体を動かしたから。墨男がせっかく決めた道なのに……私は泣いたりしないわ……」
「……ありがとうございます。」
墨男は、また頭を下げた。
「姫様と大旦那様に拾っていただいてから数十年、私は本当に幸せでした。」
「うん……私も、あなたと一緒に成長できて幸せだった……」
「身に余る光栄です。そのお言葉だけで、この先どれだけ辛いことがあっても、決して挫けることはしません。」
「……応援しているわ。……だから墨男も……これからの私のことを、応援して……」
「もちろんです。姫様と殿下が歩まれる道を、私が誰よりも応援いたします。」
「うん……ありがとう……」
墨男は顔をあげると、優しく笑った。
「山で交わした約束の通り、練り切りを二百個ほど作っておきました。お時間のある時に、どうぞお召し上がりください。」
「……今日中に食べ終わってしまうわ。」
「ならば残りの時間、姫様が満足するまでお作りしましょう。」
「きっと、腕が音を上げるわね。」
「……頑張ります。」
「……ふふっ。」
ぎこちなく笑う墨男に、紫月は落ち着きを取り戻した。
「ねぇ……私とロメオさんのことは、誰から聞いたの?」
「姫様がこうして私に話をされに来たので、ロメオ殿下と共に歩まれる決断をされたのだと確信したまでです。こうなることは……山でのお二人を見ていて、なんとなく分かっていました。」
「そうだったのね……」
「はい。ロメオ殿下でしたら必ず、姫様を幸せにしてくださる……そう思いました。」
なんてことは、ただの体裁だ。
墨男は内心、ずっと嫉妬心で腸が煮えくり返りそうだった。
もちろん、相手はロメオだ。
対等に紫月の隣を歩けること。
自分より年下なのに、覚悟が違うこと。
自分よりずっと、人間が立派なこと。
紫月と同じように強いこと。
長襦袢だけの彼女に、罪人の子の証である黒服をかける訳にはいかなかった自分と違い、普通にジャケットを渡したこと。
その全てが羨ましくて、妬ましかった。
(俺が……姫様の隣にいたい、姫様の笑顔を見ていたい、姫様に触れたい、姫様と共にいたい、一番でいたい、唯一でいたい、殿下のようになりたい……)
だが、だからこそ思った。
皮肉にも、紫月の唇を奪った世界一憎い男。
エリアス・カルミナの、
″彼を見た途端、あなたの泣き顔を思い出しまして。気がついたら襲いかかっていました。″
この言葉を聞いて。
紫月と話をしている今でも。
ずっと、ずーっと。
(姫様の“ 弱さ”を見れず、ずっと悲しい顔をさせてきた俺よりも……姫様の“ 弱さ”に向き合った、ロメオ殿下こそが姫様のお傍にいるべきだッ……)
爪が割れそうなほど拳を握りしめ、悔しく思った。
だか墨男はそれらを決して表には出さない。
それが、彼女への一番の忠義のはずだから。
「墨男も、幸せになってね。何かあればすぐに伝えて。何があっても助けに行くから。」
「ありがとうございます。」
「入隊試験の結果は、必ず連絡しなさい。あなたのことだから心配はないけれど……万が一落ちたら、私が試験管に直談判します。」
「あ、ありがとうございます……ですが、そうならぬよう精一杯鍛錬を積む所存です。」
「えぇ。信じています。」
紫月の微笑みに、墨男は頬を染めた。
「……」
「……」
二人の間に、また沈黙が走る。
お互いに伝えたいことが多すぎて、何から話せばいいのか分からなかった。
「……」
「……あ」
墨男が、口を開く。
「そういえば……お伝えし忘れていたことがありました。」
「どうしたの?」
「……ユキミ様とミキ様は、姫様がオルゴール館からお戻りになられた後、殿下が大旦那様のお屋敷にお招きされたことで私と顔を合わせました。そのことを伏せていたのは、この晩に起きたセリナ様の誘拐事件の原因が、大旦那様と殿下にあると姫様が誤解されることを危惧したためです。」
「……あの時の私がそのことを知っていれば、懸念通りお父様とロメオさんを責めていたでしょうね。もしかして、セリナさんを救出した人がロメオさんということを伏せていたのも、同じ理由なの?」
「……はい。その情報から、屋敷に招いた事実が知られてしまうと思いましたので、私が報告を控えました。ユキミ様方には、私から内密にとお願いした次第です。」
「そうだったの……それなのに、私はセリナさんたちへ酷いことを言ってしまったわ……」
「いいえ。全ては、私の責任です。勝手な行動を取り、申し訳ございませんでした……」
「私はいいの。ただ……ちゃんと謝りたい。皆さんは、どこにいるのかしら……」
