魔王と勇者、完敗する
プロボクサーになって初めての試合。
俺は控室の椅子に座っていた。
手には白いグローブ。
足元には新品のシューズ。
目の前にはリング。
壁越しに、観客の声が聞こえる。
「次の試合、始まるぞ!」
「魔王!」
誰かが叫んだ。
俺は苦笑した。
「……またその名前か」
隣を見る。
健太が座っていた。
「魔王」
「何?」
「俺たち、本当にプロになったんだな」
「うん」
「なんか変な感じだな」
「高校の頃は、テストの点数で競争してたのにな」
「今はパンチで競争か」
「そうだな」
健太が笑う。
しかし。
その笑顔は少し硬かった。
俺も同じだった。
緊張している。
高校時代から何年も練習してきた。
縄跳び。
ロードワーク。
ミット。
サンドバッグ。
スパーリング。
何千回。
何万回。
拳を握ってきた。
そして今日。
ついに。
本物のプロのリングに立つ。
トレーナーが入ってきた。
「二人とも」
「はい」
「今日は勝ちに行け」
俺たちは頷いた。
「ただし」
トレーナーの表情が険しくなる。
「プロのリングは、ジムのスパーリングとは違う」
俺は黙って聞いていた。
「相手も勝つために来る」
「はい」
「遠慮なんかしてくれない」
「はい」
「苦しくなっても助けてくれない」
健太が拳を握る。
「分かっています」
トレーナーは二人を見る。
「自分の力を全部出せ」
「はい!」
俺たちは声を揃えた。
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魔王の初陣
先にリングへ上がるのは俺だった。
会場の照明が眩しい。
観客席。
リングサイド。
カメラ。
レフェリー。
そして。
向こう側にいる男。
俺のプロデビュー戦の相手。
身長は俺より少し高い。
肩幅も広い。
そして。
目が違った。
今までジムで見てきた選手とは違う。
俺を見ている。
まるで。
獲物を見るように。
俺は拳を合わせる。
「お願いします」
相手もグローブを合わせる。
「……」
無言。
ゴングを待つ。
カン――!
第1ラウンド。
俺は前へ出た。
ジャブ。
「シュッ!」
相手は避ける。
もう一度。
「シュッ!」
避けられる。
俺は右を出す。
「バン!」
しかし。
空を切った。
速い。
――いや。
俺が遅い。
相手が一気に踏み込んできた。
「!」
ドンッ!
左。
右。
左。
三発。
俺はガードする。
「ぐっ!」
衝撃が腕を突き抜けた。
観客が沸く。
俺は下がる。
相手が追ってくる。
ジャブ。
ストレート。
俺は避ける。
そして反撃。
「シュッ!」
俺のパンチが相手の顔をかすめた。
「入った!」
俺は思った。
しかし。
相手は笑っていた。
「……!」
怖い。
俺は初めて。
本物の怖さを感じた。
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第2ラウンド
俺は作戦を変えた。
足を使う。
距離を取る。
相手の攻撃をかわす。
そしてカウンター。
ジムで何度も練習した。
俺は運動神経が良かった。
フットワークには自信があった。
「シュッ!」
左。
「バン!」
右。
相手の顔に当たる。
観客が歓声を上げる。
俺は思った。
――いける。
だが。
次の瞬間。
相手の右が飛んできた。
「!」
ガードが間に合わない。
ドンッ!
頭が揺れた。
視界が一瞬ぼやける。
足が止まる。
そこへ。
左。
右。
左。
ドン!
ドン!
ドン!
「魔王!」
トレーナーの声。
俺は必死にガードした。
「ぐっ……!」
それでも。
パンチが腕の隙間から入ってくる。
身体が後ろへ飛ぶ。
ロープ。
背中が当たる。
相手が詰める。
「来い!」
俺もパンチを返した。
しかし。
相手は冷静だった。
俺の攻撃をかわして。
さらに打つ。
ドンッ!
俺の膝が沈む。
「……!」
レフェリーが近づく。
「大丈夫か?」
「はい!」
俺は立っていた。
まだ戦える。
そう思った。
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第3ラウンド
ゴング。
俺は前へ出た。
もう。
迷っている暇はなかった。
「うおおお!」
パンチを打つ。
左。
右。
左。
右。
相手も打ち返す。
ドン!
ドン!
