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杉並大学探偵事務所  作者: カダシュート
瞑想は水底に沈んで
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絶体絶命

「返事しなさいよ。」

 わたしに答える気が無いのがわかると、あの女はドアを開いた。車内へ乗り込むような音がした。ただ、ドアは閉めなかった。その途端、車がガクン、と動いた。

 再び、声が響いた。今度は車内からだった。

「どう?これで私の言っていることが嘘じゃないって分かったでしょう?」

わたしは、ようやく、わかった、とだけ言った。それよりも、車が動いた瞬間、わたしは脱出する方法を見つけたのだ。

 でも、そのためには彼女には車外にいてもらわなければならない。

 わたしはようやく、といった感じで声を出した。

「わかったわ。答えるわ。わたしと裕樹は恋人じゃあなかったわ。」

返答は無かった。そんなことよりも、わたしはトランクの中にあるはずのものを探していた。ようやく見つけたときに、あの女が言った。

「じゃあ、裕樹の部屋に泊まった、あの日には何もなかったというの?」

わたしは、音を立てないようにスペアタイアの隙間から工具入れを取り出すとドライバーを探した。

「何も無かった、と前にも言ったでしょ?」

今度はすぐに返事が返ってきた。

「嘘だわ。あんたはあの日、裕樹と寝たのよ。私に嘘をついても、すぐに分かるのよ。」

「じゃあ、聞かないでよ。」

「いいわ。そんなみじめな所で話している、あんたに免じて許してあげる。どうせ、すぐに死ぬんだから。」

わたしは、手探りでドライバーを動かしながら、話し続けなくちゃ、と思っていた。

「どうやって、わたしを殺そうっていうのかしら?この車、あなたのでしょ?オペルとかいうやつ。」

「おあいにくさま。これは別の車よ。」

「だからといって、あしがつかないっていう理由にはならないわ。」

「それがね、なるのよ。何故かっていうと、このダム湖は水を抜かないの。だから、このまま水に沈めても、何年も見つからないのよ。」

わたしは、一つ目のネジを外し終えて、苦労しながら体の向きをかえた。トランクの広い車で良かった、とその時思った。

「じゃあ、どうして裕樹もそうやって殺さなかったのよ、ストーカーさん?」

あの女は黙り込んだ。実は、黙ってもらったほうが、仕事はやりにくい。音を立てにくくなるからだ。

「どうして私が裕樹を殺したって思うの?」

「さあ。あなたくらいしか動機のある人間を思いつかなっただけよ。」

「わたしに動機がある?」

「無いの?」

またしても、黙り込んだ。仕事がやりにくい。

「私は殺して無いわ。」

「信じられないわね。だって、今もわたしを殺そうとしているんだから。」

その時、聞いたことの無い声が言った。

「おい、本当にこの女を殺す気じゃあないだろうな。」

ささやくような小さな声だったけれど、音を立てないようにネジを回すことに集中していた、わたしの耳には充分な音量だった。男の声だった。

「殺してやりたいわ。この女のせいで裕樹は死んだんだから。」

雲行きが怪しくなってきた。わたしの仕事は半分も進んでいなかった。時間をかせなぐてはならなかった。

「ねえ、どうしてわたしのせいだったって言うの?わたしが何をしたのよ?」

「裕樹と寝たからよ。」

「だからって、裕樹が死ぬ理由にはならない、そうじゃない?」

「なるのよ。」

そういう声がして、ドアを開く音がした。そのすぐあとに、さっきの男の声がした。今度ははっきりと聞こえた。

「やめろ!」

けれども、車は徐々に動き出していた。ドアがバタンと閉まる音がして、タイアが砂利を噛む音が響いた。それは徐々に大きくなっていった。遠くで、さっきの男が喚いているのが聞こえた。女を責めているような感じだったけれど、だからといって、車のスピードは一向に落ちたりはしなかった。

 わたしは、と言えば、ようやくネジを外し終えたばかりだった。間に合わない。

 真っ暗な中で、わたしは後部スピーカーを押し退けて祈るような気持ちで車内に手を伸ばした。それは、まさに期待通りの場所にあった。可倒式の後部シートのつまみだ。リアスピーカーは後部シートの後ろにあって、それはベニアのような板に2本くらいのネジで留められているに過ぎない。それを外せば、手が入るほどの小さな穴が出来る、ということだ。さらに、今の車は大抵後部シートが倒れて、室内とトランクが繋がるように出来ている。そのつまみは、シートのすぐ後ろについていることが多い。

 わたしは、つまみを引きながら、足でそのシートを思いきり蹴り飛ばした。

 本当に、ラッキーだった。一発でそのシートは室内側に倒れ込んだ。車が砂利道で跳ねる感じから、もはや相当な速度がつき始めていることが分かった。わたしは急いでその薄暗くて狭い空間から抜け出した。