「“ また会いに来る”と仰っておりましたから、近いうちにまたお会いできるかと。」
「……そうね。きっと、あちらから顔を出してくださるでしょう。」
紫月は不意に、あることを思い出した。
「思えば……リコさんとセリナさんと出会えて、お友達になれたのは、墨男のおかげだったわね。」
「私のしたことなど、些細なことです。」
「いいえ。なんとなく、分かるの。あの日、あの出会いがなければ……きっとエリアスさんに、全て壊されていたでしょう。」
「……私も、なんとなく分かる気がします。」
「そうよね。だから、今回の事件の一番の功績者は墨男だと思うの。」
「そ、それはどうでしょうか……」
「あなたなのよ、墨男。」
その時だった。
「姫様、朝食の準備が整いました。」
女中の声が、道場に響いた。
「……」
「……分かりました。」
女中は一礼すると、空気を察して足早に去っていく。
「……ごめんなさい。今日は朝食を取ったら、すぐに行かなければいけないの。」
「かしこまりました。私は道場の片付けが終わり次第、また練り切りを作ろうかと思います。」
「いっぱい、作ってね。」
「はい。」
紫月は立ち上がり、道場を出ようとする。
だが、敷居をまたごうとしたその足が……
ピタッ
止まった。
「墨男……本当に……行ってしまうのよね……」
「……はい。」
「寂しくなるわね……」
「……はい」
「ねぇ、墨男……」
紫月の体は、小刻みに震えていた。
「小さい頃から、私を守ってくれてありがとう。ずっと傍にいてくれてありがとう。眠れなかった時、歌を歌ってくれてありがとう。私の好きな物をいっぱい作ってくれて、ありがとう。」
「姫様、私からもいいですか。」
「うん……」
彼女は振り返らない。
顔を、見られたくなかったから。
「ずっと、姫様にお仕えできて幸せでした。姫様の笑顔が素敵で、幸せでした。姫様からオルゴールを贈っていただけて、幸せでした。姫様が優しくしてくださって、幸せでした。姫様が昔と同じ……明るい表情で前を向いていて、幸せです。」
「っ……」
「たくさんの幸せを、ありがとうございました。どうか、姫様もお幸せに。私がずっと祈っていることは……それだけです。」
「……ありがとう」
紫月はそれだけ言うと、走った。
とにかく走った。
何も考えなくて済むように。
自室の近くまで来たところで、
「姫様……」
雪乃が待っていた。
彼女は何も尋ねず、何も言わず。
ただ、そっと襖を開ける。
タッ……
部屋へ駆け込んだ紫月を、
ギュッ
雪乃がそっと抱きしめた。
「……」
「……雪乃……墨男がねぇ……私の傍から……いなくなってしまうの……」
「はい……私も聞いております……」
「嫌だッ……そんなの嫌ッ……墨男がいなくなるなんて……嫌だ……」
「墨男の前で、その言葉を飲み込んだ姫様は立派です。……よく、我慢しましたね。」
頭を優しく撫でられた、その瞬間だった。
堰を切ったように、涙が溢れる。
「ッ……嫌だよぉお……寂しいよぉおお……!寂しいッ……寂しいよぉおおお……!!どうしてっ……どうして行ってしまうの……!!行っちゃヤダよぉおお……!!」
「……」
雪乃は何も言わない。
ただ、母のように。
泣きじゃくる紫月を静かに抱きしめ続けた。
「あぁぁ……ぁぁぁぁぁあ……!!」
「姫様ッ……」
墨男も、紫月と同様に泣いていた。
声が聞こないよう、物置の隅っこで。
「愛しています……誰のものにもならないで欲しい……あぁ……クソッ……」
ドンッ
歯を食いしばり、壁を殴る。
「行きたくない……ずっと、姫様の傍にいたい……ずっとあの子の傍に……結婚なんてしないでくれよ……紫月様……ずっと俺の名前を呼んでくれよ……あぁ……離れたくないッ……」
ーーーーーー
いくら願おうとも、時間は待ってはくれない。
あっという間に時は流れ、墨男が巣立つ日が来てしまった……
「墨男、今までよく働いてくれた。お前の門出を祝し、酒をのめぇえええええええ!!!」
「お、大旦那様……も、もう……うぷッ……」
既に仕上がっている紫十郎と、苦しそうにする墨男。
「お父様!墨男の送別会なんですから、苦しめるのは止めてください!」
「そうですよ!お酒の相手なら僕がお付き合いしますから……」
紫月とロメオは紫十郎に止めに入る。
だが……
「何を言う、紫月!ロメオ!まだ酒も飲めぬ歳の小娘と、下戸の小僧にうるさく言われる筋合いはないッ!!!」
「「……」」
この飲兵衛は、聞き耳を持たなかった。
(お父様の馬鹿!今日で墨男に会えるのは最後なのに……!!)