ドン!
二人のパンチが交差する。
俺の頬が熱い。
息が苦しい。
足が重い。
それでも。
打つ。
「シュッ!」
相手の顔に当たる。
しかし。
相手は倒れない。
俺は焦った。
――なんで倒れない?
ジムでは。
これだけ打てば。
スパーリングなら相手が下がっていた。
でも。
プロの相手は下がらない。
むしろ。
俺が疲れているのを見抜いたように。
さらに前へ出てくる。
「……!」
右。
俺は避ける。
左。
ガード。
右。
ドンッ!
俺の身体が大きく揺れる。
視界が白くなる。
そして。
もう一発。
ドンッ!
俺はロープにもたれた。
レフェリーが割って入った。
「ストップ!」
ゴングが鳴った。
俺は立っていた。
しかし。
そこで試合は終わった。
TKO。
プロデビュー戦。
俺は負けた。
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控室
椅子に座った。
タオルが頭にかけられる。
誰も喋らない。
俺は拳を見る。
グローブ。
汗。
そして。
震えている手。
「……」
トレーナーが言った。
「よく頑張った」
俺は俯いた。
「負けました」
「ああ」
「完敗です」
トレーナーは少し黙って。
「そうだな」
俺は悔しかった。
何年も練習した。
強くなったと思っていた。
自分には才能があると思っていた。
でも。
プロの世界では。
その程度だった。
俺は。
何もできなかった。
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健太の試合
そして。
健太の番が来た。
俺は控室のモニターで見ていた。
健太はリングに上がった。
相手は強そうだった。
ゴング。
カン!
健太が前へ出る。
「おおお!」
パンチを振る。
しかし。
相手は冷静にかわす。
そして。
カウンター。
ドンッ!
健太がよろめく。
「健太!」
俺は思わず立ち上がった。
健太は立て直した。
ジャブ。
右。
左。
必死に打つ。
だが。
相手の方が速い。
強い。
上手い。
第2ラウンド。
健太がロープ際へ追い込まれる。
ドン!
ドン!
ドン!
健太はガードする。
しかし。
隙間からパンチが入る。
「ぐっ!」
健太が膝をついた。
レフェリーがカウントする。
「ワン!」
「ツー!」
健太が立ち上がる。
「スリー!」
健太は拳を握る。
「まだ……!」
「ファイブ!」
立った。
しかし。
足元が不安定だった。
レフェリーが確認する。
そして。
試合を止めた。
健太も。
TKO負け。
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二人の夜
試合が終わった。
帰り道。
俺と健太は並んで歩いていた。
いつもなら。
くだらないことを言い合う。
でも。
今日は二人とも無言だった。
しばらく歩いて。
健太が言った。
「魔王」
「何?」
「負けたな」
「うん」
「俺たち」
「うん」
また沈黙。
そして。
健太が笑った。
「……こてんぱんだな」
俺も笑ってしまった。
「こてんぱんだな」
「何にもできなかった」
「俺も」
「魔王のくせに」
「勇者のくせに」
「名前関係ないだろ」
「今だけは関係ある」
「何でだよ」
二人で笑った。
でも。
笑いながら。
悔しくて。
涙が出そうだった。
健太が拳を握る。
「俺」
「ん?」
「もう一回やりたい」
俺は健太を見る。
「俺も」
「次は勝とう」
「ああ」
拳を合わせる。
コツン。
今日。
俺たちは負けた。
完膚なきまでに。
何もできなかった。
プロの世界の壁は。
想像していたより遥かに高かった。
でも。
この敗北が。
俺たちの物語の終わりではなかった。
むしろ。
ここからだった。
俺はまだ。
自分がどこまで強くなれるのか知らない。
健太も。
自分の限界を知らない。
だから。
もう一度。
リングに上がる。
今度は。
負けるためじゃない。
勝つために。
そしていつか。
「魔王」という名前を。
笑われるだけの名前ではなく。
自分自身の力で。
誰もが知っている名前に変えるために。
俺は拳を握った。
「健太」
「何?」
「明日からまた練習だ」
健太は笑った。
「もちろん」
「覚悟しろよ」
「そっちこそ」
二人は夜道を歩いていった。
プロボクサーとしての第一歩は。
華々しい勝利ではなかった。
それは。
完敗という現実を知ることから始まった。




