未熟
先頭を歩くのは紫月だった。
その後ろを、ユキミ、ミキ、リコ、セリナの四人が連なってついていく。
大会の余韻がまだ残る廊下に、ぽつぽつと会話が弾んだ。
「優勝者の人、毛量やばかったよね〜。」
ミキの言葉に、全員が自然と頷く。
「それ!顔が全然見えなかったよね。」
ユキミも苦笑いを浮かべる。
セリナは腕を組み、どこか楽しげに目を細めた。
「ふふ……あの人、イケメンの匂いがする。素顔はきっと、すごく美形だよ……」
「キモイよセリナ……」
リコが即座にツッコミを入れる。
そのやり取りに、前を歩いていた紫月がふと振り返った。
「あの方が作った抹茶プリン……かなり私の好みの味でしたが……」
少しだけ困ったように続ける。
「あの髭と眉毛が入ってないか、ずっとハラハラしてしまいました。」
「「あー……」」
ミキとユキミが同時に声を漏らす。
「何本か抜け落ちてそうですね。」
ミキの言葉に、四人は思わず苦笑した。
セリナが軽く手を叩く。
「ま、まぁそれより!墨男さんのお菓子ですよ。楽しみだな〜。」
その一言で、空気が少しだけ変わる。
そう。墨男の菓子は、審査には出されていなかった。
それは紫十郎の判断ではなく、周囲の強い反対によるものだったらしい。
“黒”の身分の者が作った菓子を、貴族たちが口にする。
それを許せないという声が、係員の間で上がったのだ。
そのため墨男は、今も調理場に残り、自分の作った菓子と共に待機している。
紫十郎からその話を聞いた紫月は、そこへ向かっていた。
ユキミたち四人は紫月を探し当て、半ば野次馬のように同行しているだけだ。
紫月は前を向いたまま言った。
「墨男も参加者だと聞いたときは驚きました……最近、私ではなくお父様の傍にいることが多かったのは、この大会の準備のためだったのでしょうから…係員だとばかり……」
「なるほどね〜。」
セリナが納得したように頷く。
「墨男さんが準備を色々してる時に、リコとぶつかったわけだ。」
「え!?」
リコが目を見開いた。
「ウチ最悪じゃん……」
肩を落とすリコに、紫月が慌てて言葉を重ねる。
「で、でも……それが私たちの出会いになりましたし……」
優しい声だった。
けれどリコはまだ申し訳なさそうにしている。
それを見て、紫月はそっと話題を変えた。
「そ、それにしても……墨男は何を作ってくれたのでしょう。墨男なら……きっと練り切りだと思いますが……」
「お、よく分かりましたね。」
ユキミが明るく言う。
「なんか、思い出の花を作るって……」
「え?」
紫月の足が、ぴたりと止まった。
振り返る。
「どうしてユキミさんがそのことを?」
空気が、わずかに張り詰める。
ユキミはきょとんとしたまま答えた。
「え、墨男さんから……」
そこで、ようやく違和感に気づく。
隣を見る。
ミキ、リコ、セリナ。
三人とも、言葉を飲み込んだような顔で固まっていた。
「え?え?」
ユキミの声が少し上ずる。
「「「「「……」」」」」
誰も何も言わない。
だが。
「まぁまぁ!」
セリナがわざと明るく声を上げる。
「細かいことは気にせず行きましょう!」
ぽん、と紫月の背中を軽く押す。
紫月は不思議そうな顔をしたまま、しかしそれ以上は何も言わず、再び前を向いた。
足音が、またゆっくりと動き出す。
雑談を交わしながら歩いているうちに、五人はいつの間にか目的の部屋の前へと辿り着いていた。
紫月は、ふと足を止める。