紫月が焦りと怒りを感じていた、その時だった。
バァンッ
「離せ!離せ!」
「「「「こんにちはー!」」」」
見知った五つの声が、部屋に響く。
「今日はいつもに増して鬱陶しいぞ!」
「「だって〜」」
「セリナ、リコちゃん。離してあげなよ。」
「まぁ、いいんじゃない?二人ともさっきまで半泣きだったし。」
突如、現れた五人。
それは、
自由を奪われた紫水、紫水の右側にくっつくリコ、左側にくっつくセリナ、オロオロしているユキミと、特になんともないミキだった。
「み、皆さん……どうしてこちらに?」
紫月が駆け寄る。
すると、ユキミ、ミキ、リコ、セリナは何故か紫月をジッと見て……
「「「「い、生きてるぅ〜」」」」
泣いているのか喜んでいるのか分からない、絶妙な表情を浮かべた。
「え?」
「みんな生きてるよセリナ〜!」
「生きてるねリコ〜!」
感激したリコとセリナのせいで、
「おい、おい……」
間にいる紫水が潰れていく。
「二人とも、紫水君が苦しそうだから離してあげて。」
「「あ、ごめん。」」
「ロ、ロメオ兄様ー!!」
開放された紫水は、助けてくれたロメオに飛びついた。
「これはどういう……」
「あ、紫月さん説明しますね。」
セリナが手を挙げて答える。
「遊びに紫月さんの家に行ったんですけど、留守だったんで、紫水君に会いにこっちの家に来たんですよ。そしたらすぐに紫水君と会えて、みんなこの部屋に居るって言うから案内してもらったんです。」
「そ、そうですか。“ 生きている”というのは……?」
「あー……改めて、落ち着いた日常に安心したなって。」
「……そうですね。よろしければ、皆さんも墨男の送別会に参加してください。」
紫月の言葉に、セリナ、ユキミ、ミキ、リコは気まづそうに顔を見合わせた。
「ウチら、事情は紫水君に聞きました……」
「……あとは残りの時間を、墨男が楽しめるようにするだけです。」
紫月は寂しげに、墨男へ視線を向けた。
「……」
そんな彼女を見て、ロメオはある決意をする。
「紫十郎さん、こちらの四人がお酒の相手をしてくださるそうですよ。」
「「「「えぇ!?」」」」
四人は、ギョッとロメオに詰め寄る。
「ちょっとロメっち!!ウチらそれでこの前死にかけたんだけど!!」
「私らそんなに酒強くないんだから!!あ、でもユキミはいける口だから、犠牲が必要ならユキミだけにして!!」
「え!?セリナ酷い!!」
「ミキもセリナに賛成!!」
揃って猛抗議するが、
「ほぉおおおう……!!お前たち、なかなか見所があるじゃないかぁぁぁああああ!!!」
「「「「うわぁああああ!」」」」
「こっちに来い!!俺の武勇伝でも聞かせてやるぅぅうううううう!!」
紫十郎にズルズルと連行されてしまった。
「墨男君、大丈夫?」
「はい……殿下、ありがとうございます……」
「相当キツそうだね。紫月さん、介抱をお願いできるかな?」
紫月は、目を見開く。
「……え?」
「僕は紫水君を慰めなきゃだから、介抱できるのは君くらいだろう?雪乃さんは、料理の準備で忙しいみたいだし。」
「ロメオさん……」
「行っておいで。」
「……はい。」
ウインクするロメオに、紫月は心の中で何度も礼を言った。
