深夜の声
その夜。
俺は眠れなかった。
ベッドに入ってから。
もう二時間は経っている。
時計を見る。
午前二時。
「……」
目を閉じる。
今日の試合を思い出す。
リング。
ゴング。
相手のパンチ。
自分のパンチ。
そして。
完敗。
「……」
俺は布団の中で寝返りを打った。
右。
左。
また右。
また左。
「眠れねえ……」
枕を抱える。
「……」
もう一度、目を閉じる。
すると。
今日の相手のパンチが頭に浮かんだ。
ドンッ!
「うわっ!」
俺は飛び起きた。
「……夢か」
部屋は真っ暗。
静かだった。
俺は額を押さえた。
「今日の試合……きつかったな」
しばらく天井を見つめる。
そして。
昼間からずっと考えていたことを口にした。
「……俺、ボクシング向いてないのかな」
誰もいない。
当然、返事はない。
俺は続けた。
「人を殴るのって……やっぱり遠慮しちゃうし」
今日の試合でも。
相手を本気で倒そうとすると。
どこかでためらってしまった。
もちろん。
リングに上がった以上、戦わなければならない。
分かっている。
でも。
「人を殴るの、向いてないのかな……」
俺はため息をついた。
「運動神経はいいんだけどな」
そこだけは。
自分でも自覚している。
走るのも速い。
反応も速い。
身体の使い方も悪くない。
ジムでも褒められていた。
それなのに。
本番になると。
何かが足りない。
「強くなりたい……」
俺は拳を握った。
「もっと強くなりたい」
その瞬間だった。
「――魔王」
「……」
俺は固まった。
今。
何か聞こえた。
「……?」
俺はゆっくり布団から顔を出した。
部屋を見る。
誰もいない。
「……父さん?」
返事はない。
俺はベッドから降りた。
「父さん、まだ起きてたの?」
部屋のドアを開ける。
廊下。
誰もいない。
「……」
リビング。
真っ暗。
台所。
誰もいない。
俺は首を傾げた。
「母さん?」
返事なし。
俺は時計を見る。
午前二時十三分。
「……」
もう一度、部屋に戻る。
ベッドに座る。
そして。
「気のせいか」
そう言った瞬間。
「魔王」
「うわあああああっ!」
俺はベッドから飛び上がった。
「誰!?」
部屋を見回す。
誰もいない。
「誰だ!」
返事。
「魔王よ」
「いや、だから誰だよ!」
「お前だ」
「俺?」
「そうだ」
俺は自分を指差した。
「俺?」
「そう」
「……」
しばらく沈黙。
「俺、寝ぼけてる?」
「違う」
「じゃあ脳?」
「違う」
「今日の試合で脳がおかしくなった?」
「違う!」
声が少し怒った。
俺は布団の上で正座した。
「すみません」
「なぜ謝る」
「分からないけど、怖いので」
「……」
声が黙る。
俺も黙る。
数秒。
「魔王」
「はい」
「お前は強くなりたいか」
俺は少し考えた。
さっきまで考えていたことだった。
「……なりたい」
「もっとか?」
「もっと強くなりたい」
声が響いた。
「そうか」
低い声だった。
そして。
その声は言った。
「ならば――」
一拍。
「お前を魔王にしてやろう」
「……」
俺は瞬きをした。
「……え?」
「お前を魔王にしてやろう」
「いやいやいや」
俺は両手を振った。
「俺、実は魔王なんですよ」
「……」
声が沈黙する。
「名前が」
俺は自分を指差す。
「魔王」
「……」
「戸籍にも魔王って書いてある」
「知っている」
「だったらもう魔王ですよね?」
「そういう意味ではない!」
「じゃあ何の魔王?」
「真の魔王だ」
「真?」
「そうだ」
俺は腕を組んだ。
「でも俺、今プロボクサーなんですけど」
「知らぬ」
「今日負けたばっかりなんですけど」
「それも知らぬ」
「じゃあ俺のこと何も知らないじゃん!」
声が黙る。
「……」
