魔王、拳を握る
その夜。
俺は家に帰ると、いつもより早く食卓についた。
父さんと母さんが向かいに座っている。
「今日は早いわね」
母さんが言った。
「うん」
「何かあった?」
俺は箸を持ったまま黙った。
今日の出来事を思い出す。
健太。
美咲。
駅前で起きたこと。
そして。
健太が美咲を守ろうとした姿。
俺は少しだけ俯いた。
「……今日、健太がさ」
父さんが顔を上げる。
「健太?」
「うん」
俺は今日の出来事を最初から話した。
健太が美咲を誘ったこと。
二人で出かけたこと。
駅で三人組と揉めたこと。
健太が美咲の前に立ったこと。
そして。
俺が最後に「勇者の仕事だ」と言ったこと。
話し終えると。
父さんは腕を組んだ。
「なるほどな」
母さんは微笑んだ。
「健太くん、頑張ったのね」
「うん」
俺はしばらく黙った。
そして。
ぽつりと言った。
「俺も……」
「うん?」
「強くなりたい」
父さんと母さんが俺を見る。
「本当に強くなりたい」
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強くなりたい理由
父さんはすぐには答えなかった。
「どうしてだ?」
俺は少し考えた。
「今日、健太が前に立ったとき……」
言葉を探す。
「怖かったと思う」
「そうだろうな」
「でも、逃げなかった」
俺は自分の手を見る。
「俺も、誰かが困ってるときに……何もできないのは嫌だ」
父さんは黙って俺を見ている。
俺は続けた。
「それに」
「それに?」
「俺、ずっと『魔王』って呼ばれてきただろ」
母さんが笑う。
「そうね」
「だったら……」
俺は拳を握った。
「せめて名前に負けないくらい、強くなりたい」
父さんの表情が変わった。
そして。
「そうか」
静かに頷いた。
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父さんの提案
「だったら」
父さんが言った。
「ボクシングをやってみるか?」
「ボクシング?」
「そうだ」
俺は目を丸くした。
「ボクシングって、殴り合うやつ?」
「まあ、簡単に言えばな」
母さんが口を挟む。
「でも、ただ殴るだけじゃないのよ」
「そうなの?」
「体力も必要だし、技術も必要。相手の動きを見たり、自分をコントロールしたりする必要もあるの」
父さんが頷く。
「強くなるなら、ただ力をつけるだけじゃ駄目だ」
「……」
「自分の力を制御できる人間にならないとな」
俺は拳を見る。
「やってみたい」
父さんが笑った。
「本気か?」
「うん」
「途中で辞めるかもしれないぞ」
「それでもいい」
「練習はきついぞ」
「やる」
「毎日楽しいとは限らない」
「それでもやる」
父さんは少し笑った。
「分かった」
母さんも笑った。
「じゃあ、探してみましょうか」
こうして。
俺の人生は。
少しずつ変わり始めた。
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ボクシングジム
数日後。
俺は父さんに連れられて、一軒のボクシングジムへ行った。
ドアを開けた瞬間。
「シュッ!」
「シュッ!」
「バン! バン!」
乾いた音が響いた。
サンドバッグが揺れている。
リングの上では選手が動いている。
汗。
ロープ。
グローブ。
俺は立ち尽くした。
「すごい……」
父さんが笑う。
「怖いか?」
「ちょっと」
「帰るか?」
「嫌だ」
俺は一歩入った。
「やってみたい」
トレーナーが近づいてきた。
「体験か?」
「はい!」
「名前は?」
俺は答えた。
「魔王です」
トレーナーが止まった。
「……」
父さんが苦笑する。
「本名です」
「本当に?」
「はい」
トレーナーは笑った。
「すごい名前だな」
俺は慣れていた。
「よく言われます」
「よし、魔王。リングに上がってみるか」
「はい!」
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最初の練習
最初は。
縄跳びだった。
「三分」
トレーナーが言う。
「はい!」
俺は飛び始めた。
一分。
二分。
三分。
「……」
思ったより苦しくない。
トレーナーが時計を見る。
「お前、運動やってた?」
「特には」
「本当に?」
「はい」
次はシャドーボクシング。
「ジャブ」
「シュッ!」
「ストレート」
「シュッ!」
「ワンツー」
「シュッ! シュッ!」
俺は夢中になった。
身体が自然に動く。
トレーナーが少し驚いていた。