「墨男、こっち。」
「……」
二人は賑やかな宴席から少し離れ、静かな部屋へ入る。
墨男を椅子へ座らせると、紫月はそっとその向かいへ腰を下ろした。
「大丈夫?……あ、お水を持ってくるわね。」
「いえ、平気でございます。それよりも……ここにいてください。」
「……ええ。」
平気と言っているが、墨男の顔は酒でかなり赤くなっている。
「今日の十八時に、新しい家に向かうのでしょう?その体で、歩けるの?」
「大旦那様にこうして呑まされるのは、珍しいことではありません……うぷっ……ですので、なんとか大丈夫かと思います……」
「……お父様にはよく言っておきます。あなたには馬車を手配しますから、それに乗りなさい。」
「お気遣い、ありがとうございます。ですが……」
墨男はゆっくり首を横へ振った。
「最後に景色や思い出を噛み締めたいので、歩いて向かいます。」
「そう……」
紫月は静かに微笑む。
「思い出と言えば……姫様、お渡ししたい物があります。」
「あら、なにかしら。」
墨男は腰につけた巾着から、小さな布包みを取り出した。
丁寧に包みをほどくと、中から一枚の栞が。
「どうぞ、こちらを。」
「これは……!」
栞には、愛らしいシロツメクサが水彩で描かれていた。
柔らかな緑の葉。
風に揺れるような白い花。
紙いっぱいに広がる優しい色彩は、まるで春の野原を切り取ったようだ。
「お渡ししようか迷いましたが……やはり、私と姫様の思い出といえばシロツメクサですので。約束のものと形は違いますが、ご容赦ください。」
「……ありがとう。とても素敵よ。あなたは昔から絵が上手だったものね。」
「ありがとうございます。」
墨男は照れくさそうに笑う。
「“ 栞”という字には“ 道しるべ”という意味があるそうです。これから新しい道を歩む姫様に、その栞が少しでも支えになると良いのですが……」
「素敵な意味……大切にするわ。」
紫月はそっと、栞を懐にしまった。
「墨男、私からも贈り物……と言えるか分からないけれど、贈り物があるの。」
「なんでしょうか?」
「今回、“ 黒”から“ 茶”に身分が上がった者は、名前を変えられることは知ってるわよね。」
この国では、身分ごとに苗字にも決まりがある。
例えば、
紫なら「藤堂」「藤波」。
青なら「青木」「青沼」。
緑なら「桐生」「緑田」。
その色を連想させる苗字を名乗るのが、この国の慣わしだった。
しかし、“ 姓名”の“ 名”はそこまで厳しくなく、基本的には自由に決めていい。
「はい。“ 茶”を連想するものなら、自由につけてよい聞いております。」
「でも、あなたは身分が変わっても“ 名”を変えるつもりはないのでしょう?」
「はい。姫様や大旦那様が、ずっと呼んでくださった名前ですから。改める気はありません。」
「ふふっ。ありがとう。」
紫月は頬を赤らめて微笑む。
「だからね。付け足すのはどうかと思ったの。」
「付け足す……ですか?」
「えぇ。墨男はまだ、苗字を決めてないでしょう?だから私とお父様で話し合って、いくつか候補を考えたみたわ。」
「!」
墨男は思わず息を呑んだ。
(俺に……苗字が……?)