「……」
「まあ、見ておれ」
「急に雑になったな!」
---
魔王、冷静になる
俺はベッドに座った。
「……」
怖い。
怖いのだが。
よく考えると。
もっと怖いことがある。
――自分が幻聴を聞いている可能性。
「……」
俺は自分の頬をつねった。
「痛い」
もう一回。
「痛い」
三回目。
「痛い!」
声がした。
「何をしている」
「いや、夢かどうか確認してる」
「夢ではない」
「じゃあ何?」
「お前は選ばれた」
「何に?」
「魔王に」
「だから俺は魔王だって!」
「名前ではない!」
「分かりにくいんだよ!」
声がため息をついたような気がした。
「お前は本当に……」
「何?」
「……いや」
「今、絶対『面倒くさい奴』って思っただろ」
「思っていない」
「絶対思った!」
---
魔王の悩み
俺は少し真面目になった。
「なあ」
「何だ」
「もし本当に強くなれるなら」
「ああ」
「俺はどうすればいい?」
声は答えなかった。
俺は続ける。
「今日、負けた」
「ああ」
「何もできなかった」
「ああ」
「悔しかった」
「ああ」
「だから……」
俺は拳を見つめる。
「強くなりたい」
今度は。
声はすぐに答えた。
「ならば、拳だけに頼るな」
「……」
「強さとは、拳の大きさではない」
「じゃあ何?」
「己の意思だ」
俺は黙った。
「戦うことだけが強さではない」
その言葉が。
妙に胸に残った。
俺は今日。
相手を倒すことだけを考えていた。
でも。
俺が本当に欲しかったのは。
「誰かを守れるくらい強くなりたい」
だった。
そのとき。
声が言った。
「ならば、その力を与えてやろう」
「本当に?」
「ああ」
「……」
俺は少し期待した。
そして。
「ちなみに」
「何だ」
「お金はかかる?」
「……」
「入会金とか」
「かからぬ」
「月謝は?」
「いらぬ」
「保険料は?」
「いらぬ!」
「じゃあ無料?」
「そうだ!」
「最高じゃん」
「お前は何を心配している!」
「でも、ただより高いものはないっていうし」
声がまた黙った。
俺は思った。
図星。
---
午前二時三十分
俺は時計を見る。
二時三十分。
「なあ」
「何だ」
「明日、学校なんだけど」
「……」
「寝てもいい?」
「まだ話は終わっていない」
「でも眠い」
「お前は本当に魔王なのか?」
「名前だけなら」
「……」
「あと朝練もある」
「……」
「五時半起き」
「早く寝ろ」
「え?」
「早く寝ろ」
「いいの?」
「夜ふかしはお肌の大敵だぞ」
「ボクシングやってる時点で、お肌気にしてないんだけど」
「うるさい」
俺は布団に入った。
「じゃあ、おやすみ」
「……」
「声さんも、おやすみ」
「私は声さんではない」
「じゃあ何て呼べばいい?」
「……」
「闇さん?」
「嫌だ」
「黒さん?」
「嫌だ」
「魔王二号?」
「絶対に嫌だ!」
俺は笑った。
「じゃあ、また明日」
声は返事をしなかった。
俺は目を閉じた。
すると。
少しずつ眠気がやってきた。
今日の試合。
悔しかった。
でも。
さっきの声の言葉が頭に残っている。
――拳だけに頼るな。
――強さとは、己の意思だ。
俺は拳を握った。
「……強くなりたい」
そして。
眠りについた。
---
翌朝
「魔王!」
「……」
「起きなさい!」
「……」
母さんの声。
「魔王!」
「……」
布団を引っ張られる。
「起きて!」
「あと五分……」
「五分前にも同じこと言ってたでしょ!」
「……」
俺は目を開けた。
「……母さん」
「何?」
「昨日、夜中に父さん来なかった?」
「来てないわよ」
「え?」
「お父さんならずっと寝てたわ」
俺は固まった。
「……」
「どうしたの?」
「いや」
俺は部屋を見回した。
当然。