(本当に……思い出の花なら……もしかしたら……)
胸の奥で、小さな期待が膨らむ。
二人の思い出の花といえば、やはりシロツメクサ。
ユキミが墨男の作るものを知っていたのは不思議だったが、今の紫月にはどうでもいいことだった。
緊張で、なかなかドアノブに手をかけられない。
「あ、どうぞ!」
その健気な気持ちに気づかぬまま、リコが軽やかに扉を開けた。
「……あ、ありがとうございます。」
一瞬遅れて、紫月はそう返し、部屋へと足を踏み入れる。
続いて、四人も中へ。
室内には、すでに墨男が控えていた。
「姫様、お待ちしておりました。」
膝をつき、深く頭を垂れている。
「ありがとう。顔を上げなさい。」
「はっ」
ゆっくりと顔を上げる墨男。
その視線の先に、
「こんにちはー。」
「こんにちはー。」
セリナとリコが軽く手を振る。
「セリナ様、リコ様もご一緒でしたか。……そちらのお二方は…」
墨男の視線が、ミキとユキミへ向く。
「初めまして、ミキです!」
「……あ、ユキミです。」
元気よく頭を下げるミキと、少しぎこちないユキミ。
紫月が静かに告げる。
「ユキミさんもミキさんも、私の友人です。覚えておくように。」
「かしこまりました。」
再び頭を下げる墨男。
その空気を、セリナが軽く崩した。
「じゃ、お堅い話はそれぐらいで。墨男さん、お菓子見たいです。」
「……そうね。見せてちょうだい。」
紫月も頷く。
「……はい。」
墨男は立ち上がり、背後の作業台へ向かう。
そこに置かれていた皿を手に取り、再び戻ってくる。
皿には、銀の蓋がかけられていた。
「太鼓の音やります?」
リコが口をタコのようにして言う。
声と舌で表現するつもりらしい。
「い、いえ……お気遣いありがとうございます。」
墨男が蓋に手をかけた、その時。
「待って。」
紫月の声が、静かに差し込まれる。
「墨男、私にその蓋を開けさせて。」
一瞬の沈黙。
「……」
「いいでしょう、墨男。」
「……かしこまりました。」
墨男は片膝をつき、蓋のされた皿を差し出す。
紫月はゆっくりと、手を伸ばした。
指先が、銀の蓋に触れる。
「墨男、この中には……花が?」
「……はい。」
「……この花は、白い花?」
「……はい。」
「花びらの数は多い?」
「……はい。」
一つ、問いかけるごとに。
紫月の胸の奥で、何かが熱を帯びていく。
「この花は……私たちにとって、思い出の花?」
「……」
沈黙。
「……墨男?」
「……はい。どうぞ、ご覧下さい。」
その返事を聞いた瞬間。
紫月の瞳が、光を帯びた。
「えぇ。」
期待を抱いたまま、蓋を持ち上げる。
その下にあったのは――
「「「「え」」」」
白く、整った花。
幾重にも重なる花びら。
丁寧に作り込まれた、美しい一輪。
「……菊の……花……?」
紫月の声が、暗く揺れる。
「……幼少の頃、姫様は菊の柄の着物を好まれておりました。」
墨男が、下を向いたまま告げる。
「とてもお似合いで……今も姫様に相応わしい花だと思い、作りました。」
「……菊……なのね。」
「……」
墨男は、何も答えない。
(私……勝手に勘違いして……馬鹿みたい……)
紫月の中で、何かがすっと冷える。
「……ありがとう。とても綺麗ね。」
紫月の白い指先が、練り切りに触れようとした、その時。
ぽたり
一粒の雫が、皿の縁に落ちた。
紫月は、はっとしたように目を見開いた。
(……どうして……?)