“ 黒”には苗字がない。
それは、“ 黒”に堕ちた時点で、人権も本来の名前も失うからだ。
だから墨男にも、姓はなかった。
今は“ 茶”に身分が上がった以上、茶色に関連する苗字を考えなければいけなかったが、馴染みがないためイマイチ決められなくて、ずっと後回しにしていた。
「もちろん、無理にその中から選ぶ必要はないのよ。私たちが勝手に決めたことだから。」
「とんでもございません。身に余る幸福でございます。ぜひ、お願いいたします。」
「よかった。」
紫月は立ち上がり、部屋にあった紙と筆を手に取る。
さらさらと五つの名前を書き並べ、墨男へ差し出した。
「候補は千草、常磐、浅葱、柊木、草薙の五つよ。」
「どれも“ 緑”を連想するですね……?」
「あなたの入隊が決まれば、身分は“ 緑”になるもの。その時のための苗字よ。私もお父様も、墨男が合格すると信じているから。」
「……私は果報者ですね。」
墨男は一つ一つの文字を、宝物でも眺めるように見つめる。
(浅葱は……俺にしては洒落ているな。いや、全部そうか……出来れば、大旦那様よりも姫様の考えられた名前を選びたい……)
なんて少しだけ、欲張りなことを考えた、その時だった。
ダァァアン!!
「墨男ぉおおおおお!!主役がいなくては送別会とは言えんぞぉおおおお!!」
紫十郎が勢いよくドアを開け、部屋に飛び込んで来た。
「お、大旦那様!?」
「みんな酔いつぶれてつまらん!!……んん?」
紫十郎は、机にある紙に気づく。
「なんだ、名前を決めていたのか。どれにするんだ?」
「ま、まだ迷っております……」
「ならばアレをするぞぉおおおおお!!!」
「「アレ?」」
紫十郎の言うアレとは……
「よぉし!!それぞれ、紙飛行機を持ったな!?ちゃんと紙に名前を書いたか!?」
「「「「うぇえええええいいい!!」」」」
「最後まで飛んだ紙飛行機に書かれた名が、墨男の苗字となる。いくぞぉおおおお!!!」
「「「「いぇええええええい!!」」」」
実にくだらない、紙飛行機大会だ。
酒の勢いでノリノリなユキミ、ミキ、リコ、セリナ。
全く乗り気でない紫月、墨男、ロメオ、紫水。
(お、俺の苗字がこんな馬鹿なことで決まるのか……?)
「始めぇえええええ!!!」
それぞれの紙飛行機が、一斉に飛んだ。
シュッ!!
「「あっ!」」
早々に、紫十郎機によって、セリナ機と紫水機が脱落。
「やったぞ!!俺の紙飛行機が最強だぁああああああ!!」
「父上……」
カサッ!
続いてもう一機、紫十郎機によって落とされた。
「あーあ。ミキの終わっちゃった。」
勝負はまだ終わらない。
ユキミ機の後ろに、リコ機が迫る。
スゥウウ……
リコ機がユキミ機を落とすかと思いきや、
ハラッ……
直前で、リコ機は力尽きた。
「あーあ。ユッキーのを落としてやりたかったのに!」
逃げ延びたユキミ機は飛び続ける。
そして、そのまままっすぐ進み……
ガスッ
「「「「「「「「あっ……」」」」」」」」
なんと、紫十郎の頭に追突してしまった。
「誰のだァ?この俺の頭に刺さった、この度胸ある紙飛行機はぁ!?」
「ユキミです!」
「ユキミです!」
「ユッキーです!」
「え!?みんな!?」
あまりの紫十郎の気迫に、まんまとユキミを売り渡すミキ、セリナ、リコ。
「その度胸気に入った!!お前はまだ酒が呑めそうだなぁぁ??」
「うわぁああああああ!!」
残り四機。
カサッ……
ここでロメオ機が、壁に追突して落ちた。
「残念、自信あったんだけどなぁ……」
残り三機。
シュッ!
未だ勢いの衰えない紫月機が、墨男機を落とした。
「ご、ごめんなさい墨男!」
「お、お気になさらず……」
残るは二機。
紫十郎機と紫月機の一騎打ちだ。
(こんな馬鹿なことで決まるんだ!!姫様!姫様!!姫様の飛行機が残れ!!)
