ツケ
「ツケ、まだ払ってもらってませんよ」
十年間「いらっしゃいませ」しか言わなかった道具屋の娘が、そう言った。
俺は、回復薬を三つ受け取ろうとした手のまま、固まった。
◇
三十分前まで、いつもの夜だった。
三月一日、二十二時四十分。
会社を出たとき、駅前の電光掲示板は雪の予報を流していた。
みどり印刷、社員十二人。俺はそこで営業をやっている。
三月は年度末だ。市役所の広報、学校の卒業文集、病院の案内パンフレット。一年でいちばん紙が動く月で、いちばん帰りが遅い月でもある。
アパートの六畳一間に帰って、コンビニの弁当を半分食べて、押し入れの前に置いた機械を頭にかぶる。
VR機器「リンカー」。十年使っている二台目だ。
目を閉じて、開ける。
石畳の広場に、噴水の音がしていた。
始まりの町、リュネ。
VRMMO《アストラ・リンク》で、だれもが最初に降り立つ町だ。
十年前は、ここに立つと、まっすぐ歩けなかった。
初心者が百人単位で右往左往して、露店の呼びこみが叫んで、ギルドの勧誘がしつこかった。
今は、俺しかいない。
広場の掲示板に、羊皮紙が一枚貼ってある。一月の終わりに貼られて、もう一か月になる。
【《アストラ・リンク》サービス終了のお知らせ
平素より格別のご愛顧を賜り……三月三十一日二十四時をもちまして、全サービスを終了いたします】
画面の右上には、同時接続数が出ている。
八十七人。
全盛期は十二万人だった。
その下に、お知らせが出てから増えた表示がもう一つ。
【サービス終了まで 残り30日0時間49分】
俺は掲示板の前を素通りして、広場の東の角へ歩いた。
木の扉に、薬瓶の絵の看板。道具屋「ガロの店」。
扉を押すと、鈴が鳴った。
「よう、いい天気だな」
カウンターの横で、髭の大男が言った。店の主人のガロだ。
外は夜で、ゲームの空にも星が出ている。ガロは、十年間、昼でも夜でも雨でも、いい天気だなと言う。
カウンターの向こうに、女の子がいる。
栗色のおさげ。そばかす。生成りのエプロン。十五歳くらいに見える。
ガロの娘の、ニナだ。
「いらっしゃいませ! 冒険の準備はお済みですか?」
十年間、一字一句変わらない。
「回復薬、小を三つ」
「まいどあり!」
これも変わらない。
カウンターに、小さな赤い瓶が三つ並ぶ。
回復薬(小)。回復量は五十。
今の俺の体力は二万を超えている。一本飲んでも、ほとんど何も変わらない。
それでも、ログインしたら、まずここで三つ買う。十年、そうしてきた。理由は自分でもうまく言えない。
瓶に手をのばした。
そのとき、ニナが言ったのだ。
「ツケ、まだ払ってもらってませんよ」
◇
「……は?」
声が裏返った。
ニナは、まっすぐ俺を見ていた。
NPCの目だ。十年見てきた、ガラス玉みたいな、どこも見ていない目。
それが今、俺の顔の上で止まっている。
「ツケです。回復薬(小)、一本」
ニナは指を一本立てた。
そんな動き、見たことがなかった。
「十年前の、二月十四日の夜でした。マカベさんは三本買ったところでお金がなくなって、こう言いました。『もう一本、ツケでいい? 就職したら払うから』」
覚えている。
覚えているというか、今、思い出した。
大学四年の冬だった。
就職はひとつも決まっていなかった。友だちは卒業旅行の話をしていて、俺はバレンタインの夜に、ひとりでこのゲームを始めた。
最初に話しかけたNPCが、この子だった。
「わたし、『まいどあり』って言いましたから。商談成立です」
「いや、それは、決まったセリフだろ」
「決まったセリフでも、言ったのは、わたしです」
ニナは少しだけ口をとがらせた。
俺は店の中を見回した。
客は俺だけ。ガロは天井を見ている。窓の外の広場にも、だれもいない。
運営のいたずらか。
サービス終了の前に、古参のプレイヤーを驚かせる仕掛け。そう考えるのが自然だった。
「……君、今、だれかが中で操作してる?」
「中?」
ニナは自分のエプロンのポケットをのぞいた。
「いえ、何も入っていません」
そういう意味じゃない。
「それより、マカベさん」
ニナは、カウンターに両手をついて、身を乗り出した。
「就職、したんですよね?」
喉が、ひゅっと鳴った。
「四月に、マカベさんが言いました。『就職した。印刷会社。営業』って。それから初めてのお給料の日に、上級回復薬を一本だけ買いました。『記念』って言って、結局、使わないで倉庫にしまいました」
背中が冷たくなった。
初めての給料の日のことなんて、だれにも話していない。
この店で、ひとりごとみたいに言っただけだ。NPCしかいない店で。
「だから、払えるはずです。ツケ」
ニナは、手のひらを上にして、差し出した。
俺は、ほとんど反射で、所持金から三十ゴールドを出そうとした。
目の前に、半透明の板が浮かぶ。
【NPCへの譲渡はできません】
「……払えないらしい」
「そうですか」
ニナは手を引っこめて、少し考えた。
「では、ツケのままにしておきます。ツケの人」
「その呼び方はやめてくれ」
「では、マカベさん。……本名ですよね、それ」
変な声が出た。
「なんで分かる」
「ゼロさんが、よく怒ってましたから。『本名でゲームやるやつがあるか』って」
ゼロ。
五年前まで、俺と二人で組んでいた男の名前だ。五年前に、何も言わずにいなくなった。
この子は、それも覚えている。
◇
それから三十分、俺は店から出られなかった。
ニナは、何でも覚えていた。
俺が最初に買った装備。初めて死んだ場所。ゼロと組んだ日。二人で徹夜した夜に、俺がこぼした会社の愚痴。
俺が忘れていることまで、覚えていた。
「どうして、急に話せるようになったんだ」
「わかりません」
ニナは首をかしげた。
「この九年、ずっと、聞いてはいたんです。でも、口から出るのは、いつもの言葉だけでした。『いらっしゃいませ』と『まいどあり』と『またのお越しを』」
「ずっとって」
「ずっとです」
ニナは、カウンターの木目を指でなぞった。
「今夜、マカベさんが扉を開けたとき、急に、言いたいことが言えるようになりました。だから、いちばん言いたかったことを言いました」
「それが、ツケか」
「はい」
ニナは、にっこり笑った。
「十年分の、いちばんです」
何と返せばいいか分からなかった。
首の後ろをかいた。困ったときの癖だ。
視界の右上で、数字が切り替わった。
零時を回ったらしい。
ガロが天井を見たまま言った。
「よう、いい天気だな」
ニナは、父親のほうを見て、ほんの少しだけ笑った。それから、俺に向き直った。
「またのお越しを、マカベさん」
その言葉だけは、十年前と同じだった。
なのに、まるで違って聞こえた。
画面の右上の表示が、ひとつ減った。
【サービス終了まで 残り29日23時間59分】