誰もいない。
「……夢だったのかな」
母さんが首を傾げる。
「何が?」
「何でもない」
俺は着替え始めた。
しかし。
頭の中で。
あの声が響いた。
――魔王。
「……!」
そして。
声は言った。
――始まりだ。
「……」
しばらくして。
俺はため息をついた。
「……やっぱり脳、おかしくなってるのかな」
そして。
家を出た。
俺は朝練へ向かって歩いていた。
昨日の夜に聞いた謎の声。
あれは夢だったのか。
それとも本当に誰かが話しかけてきたのか。
考えながら歩いていると――。
――魔王。
「……」
俺は立ち止まった。
「また?」
返事はない。
俺は歩き出す。
一歩。
二歩。
三歩。
――魔王。
「はいはい」
俺は振り返る。
誰もいない。
「……」
俺は再び歩く。
数歩。
――魔王。
「……」
無視する。
さらに歩く。
――魔王。
「はい」
さらに歩く。
――魔王。
「はいはい」
さらに歩く。
――魔王。
「もう何!?」
俺はとうとう立ち止まった。
「ちょっと!」
周囲を見回す。
「ちょっと、歩かせてよ!」
朝の住宅街。
犬が一匹、こちらを見ている。
俺は犬を見る。
「……お前じゃないよな?」
「ワン!」
犬は吠えただけ。
「だよな」
俺は再び歩き始めようとした。
すると。
――魔王。
「また!」
俺は空を見上げた。
「何なんだよ!」
――聞け。
「何を?」
――大切な話だ。
俺はため息をついた。
「だったら、まとめて話してくれよ」
しばらく沈黙。
そして。
謎の声が言った。
――じゃあ、歩きながら聞け。
俺は固まった。
「……」
「……」
俺は一度だけ空を見上げた。
そして。
「そっか」
歩き始めた。
「歩きながら聞けばいいのか」
――そうだ。
「最初からそう言えよ!」
――お前が止まるからだ。
「呼んでるのそっちだろ!」
――……。
「……」
俺は歩きながら呟いた。
「何だ、この会話」
謎の声は淡々と続ける。
――お前は強くなりたい。
「うん」
――しかし、拳だけでは強くなれない。
「昨日も聞いた」
――ならば理解しているな。
「まあ、なんとなく」
――これからお前には――
「ちょっと待って」
――何だ。
「信号赤」
――……。
俺は横断歩道の前で止まった。
「交通ルールは守らないとな」
――魔王。
「何?」
――お前、本当に魔王なのか?
「だから!」
俺は信号を見ながら叫んだ。
「名前が魔王なだけだって!」
信号が青になった。
俺は歩き出す。
――それでも、お前は魔王になる。
「はいはい」
――信じていないな。
「全然」
――いずれ分かる。
「はいはい」
――そのとき後悔するぞ。
「何を?」
――私の言葉を信じなかったことを。
俺は少し黙った。
そして。
「……まあ」
前を向いたまま言った。
「そのとき考えるよ」
――そうか。
「うん」
――では、話を続ける。
「どうぞ」
――まず、お前は――
「……」
――魔王。
「何?」
――強くなりたいか?
俺は少し笑った。
「……なりたいよ」
今度は。
迷いなく答えた。
「もっと強くなりたい」
謎の声は。
それ以上何も言わなかった。
俺はそのまま朝練へ向かって歩いた。
ただ一つ。
気になった。
「……なあ」
――何だ。
「お前、俺の隣を歩いてるの?」
――違う。
「じゃあどこにいる?」
――それはまだ教えられない。
「なんだよ、それ」
――ふふ。
「笑った?」
――笑っていない。
「絶対笑っただろ」
――……。
俺は苦笑した。
朝の住宅街を。
俺は一人で歩いている。
いや。
正確には。
謎の声と一緒に歩いていた。
そして俺は。
まだ知らなかった。
この奇妙な声との会話が。
これから始まる長い物語の。
最初の一歩だったことを。