必死に祈る墨男。
そんな彼の様子を見て、ロメオは小さく笑った。
(うーん……紫月さんの紙飛行機、勢いが落ち始めているな……)
そこでチョンチョンと、リコの肩をつついた。
「墨男君、紫月さんの飛行機が残ったら嬉しいと思うんだ。どうにかできないかな?」
「え、ウチが?」
ちょうどその時、紫十郎の紙飛行機がリコのそばを通り過ぎようとした。
その瞬間。
「はい、失礼。」
ズボッ
セリナがリコの鼻に、捻った紙ナプキンを突っ込んだ。
「ッへぇっっくしょいいいい!!!」
ビュッ
リコの豪快なくしゃみで、紫十郎機は地に落ちる。
「あぁ!!俺の紙飛行機がぁぁあああッッ!!!」
紫十郎はかなりショックそうな表情で、膝から崩れ落ちた。
何歳だよ。
「よっと。」
ロメオは最後まで飛び続けた紙飛行機を手に取り、ゆっくりと開いた。
「墨男君の苗字が決まりました。発表します!」
「「「「「「「「……」」」」」」」」
全員、固唾を呑んで見守る。
「墨男君の苗字は……」
ロメオは少しだけ間を置き、
「“ 柊木”になります!!」
年号でも発表するかのごとく、紙を掲げてみせた。
「柊木……墨男……」
墨男は確かめるように、呟く。
「ここにぃいいいい!!これから墨男は、“ 柊木墨男”と名乗ることを命ずる!!拍手!!」
「「「「おぉ〜」」」」
パチパチパチパチ。
「よし、お前たちが何の苗字を書いたか気になる!!それぞれ、己の紙飛行機を広げて見せよ!!」
「「「「え……?」」」」
それぞれ折り目などから探し、何とか自分の紙飛行機を拾い上げる。
「せーので広げろ。せーのっ!!」
バッ!
結果はこうだ。
紫十郎→常磐
ロメオ→浅葱
紫水→千草
墨男→草薙
ユキミ→苔
ミキ→よりどりみどり
リコ→お抹茶
セリナ→緑川
「ぇ……」
ユキミ、ミキ、リコの紙を見た瞬間、墨男の顔がサーッと青ざめていった。
「なんですか、そのふざけた苗字は……?」
紫月が鬼の形相で詰め寄ると、三人は慌てる。
「だ、だって……本当に紙飛行機で名前決めるとか思わなくて……」
「ミキたち、セリナに唆かされたんです!」
「そうなんです!なのに一人だけ裏切りやがって!」
リコがピシッと指さすが、当のセリナは腹を抱えて笑っていた。
「アハハハハッ!もしリコの紙飛行機が生き残ってたら、“ お抹茶 墨男”になってたね!」
「笑い事じゃありません!四人とも、そこに座りなさい!!」
「「「「えぇー!」」」」
歳下の紫月に正座させられる四人。
なんとも締まらない光景だ。
「ふふっ。“ よりどりみどり 墨男”っていうのも、なかなか可愛いね。」
「絶対に嫌です。」
面白そうにするロメオに、墨男はキッパリと首を横に振るのだった。
ーーーーーーー
そんなこんなで、お酒にゲーム、そして悪ノリ。
楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。
気づけば、時計は十八時。
墨男が、この屋敷を発つ時刻である。
「柊木墨男。今まで、ご苦労であった。道中は気をつけて行けよ。」
「ありがとうございます、大旦那様。今まで大変お世話になりました。」
「頑張りなさいよ、墨男。」
「もちろんです、雪乃様。」
墨男は深く頭を下げた。
「ほら、姫様。墨男がもう行きますよ。」
「……」
雪乃に優しく促される。
紫月は唇を噛み締め、今にも涙が零れそうだった。
「……元気でね。」
「はい……」
「入隊出来たら……手紙、ちょうだいね……」
「はい……必ず、書きます。」
「さよなら、墨男……」
震える彼女の背中を、リコが優しくさする。
「墨男さん、新しい家は遠いんですか?」
「ここから歩いて、一刻半ほどの場所です。」
「一刻半……?」
リコは隣のセリナを見た。
「それってどのくらい?」
「たぶん三時間。」
「あー。まぁ遠いな……」