目の前にあるのは、墨男が自分のために作った菊の練り切り。
繊細で、美しく、丁寧に仕上げられた一品。
嬉しい、はずだった。
(泣くようなことじゃないのに……)
胸の奥で、何かが小さく軋む。
その正体を掴めないまま、
ぽたり、と。
また一粒の涙が、手の甲に落ちた。
「……?」
紫月は、自分の涙を不思議そうに見つめる。
まるで、自分の感情が他人のものになってしまったかのように。
その様子に気づいたユキミたちが、慌てて声を上げた。
「だ、大丈夫ですか!?」
「こ、これで拭いてください!」
「紫月さん……!」
「あっまた涙が……!」
四人の声が重なる。
だが、紫月は小さく首を振った。
「……ごめんなさい、なんでもありませんから……」
それだけを言い残し、彼女は逃げるように部屋を飛び出した。
ぱたん、と扉が閉まる。
「「「「紫月さん!」」」」
四人も紫月を追いかけるため、部屋を出た。
「……」
調理場に一人残された墨男は、
菊の練り切りを机へと置き、光のない瞳でそれを眺める。
ガチャ
部屋に誰かが入ってきた。
「今、紫月さんやリコ達とすれ違ったんだけれど……」
柔らかく響く声。
振り向けば、きらめく金髪と翡翠の瞳。
「ロメオ殿下……」
墨男が跪こうとした瞬間、
「いいよ、そのままで。」
ロメオは軽く手を振って制した。
彼はそのまま歩み寄り、机の上へと視線を落とす。
練り切りを見た、その一瞬。
わずかに表情が引き締まった。
「……なるほど」
それ以上は言わず、ただ一度だけ扉の方へ視線を向けてから再び墨男へと目を戻した。
「墨男君。どうして、菊の花を?」
墨男はわずかに視線を落とす。
そしてーー
「……穢れて見えたのです……」
震えた声が、落ちる。
「……あの花が……赤黒く……何度っ……何度作り直してもっ……」
言葉は途切れ途切れに零れ、呼吸が乱れる。
「墨男君、落ち着いて。」
「っ……はい……」
ロメオのまっすぐな眼差しが、墨男を少し落ち着けさせた。
「……殿下はご存知と思いますが……私は一度、シロツメクサを作りました。」
「ん?」
「私にハサミを渡して……助けてくださったのは、殿下ですね。」
ロメオは小さく息を吐く。
「あぁ、バレていたんだ。髭と眉毛で顔は見えなかったはずなのになぁ…………それで?」
墨男は一瞬、言葉を飲み込むように沈黙した。
そして、絞り出す。
「……先日、私は護衛の任務で二人の子どもを……殺しました。……そのうちの一人の声が……私の中で響くのです……」
墨男は自分の両手を見下ろした。
「声を聞いているうち…この手が…あのシロツメクサが赤く見えて……何度洗っても……何度作っても……っ」
そして両手を、衣服に強く擦り付ける。
嫌なものを拭うかのように。
「……あの花が……姫様との記憶までもが……!!……赤く……赤く……!!」
「……」
ロメオは黙ったまま、その様子を見ていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「墨男君。」
ピタッと、墨男の動きが止まる。
「君は、その子ども二人よりも前に……人を殺したことはあるかい?」
「……あります。」
「今までに、同じようになった経験は?」
「……あります。」
「……子どもを殺したことは?」
「……ありません。」
ロメオは軽く俯く。
「……そうか……」
その表情は、どこか沈んで見えた。
「……君のその症状を……僕もよく知っているよ……」
「……殿下?」
墨男には、それが失意のように映る。
ロメオはゆっくりと顔を上げた。
「君は……東統戦争には参加しなかったんだね。きっと……紫月さんが許さなかったんだろう。」
「っ…………はい…」
墨男の心臓が跳ねる。
ロメオの言う通り、墨男は紫月の反対で戦争には参加していなかった。
「……僕にもあったよ。自分でない何かが体を動かして人を殺し……後で自分に戻り、罪悪感で気がおかしくなる時がね。……それは……きっと、紫月さんにもあったはずだ。」
