危機からの脱出
酸素を好きなだけ吸いながら、わたしは暗い水面に浮いていた。手で水をかいて、頭だけを水面から出して、浅い呼吸を繰り返していた。大きく息を吸えないのは、水が冷たすぎるからだったけれど、それでも、空気が吸えるのはとてもうれしかった。あたりには、車内から浮かび上がったオイルやガソリンの匂いがしていたけど。
そうっと水をかいて、岸のほうへ泳ぎ始めた。とにかく、ここから離れたかった。しばらくは、水なんか見たくもなくなるだろう、と思った。
ジーンズが足にまとわりついて足を動かすことが出来なかったから、わたしは腕だけで泳がなくてはならなかった。何度も、水を被って、その度に長い髪が顔にかかって前が見えなくなった。その度に髪をかきあげた。ようやく10メートルほどの距離だった岸にたどりついて、その崖の下に生えていた木につかまった。そのあたりは枯れ木やそうでない木がたくさんあって、足や腰や腕を容赦なくひっかいたり、つついたりした。ほんの1メートルくらいだけれど、ここから先へ進むのは、とても大変だと感じた。
その時、頭上で話し声がした。
と、同時に水面を照らす明りが見えた。
最初の何秒かは、わたしを助けに来たのかと思ったけれど、冷静に考えてみて、車が落ちてから10分か15分しかたっていないのだ、と気がついた。言い争っているような話し声は、内容まではわからなかったけれど、あの女と、もう一人の男だと思った。おそらく、落ちた車を探しているんだろう。暗い湖面を頼りない明りが滑っていく。
ふと、さっき水中で見た光が、その懐中電灯の光だったということに気がついた。暗い水中で、わたしが目指した助かる道標は、あの女の照らした光だったとは。
あまりに皮肉っぽくって、わたしは水中から見上げながら思わず、苦笑せずにはいられなかった。
岸に沿うように泳ぎながら、木の枝の無い、地面に上がりやすいところを探した。高さ4、5メートルの崖になっていて、その上は道路なんだろう。本当は早く水から出たかったのだけど、木の枝を越えたところで崖は登れるようには見えなかったし、第一木が多くて近づけなかった。仕方無しに泳いだ。木につかまって体を支え、途中でジーンズ脱いだ。水に濡れたジーンズを脱いだ経験がある人なら分かるだろうけど、これは一苦労どころか二苦労か三苦労くらいある。脱いでしまってから、それをどうしようかと思ったけれど、無いと後で困りそうだったから、なるべく邪魔にならないようにして持っていくことにした。
そうやって、泳ぎながら、どんどんと体力が失われていくのが感じられた。冷たい水が体中からエネルギーを奪っていっているようだった。
夜が明け始めた頃、わたしは上陸出来そうな崖の崩れた所を見つけた。そうは言っても、泳ぎ始めて2、30分の頃だったと思う。ひょっとするともっと短かったのかもしれない。とにかく寒かったし、暗かったし、疲れていた。
平泳ぎで、最後の力を振り絞ってそこへ向かって泳いだ。徐々に明るくなっていくにつれて、辺りの景色が見えてきた。そこは、ずうっと続く崖の崩れた一角だった。どろに手が触れて、わたしは、這うようにしながら岸へと上がった。水の中から、浮力の助けの無くなった自分の体を持ち上げるとき、余りに重くて支え切れずに泥の中に倒れ込んだ。そうやって、泥まみれになって、ようやくわたしは地面の上にたどりついた。
しばらく、そこに倒れ込んでいることも出来た。けれども日が上り始め、下着姿で泥まみれの自分の中に、文化的な人間らしさが戻りつつあった。素っ裸も同然の姿を見られたくなかったし、泥まみれで素っ裸なのは、もっと嫌だった。たぶん、そんなことを考えられるほどだから、なんとか体力も残っていたんだろう。
後から考えると、すごく滑稽なんだけれど、わたしはそこで泥まみれになった下着と服を洗濯したのだ。完全に明るくなり切ってしまう前に、着ているものを澄んだ水で洗ったのだ。それから、わたしは岩の上によじ登り、そこで服を着た。脱ぐときも大変だったけれど、いくら絞ったとはいえ、濡れた服を着るのもかなり大変なのだ。
そんなことをしているうちに、夜は明けた。
洗ったとはいえ、砂利を完全に洗い流すことなんか出来なかったし、濡れたままのジーンズは歩きにくかった。それでも、崖の上の道にでるのは、なだらかに崩れた斜面のおかげで、それほどの苦労はせずにすんだ。
じゃりじゃりして気持ち悪いシャツと、大リーグ養成ギプスのように歩きにくいジーンズで、そのうえ裸足で、わたしは歩き続けた。人は通らなかったし、車も通らなかった。髪の毛もじゃりじゃりとして気持ち悪い。夜が明けたと言っても、季節は夏だから、まだ4時くらい。夜更かしの人は、もう寝ているし、早起きの人もまだ起きていない時間だ。ましてや、街から離れたダムなのだ。こんな時間にこんな場所を歩いている人間なんて、湖に車ごと突き落された人間くらいのものだ。
轟音をたてるダムの、その駐車場にたどり着いたとき、わたしは祈るような気持ちだった。まず、公衆電話があること。それから、それがカード専用ではなくて、コインが使えること。ジーンズのポケットには、タバコを買ったときのお釣の10円玉が2枚だけ入っていた。クールが280円で良かった。300円とか、200円とかだったら、絶対にこんなところに10円玉を持っていなかっただろう。
それから、町田が電話に出ること。もし、出なかった時は、田辺という手も無くはないけれど、できれば避けたかった。彼では、ここにたどりつくのに2週間くらいかかるだろう。地図を見るのが下手なくせに、どんどんと先に進んでいくタイプだからだ。
電話の呼びだし音が5回を過ぎて、留守番電話に切り替わった。携帯のほうの番号は覚えていなかった。町田のアパートの番号は記憶していた。
「起きろ、アスト。起きなさい。」
わたしは、電話に向かって叫んだ。ひょっとしたらいないかもしれなかったけれど、出てくれそうな気がしていた。わたしは、町田を呼び続けた。
「起きてよ。ねえ。」
電話の向こうで、メッセージが止まり、眠そうな声が流れてきた。
『なんだよ、奈々。今、何時だと思って・・・』
「いいから、岩谷ダムまで来て。車で。向かえに来て。岩谷ダムよ。」
わたしは、その公衆電話に書いてあったダムの名称を言った。
『なんでそんなところにいるんだよ。おれは眠いんだよ。あと2時間くらいしてからじゃ駄目か?』
「お願いだから、早く来て。」
そう言い終わるか言い終わらないうちに、無情にも電話は切れた。ひょっとしたら、ここは市外なのかもしれない。でも、時間的に考えて、わたしのアパートから1時間以上かかったとも思えなかった。
一度受話器をフックに戻し、緊急ボタンを押した。
警察へ電話をする。
「はい、110番です。事件ですか、事故ですか?」
「事件です」
「どうしましたか?」
「えと、殺されそうになって?誘拐されて?」
「殺されそうになった?」
「車ごと湖に落とされました」
そこまで言うと、わたしは目を閉じた。なんだかすごく眠かった。電話ボックスの壁にもたれて、そのまま崩れ落ちた。