また紫月へと向き直る。
「でも全然遊びに行ける距離だし、また会えばいいじゃん。」
「そういうわけには……」
ぽんっ
ロメオが、紫月の肩に手を置いた。
「そうだ。墨男君が試験に受かったら、みんなでお祝いしようよ。」
「ですが……」
「ありがとう、僕に気を使ってくれて。だけど、僕はこう見えて賑やかなのは好きだから、今日みたいに楽しいイベントが開かられるなら大歓迎だよ。」
「……」
「紫十郎さんも、構わないでしょう?」
不意に話を振られた紫十郎は、一瞬だけ目を丸くした。
「……お前が良いなら、俺は構わん。」
「ありがとうございます。君たちはどう思う?」
ロメオは次に、四人組へ目を向ける。
「「「「……またお酒はちょっとぉ」」」」
「ちょっとビックリ。まさか反対意見が出るとはビックリ。」
「て、適量なら大賛成だよ!」
「なら良かった!」
セリナのフォローに、ロメオは和やかに笑った。
「だから紫月さん。言うべき言葉は、“ さようなら”じゃなくて“ またね”だよ。それと、お見送りは可愛い笑顔でしなくちゃ、ね。」
「……ロメオさん、ありがとうございます。」
紫月は一度だけ深呼吸すると、まっすぐ墨男を見つめる。
「墨男、今まで本当にありがとう。」
「こちらこそ、今まで本当にお世話になりました。」
「体には気をつけて。」
「はい。」
「……“ またね”、墨男。」
「……またお会いしましょう、紫月様。」
最後に二人は涙を浮かべつつも、笑いあった。
「では、行ってまいります。」
「「「「「「「「行ってらっしゃい。」」」」」」」」
たくさんの人に見送られながら、墨男は旅立つ。
彼は名残惜しさを抑え、後ろを向いた。
(皆様……俺なんかのために、ありがとうございます……今日は本当に楽しい一日でした……)
歩き出した墨男の背に、色んな声がかけられる。
「出世しろよ、墨男。」「体に気をつけてね!」「また会おう!」「ファイトー!」「お元気で!」「頑張ってくださーい!」「頑張れー!」「またね、墨男!」
(……すいません、一斉に喋られると分からないです……)
とりあえず、墨男は後ろに向かって手を振った。
「「「「「「「「気をつけてー!」」」」」」」」
すると後ろでも、みんなが笑顔で手を振り返してくれる。
その姿は、一歩、また一歩と遠ざかり。
やがて太陽の光の中へ、ゆっくりと溶けていった。
「……」
墨男は最初の一時間、頭も心も空っぽにして歩いた。
「……」
……ぽたッ
それでも、涙はずっと流れていた。
何も考えないようにしているはずなのに、頬を伝っては落ちていく。
「……」
次の一時間も、暮れゆく浅葱色の空の下を、ただひたすら歩く。
ぎりっ……
空の色がロメオの瞳を思い出させた。
嫉妬と自己嫌悪が胸を締めつけ、思わず奥歯を噛み締める。
(最後まで、殿下に何一つ敵わなかった……どうして俺は……護衛でありながら、姫様に甘えてばかりでいたんだろうか……)
歩きながら、これまでの自分を何度も思い返す。
(俺には姫様に何かしてやる資格がない……だなんて、ただの言い訳だった……ずっと姫様は一人で傷ついていたのに……俺が姫様を傷つけた事実と、泣き顔を見たくなくて……ずっと逃げていただけだ……)
「……情けない。」
小さく漏れた声は、風に溶けて消えた。
過去を思い返すたび、あの頃の自分を殺してやりたくなる。
「……」
最後の一時間。
墨男は、ただ紫月のことを考えた。
父のように厳しく育ててくれた紫十郎。
母のように優しく見守ってくれた雪乃。
情けない自分を、何度も助けてくれたロメオ。
思い出したいことは沢山あったが、それでも紫月との思い出ばかりが頭をよぎる。
いつの間にか空が、紫月の髪と同じ桔梗色に変わったからだろうか。
とても綺麗だ。
(前に俺の歌を聞いた姫様は、ずっと笑っていたな……そんなに下手だったのか?)