ロメオは墨男を真っ直ぐ見据える。
「墨男君……その症状は、人を殺めてできた心の傷だ。それは君が紫月さんを必死に護ったという証でもある。だから君が……思い出の花を作れなかったことは、責めないよ。だけど……」
そして、ほんの一拍。
墨男は手に汗を握る。
「紫月さんは傷に慣れるほど戦い、墨男君の元まで帰ってきた。そんな彼女の気持ちを汲んであげてほしい。」
「――っ」
墨男の脳裏に、戦場から戻った時の紫月の顔が浮かんだ。
瞳の曇った、どこか虚ろな表情の姫。
(姫様は……俺を戦地から遠ざけ……お一人で戦われていた……それなのに、俺は……俺の傷なんてっ……)
墨男はもう一度、自分の手を見る。
まだ両手は真っ赤に見えた。
けれど――
(俺は……なんて馬鹿なんだ……)
恐怖よりも、悔しさが勝る。
「ロメオ殿下……ありがとうございました。」
墨男は深く、頭を下げる。
「うん。」
ロメオはやわらかく微笑む。
「紫月さんを探しに行こうか。僕と君で先に見つけたほうが、彼女をエスコートするということで。」
「殿下……」
本当に、ロメオはすごい男だ。
疎むべき立場の墨男にさへ、暖かい優しさを向けられるのだから。
(ようやく……言えそうな気がする……)
墨男の胸の奥で、何かがはっきりと形になる。
(今度こそ――)
その決意を抱いて、
墨男はロメオと共に部屋を出た。
ーーーーーー
調理場からある程度離れた、街へと続く道へ来たところで、紫月は人とぶつかった。
下を向いて移動していたせいだろう。
ドサッ
「……っ……すみません……」
「こちらこそ、失礼を……おや?」
紫月が顔をあげると、目の前には神父の服装をした人物が立っていた。
赤髪にグレーの瞳。
肩にかからないほどの長さの髪は、癖がなく整えられている。
声を聞かなければ、女性と見紛うほどに中性的な顔立ちだった。
「あっ……本が……」
紫月は、神父が持っていた本が地面にあることに気づく。
「すみません、私の不注意で綺麗な本が……」
「いえ、ワタシの不注意です。あ……わざわざありがとうございます。」
紫月が本を拾うと、神父は柔らかな笑みを浮かべた。
「あの……貴方様は、藤堂紫月様では?」
「は、はい。あなたは確か……」
「はい。ルーメン教会で神父をしております、エリアス・カルミナと申します。」
深々と一礼するエリアス。
「あぁ……数ヶ月前に教会へ出向いた際に、挨拶をしてくださいましたね。」
「覚えていてくださり光栄です、藤堂様。」
「こちらこそ……あ、本を。」
「ありがとうございます。」
紫月は本をエリアスに手渡す。
「……」
「……」
「……あの…」
思わず声をあげる紫月。
エリアスが紫月の顔をジーッと見ていたからだ。
「いかがされましたか?」
「え?えぇっと……」
聞き返されるとは思わず、言葉に詰まる紫月。
「その……農作業でもされていらっしゃるんですか?」
「はい。実家が農家だったものでして。畑仕事をしていると落ち着くのです。……どうしてそのようなことを?」
「……先ほど本を渡した際に……左手の皮が厚く見えたものですから……」
「なるほど。」
まだ紫月への視線は途切れない。
気まづさで逃げたいと考えていた時だった。
「“ 裏切られた”という表情をされていますね。」
「え?」
驚いて固まる紫月。
「ふむ……“ 期待”を裏切られたといったところでしょうか。瞳の中の闇を見るに、以前にもそのようなことがあったのでは?」
「っ……どうして……」
嫌なものを見抜かれたようで、胸の奥がざわつく。
その時、後ろから声が聞こえた。
「紫月さーん!」
「どこ行ったのー!?」
リコとセリナの声だ。
恐らく、ユキミとミキも一緒だろう。
探してくれている。
分かっているのにーー
(今は顔を見られたくない……)
紫月は一歩、また一歩とその声から距離を取った。
「ごめんなさい……失礼します……」
逃げるように背を向ける。
その背中に、やわらかな声が落ちた。