 車内には、当然、誰もいなかった。あたりは暗闇のままだったけれど、窓の外には流れていく景色が見て取れた。それから、星がきれいだった。

 車を止めなくちゃ。

 わたしは、這うように後部シートの上を進み、サイドブレーキを力任せに引いた。

 その瞬間、音がしなくなった。

 一瞬、何が起こったのか分からなかった。次の瞬間、ジェットコースターに似た、あの感覚がおそってきた。

 つまりは、落下する感覚。わたしは、サイドブレーキにしがみついていた。今となっては、いくらそんなものにしがみついたところで、なんの役にも立たないことは分かっていたけれど、離すことは出来なかった。

 死ぬ瞬間について、いろんなことを聞いたことがあるけれど、恐怖感しかなかった。果てのない暗闇に向かって、鉄の棺桶に乗ったまま落ちていくその感覚が、どれほど恐ろしいか、とても書き現わすことなんて出来ない。わたしに見えていたのは、過去の思い出でもなく、絶望でもなく、ただ、サイドブレーキとそれを握っている自分の2本の手だけだった。

 水面に落ちた瞬間、わたしは激しく体を打っていた。何処でどう打ったのか、全く分からなかったけど、たぶんサイドブレーキのレバーで腕を運転席のシートで背中を打ったんだろう。それで、不安定な下半身をひねったのだろう。わたしにとって運がよかったのは、サイドブレーキにしがみついていて、車内で体があばれなかったことだった。

 気がつくと、不思議なことに車は水面に浮いていた。

 何かで読んだことがあるけれど、海なんかに落ちた車は何分かの間、車内の空気の浮力で浮いているのだという。幸いにも、車はエンジンの重みで前のめりに落ちたものの、ガラスも割れずにすんだ。けれどもそれほどの余裕はないはずだ。わたしは体中の痛みを無視して、手短なドアレバーを引いた。

 ドアは開かなかった。

 水没しかけた車の外には予想以上の水圧がかかっていたのだ。わたしは回りを見渡した。水面は前席の窓ガラスに達しようとしていた。ドアの隙間から容赦なく水が入ってくる。パニックになりそうな脳をしかりつけ、どうすればいいかを必死で考えた。

 後部席のドアは?

 駄目。そっちにも水圧がかかっている。

 ガラスを破れば?

 割るものがない。自動車用のガラスは、ちっとやそっとじゃ割れないほど頑丈だ。素手では、絶対に割れない。

 トランク。

 前のめりに沈みつつある車の唯一水圧のかかっていない扉はそれしかなかった。

 わたしは、もはや水没していた前席の下へ手を突っ込んだ。

 水は、想像以上に冷たかった。夏とはいえ、夜明け前のダムの水は泳ぐには冷たすぎる。ようやく、探し当てたレバーを引いた。

 もはや、だいぶ傾いた車のトランクに目をやる。

 開いて無い。

 わたしは、もう一度レバーをひいた。

 駄目だ。開かない。

 そこで、ようやくそれが、ガソリンの給油口レバーだと気付いて、もう一つのレバーを探した。

 今度は、運良く開いた。

 わたしは、斜面になってしまった車の前席の間をよじ登った。水は、もう、そのシートを飲み込もうとしていた。わたしは、急速に沈み始めた車の中を、崖をよじのぼるように進んだ。さっき抜け出したトランクへ潜り込み、さらにそこから外をめざした。水は、わたしを追うように侵入してきていた。もう、着ているものはずぶ濡れだった。それはわたしの動きを妨げて、思うように体が動かなかった。トランクへ頭を突っ込んで、その狭い隙間に体を通した。そこで、ついに車は垂直になった。わたしは、トランクの中へ、車内に侵入した水に押し流された。とにかく、わたしは無我夢中で車外に出ることを考えていた。

 自分でトランクから外へ出たのか、それとも押し流されたのか分からなかったけど、わたしは広い水中へと出ることが出来た。でも、それで危機が去ったわけではなかった。

 1トン以上の大きな塊が急速に沈むとき、それが巻き込む水の流れは、予想以上に大きい。いくらもがいても、平衡感覚を無くすだけだった。わたしは、諦めることにした。

 水の流れにさからってもがいても、息が続かない。パニックになる頭を必死で抑えつけ、息を止め、目を閉じてその水流から離れるのを待った。

 だから、目を開けて、その光が見えたとき、単に運がよかったのだと思う。

 わたしは、必死にその光を目指して腕を動かした。季節が夏で、必要以上に服を着ていなかったことが幸いした。濡れた洋服の抵抗というのは恐ろしく大きいのだ。

 たぶん、車が水中に落ちてから、本当の所、5分くらいの出来事だったんだろう。でも、わたしには1時間にも2時間にも感じられた。とくに、水面に向かってもがいていた、その時間が一番長く感じられた。見えているのに、たどりつかないのだ。

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