墨男は荷物から、紫月に貰ったオルゴールを取り出す。
ゼンマイを巻くと、幼い頃に母が歌ってくれた、懐かしい童謡が流れ始めた。
「低く飛んだ赤いトンボ あの子と追っかけ走ったら 雨が降って寒かった 早く帰ろう手を繋ぎ トンボと共に、僕らの家へ」
墨男は試しに口ずさんでみるが、
(……分からん。)
自分ではそんなに下手だと思えなかった。
実際は、テンポと音程が絶妙にズレた、背中がむず痒くなるような歌声なのだが。
(まぁ……姫様が笑ってくれるなら、別にどうでもいいか。)
墨男は懐かしむように、寂しく笑った。
(姫様、どうかお幸せに……素敵な家庭を築いてください。)
やがて姿を現すであろう星に向かい、祈る。
ちょうどその時。
「あ……」
気がつけば、新しい家へ辿り着いていた。
雪乃が探してくれたその家は、一人で暮らすには十分すぎるほど立派だ。
ガラッ
戸を開けて荷物を置くと、休むことなく、墨男は再び外へ出た。
ザッ ザッ……
家の裏手にある山道を、一歩ずつ登っていく。
ザッ……ザッ……
この山は、紫十郎が購入してくれたものだ。
前に紫十郎が言った“ 礼”として、訓練にうってつけな山を墨男は頼んでいたのだ。
「ふぅ……」
山頂へ辿り着いた頃には、夜の帳がすっかり降りていた。
「確かこれが、お前たちの好物だったよな……」
眺めのいいこの場所には、文字が彫られた縦長い石が二つ並んでいる。
一つには“ 影丸”、もう一つには“ 小夜”。
どちらも、墨男が自ら彫った名前だった。
カサッ……
墨男は石の前にオニギリを供え、静かに手を合わせる。
「……」
やがて、ゆっくり顔を上げた。
「……ごめんな。俺にできたのは、お前たちの小指を埋めることだけだった。」
ーー俺たちの小指を埋めたくらいで、何になる?
ーーそうよ。残りの体は、焼かれて捨てられたじゃない。
「……」
今もなお墨男の耳には、かつて護衛の任務で命を奪った兄妹、“ 影丸”と“ 小夜”の声が響いていた。
あの日。
墨男は二人の亡骸を”緑”へ引き渡す前、それぞれの小指だけを切り取り、密かに隠し持った。
反逆者の遺体は、調査が終われば粗末に焼かれ、墓すら与えられない。
骨は誰のものかも分からないほど、雑にまとめて捨てられる。
だから、せめて一部分でも兄妹を一緒の場所で眠らせてやりたい。
そんな自己満足にも等しい願いからだった。
「俺、お前たちが望んでいた国になるよう頑張るよ。」
墓石へ向かって、墨男は静かに語りかける。
「今回、大旦那様が法を変えて、俺たちの身分を上げてくださった。でも……それだけで世間の目が変わるわけじゃない。俺たちへの風当たりは、しばらく冷たいものだろう。……だから俺は出世する。少しでも”黒”だった者たちが胸を張って生きられる国になるよう、戦っていこうと思う。」
ーーお前に出来るわけないだろう。この山だって、あの大男に買ってもらったんじゃないか。
ーー私たちはもう死んだの。そんなことしても意味なんて無い。
「……そうかもしれない。けど、やるよ。もう決めたことなんだ。」
ーー分かったぞ、お姫様のためだろう。
ーー嘘つき。お姫様が他の男と一緒なのを見たくないから、逃げているんだ。私たちを理由に。
「……正直、その理由もある。だけど、お前たちに償いがしたいのも本当だ。だから……見ていてくれ。俺がもう逃げないように、お前たちが見張ってくれ。」
「「……お前なんか、死ねばいい。」」
その言葉を最後に、影丸と小夜の声は止んだ。
ただ墓石だけが、夜の静けさの中で変わらずそこに立ち続けている。
グッ……
墨男は強く、拳を握りしめた。
どうしてだろう。
涙が一粒、また一粒と墓前へ落ちていく。
「……姫様」
これは、懺悔の涙なのか。
これは、別れの涙なのか。
これは、孤独の涙なのか。
墨男自身にも、その答えは分からなかった。