「またお会いしましょう。ワタシは人の悩みを聞く仕事をしていますから。」
「……ありがとうございます。」
紫月は妙な安心感を覚え、足早にその場を離れた。
ーーー
「姫様……いったい、どちらへ……」
「もう敷地内は探したから……外にいるかもしれないね。」
「それなら、出入口の警備の方々が止めてくださいそうですが……」
「……街へ繋がる道の入口なら、うまく人や建物に紛れて移動出来るかもしれない。敷地内は引き続きリコたちに任せて、僕たちは街へ向かおう。」
「はい。」
道へ向かう途中、ロメオと墨男はリコたち四人と合流した。
「みんな、この敷地内は任せたよ。」
「「「「うん!」」」」
短いやり取りののち、二人は街へと続く道へ出る。
「街となると……捜索はより困難ですね……」
「栄ほど大きな街ではないけれど……それでも中々広いからね。」
互いに苦笑いをしながら道を抜け、街へと出た瞬間だった。
墨男の足が、ぴたりと止まる。
その視線の先。
一人の男が、赤い傘の下で団子を食べていた。
赤い髪。灰色の瞳。
同じだった。
その顔は昨日、緑田が捕縛したはずの襲撃者と同じものだ。
その姿を認識した瞬間、墨男の身体が反射的に動く。
カッ――
短剣が、迷いなく構えられた。
「……っ」
空気が一変する。
周囲のざわめきが、一拍遅れて広がった。
人々の視線が、一斉に集まる。
落ち着いているのは赤髪の男のみ。
「……墨男君」
ロメオが一歩前に出て、墨男の前に立った。
「あの人は、エリアス・カルミナ神父だ。マティアス・ルーファスとは別人だよ。」
「……別人、ですか……?」
構えたまま、墨男は男を見据える。
疑いを隠しきれない眼差しで。
その視線を受けながら――
エリアスは、ふっと笑った。
「紛らわしくて、申し訳ありません。ワタシはエリアス・カルミナ。バレンティアから参り、今はこの藤ノ国のルーメン教会で神父を務めております。以後、お見知りおきを。」
柔らかな声音。
だがどこか、楽しんでいるようにも聞こえる。
「マティアスは、ワタシの兄なのです。」
「兄……!?」
思わず声が上がる。
あの襲撃者――
マティアスのニヤケ顔が、脳裏に蘇る。
墨男はロメオへと顔を寄せ、小さく囁いた。
「……出過ぎたことを申しますが……兄弟となれば、拘束すべきでは……」
「ワタシと兄は、育ちが違うのです。」
言葉を遮るように、エリアスが口を開いた。
「「――!」」
二人の視線が跳ねる。
エリアスはその反応を見て、くすりと笑った。
「失礼。どんなに小さな声も聞き逃さないように、普段から仕事をしておりまして。」
どこまでも穏やかな口調。
だがその内容に、墨男の警戒が一段階強まる。
(この男、只者じゃない。“ 色つき”だから当然ではあるが……)
確かに、声は抑えたはずだった。
それを、まるで当たり前のように拾われた。
墨男の手に、より力がこもる。
「そう警戒しないでください。ワタシは、ただの神父なのですよ?」
エリアスは、肩をすくめるように微笑んだ。
「……墨男君」
ふいに、ロメオの手が肩に置かれる。
その温もりに、張り詰めていた糸がわずかに緩んだ。
墨男はゆっくりと短剣を下ろす。
「……失礼いたしました。」
「いえいえ。」
エリアスは穏やかに首を振る。
「ああ、そういえば。先ほど姫様にお会いしました。なにか思い悩んだ様子でしたが……」
「「え!?」」
ロメオと墨男は顔を見合わせる。
「姫様はどちらへ!?」
「あちらの方向に行かれましたよ。詳しい場所までは分かりませんが……」
「あ、ありがとうございます!!」
言い終わるより早く、墨男は指さされた方向へと走って行ってしまった。
そのまま、人混みの中へ消えていく。
「……殿下を置いて行ってしまいましたね。」
「良くも悪くも、目先のことに一生懸命な子なんだよ。」
「可愛らしい方ですね。殿下もあのくらい、勢いがあってもいいのでは?あの方よりもお若いんですから。」
「アハハ……それじゃあ僕も、走って探しに行こうかな。彼を見習って。」
「えぇ。その方が、きっと彼女も喜びます。」
こうしてロメオも、紫月を探しに走った。
「……ふふっ。原因はあの黒服か。」
エリアスは串に残った最後の団子を食べた。
「お姫様の心を救うのは……黒服の彼か、殿下か、それともワタシか……。」
傘の下で甘さを確かめるように、わずかに目を細めるのだった。
ーーーーーー
「……はぁ……」
こめかみの奥が、ずきりと痛む。
ずっと何かが、引っかかっているだ。
“ 裏切られた、という表情をされていますね。”
“ 以前にもそのようなことがあったのでは? ”
エリアスが放ったあの言葉。
思い出せそうで。
けれど、掴めない。
(……何を……)
考えようとするほど、頭の奥が締めつけられる。
「……っ」
ぽたり、と雫が落ちた。
自分でも気づかないうちに、また涙が溢れている。
(どうして……)
理由が分からない。
悲しいわけでも、苦しいわけでもないはずなのに。
ただ、胸の奥で何かが軋んでいる。
そんな感覚がした。
(寒い……)
抱きしめるように、自分の腕を掴む。
それでも、寒さは消えない。
(……墨男)
無意識に、名前が浮かぶ。
(来て……)
誰にも聞こえない、小さな願い。
(……迎えに来て)
その時。
「――見つけた。」
すぐ近くで、声がした。
はっとして顔を上げる。
視界の先に立っていたのは、
「……ロメオさん……」
彼だった。
何やら、肩を上下させて息をしている。
ロメオが息を荒らげているのは珍しい。
いつも爽やかで、余裕がある人物のはずなのに。
「……」
ロメオは何も言わず、ゆっくりと上着を脱いだ。
そして、それをそっと紫月の頭へとかける。
「……?」
突然のことに、紫月は小さく首を傾げた。
視界の端で、布が揺れる。
「風邪、ひいてしまいますよ。」
その一言で、ようやく気づく。
ぽつ、ぽつ、と。
足元に小さな波紋が広がっている。
――雨。
いつの間にか、降り出していたのた。
頬を伝っていたものが、涙なのか雨なのか、分からなくなる。
肩も、袖も、すでに濡れていた。
「……あ……」
そして、目の前のロメオもまた同じように濡れていることに気づく。
紫月はわずかに目を伏せた。
「……ありがとうございます。」
小さく礼を言う。
だが、
(……今は……)
“ 今、この人も話をしたいわけではない。”
そんな自分に、気づいてしまう。
ロメオはそれを咎めることなく、ただ穏やかに微笑んだ。
「ほら、リコやセリナも、ユキミもミキも……墨男君も、きっと濡れながら探しています。」
「…皆さんが……」
「……みんなで帰りましょう。」
その言葉に、紫月の胸がきゅっと締めつけられる。
「……ごめんなさい。」
本心から、ぽつりと零れた。
「……」
ロメオは何も言わない。
ただ、静かに首を横に振り、そっと手を差し出す。
無理に引くでもなく、そこに待ってくれているだけの手。
紫月は一瞬だけ迷いーー
やがて、その手を取った。
ロメオは優しく支え、立ち上がらせる。
「……あの」
紫月は、ふと気づいたように口を開く。
「これではロメオ様が……ずっと濡れたままでは……?」
自分だけが守られていることが、どうしても落ち着かない。
紫月は、そっと上着の端を持ち上げた。
「一緒に……使いませんか。」
「!」
ロメオは一瞬だけ目を見開き、
「……」
「……」
それから、やわらかく微笑んだ。
「……ええ。」
どこか嬉しそうに。
二人は同じ布の下で歩き出す。
雨音が、静かに地面を打つなかで。
その光景を――
少し離れた場所から、見ている影があった。
「……」
墨男だ。
伸ばしかけた手は、すでに下ろされている。
一歩、遅かった。
(……俺が……)
胸の奥に、鈍いものが沈む。
(……迎えに行きたかった……)
視線の先で、二人は並んで歩いている。
同じ上着の下で、同じ方向を向いて。
あまりにも似合いすぎる二人が。
墨男は、ただそれを見つめていた。
何も言えず、
何もできず。
ただ、
ほんのわずかに、
ギリッ
奥歯を噛みしめた。
ーーーーーー
調理場に戻った一行は、係の者からそれぞれタオルを受け取った。
濡れた髪や衣服を軽く拭きながら、自然と話は移動のことへと移る。
「「「「さ、さむーい!」」」」
「すみません、私のせいで……」
紫月の現在の住まいよりも、紫十郎と紫水の屋敷の方が近い。
そのため、全員でそちらへ向かうことになった。
「うぉ、ずぶ濡れだなぁあ!!!早く風呂に入ってこぃぃぃいいい!!!!」
屋敷に着くなり、紫十郎が声を張り上げる。
雨は、いまだ強く降り続いていた。
ーー
「ふぅ……」
ひと足早く入浴を済ませた紫月は、かつての自室の鏡台の前に座り、濡れた髪を軽く拭っていた。
湯気の余韻が、まだ肌に残っている。
「……」
ふと、鏡の中の自分と目が合う。
頭の奥に、まだ靄のようなものがかかっている。
思い出せそうで、届かない感覚。
胸の奥が、静かにざわついていた。
コンコンコン
控えめなノックの音が響く。
「……はい。」
「姫様、墨男でございます。今、お時間よろしいでしょうか。」
その声に、紫月の心臓がわずかに跳ねた。
(……墨男)
しかし同時に、先ほどのことが頭をよぎる。
ロメオと並んで歩いたこと。
それが、墨男を前にすると後ろめたさを感じてしまう。
「……ごめんなさい。少し、身支度をしていて……今は部屋を出られないの。」
顔を合わせる勇気が出ず、言葉を選んだ。
「……左様でございますか。では、扉越しでもよろしいでしょうか。」
「……えぇ。」
小さく頷き、紫月は扉の前へと歩み寄った。
扉一枚を隔てて、互いの気配だけがそこにある。
墨男は一度、息を整えた。
「昼の……練り切りの件でございますが……」
その言葉に、紫月の胸がきゅっと締まる。
「姫様の望まれるものをお出しできず……申し訳ございません。私は――」
「いいえ」
言葉を遮るように、紫月が口を開いた。
「謝るのは、私のほうよ。あなたがせっかく、手間をかけて作ってくれたものを……受け取れなかった。本当に、ごめんなさい。」
「姫様が謝ることではありません……!!」
思わず強くなる声。
「すべては、私が――」
「違うわ。」
再び、紫月の声がそれを止める。
「……私は、自分の感情に振り回されて……あなたの気持ちや苦労を踏みにじるようなことをしてしまった。みなさんにも、迷惑をかけてしまった。それが……自分で許せないの。」
扉の前で、墨男は言葉を失った。
「私の苦労など……姫様に比べれば、取るに足らぬものです。ですから、どうか……謝らないでください」
トン――
その時、かすかな音がした。
「……」
紫月が、ドアに額を預けたのだ。
すぐ向こうに、気配を感じる。
(……姫様)
ほんの一枚の隔たり。
墨男の鼓動が、わずかに速くなる。
「……あの練り切りだけど、」
不意に、紫月が言った。
「もう……捨ててしまった?」
「い、いえ……」
声が少し上ずってしまった墨男。
「セリナ様が召し上がりました。その……空腹のご様子でしたので……私が……」
「え?」
驚いてしまう紫月。
きっと、少しだけセリナのことを恨んだだろう。
「……そう。なら……また、作って。」
「――!」
墨男は思わず顔を上げる。
「よろしいのですか……?」
「……えぇ。」
紫月の声が、僅かにやわらいだ。
「私、あなたの作る練り切りが一番好き。」
ドクン
墨男の胸の奥で、強く音が鳴る。
頬が熱を帯びるのを感じながら、それでも姿勢を正す。
「……もったいなきお言葉。必ずや、最高の一品をお造りいたします。」
「えぇ……楽しみにしているわ。」
「……」
トッ
墨男は周囲に誰もいないことを確かめ、そっと額を扉に寄せた。
紫月が気づいているかは、分からない。
触れることはない。
それでも――
(墨男……)
(姫様……)
互いの温もりだけが、そこにあった。
主人公四人の影が薄いです。
もっと頑張ってください。