「……」
父さんも見ている。
「どうだ?」
トレーナーが答える。
「運動神経がいいですね」
俺は嬉しくなった。
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健太に報告
翌日。
学校。
俺は健太に話した。
「俺、ボクシング始めた」
「え?」
「昨日から」
健太が目を丸くする。
「ボクシング?」
「うん」
「なんで?」
俺は昨日のことを話した。
健太が美咲を守ったこと。
俺も強くなりたいと思ったこと。
そして。
ボクシングを始めたこと。
健太は黙って聞いていた。
そして。
「俺もやる」
「え?」
「俺もボクシングやる」
「なんで?」
「お前だけ強くなるの嫌だから」
「競争かよ」
「そう」
「勇者だから?」
「それもある」
「まだ言うのか」
「もちろん」
俺は笑った。
「じゃあ一緒に行く?」
「行く」
こうして。
健太も同じボクシングジムへ通うことになった。
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二人の練習
最初の日。
健太がジムに来た。
トレーナーが言う。
「君も魔王の友達?」
「はい」
「名前は?」
「健太です」
トレーナーが俺を見る。
「普通だな」
「普通です」
健太が俺を見る。
「魔王」
「何?」
「俺の名前も変えてくれ」
「何で?」
「お前だけずるい」
「知らん」
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二人の縄跳び
「三分!」
俺たちは縄跳びを始めた。
俺。
「タン、タン、タン、タン」
健太。
「タン……タン……」
一分後。
健太が息を切らす。
「魔王……」
「何?」
「速い……」
「まだ一分だぞ」
「俺、もう限界」
「早すぎるだろ」
「お前、何で平気なんだよ」
「分からない」
トレーナーが笑う。
「魔王くんは基礎体力が高いな」
健太が悔しそうに言う。
「……魔王め」
「名前関係ないって」
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初めてのミット打ち
俺は初めてミットを打った。
「ジャブ!」
「シュッ!」
「ストレート!」
「バン!」
「ワンツー!」
「バン! バン!」
ミットから大きな音が鳴る。
トレーナーが驚く。
「いいね」
俺はもっと打ちたくなった。
「もう一回!」
「いいぞ」
「ジャブ!」
「シュッ!」
「ストレート!」
「バン!」
「速いな」
俺は夢中だった。
一方。
健太もミットを持ってもらっている。
「ジャブ!」
「……シュッ」
「ストレート!」
「……バン」
トレーナーが言う。
「力はある」
健太が喜ぶ。
「本当ですか?」
「ただし」
「はい」
「魔王くんの方が速い」
「……」
健太が俺を見る。
「魔王」
「何?」
「今日からライバルな」
「昨日まで友達だったのに?」
「ライバル兼友達」
「忙しいな」
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初めてのスパーリング
しばらく練習した後。
トレーナーが言った。
「軽く動いてみるか?」
俺と健太が顔を見合わせた。
「俺たち?」
「そう」
グローブをつける。
ヘッドギアを装着する。
リングへ上がる。
ロープをくぐる。
俺の胸が高鳴った。
健太も緊張している。
「魔王」
「何?」
「手加減しろよ」
「お前もな」
ゴング。
カン!
二人が動く。
健太がジャブ。
「シュッ!」
俺が避ける。
「速っ!」
健太が驚く。
俺がジャブ。
「シュッ!」
健太が避ける。
「おお!」
「やるじゃん」
二人とも笑った。
そして。
また動く。
殴る。
避ける。
下がる。
前へ出る。
少しずつ。
俺の動きが速くなっていく。
トレーナーがリングの外から見ている。
「魔王くん」
「はい!」
「相手をよく見ろ」
「はい!」
俺は健太を見る。
肩。
足。
目。
動きを読む。
次の瞬間。
健太が右を出した。
俺は反応した。
スッ。
避ける。
そして。
軽くタッチする。
「入った!」
健太が笑う。
「魔王!」
「何?」
「速すぎる!」
俺も笑った。
「健太ももっと速くなれ!」
「言われなくても!」
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魔王、急成長
それから。
俺たちは毎日のようにジムへ通った。
縄跳び。
シャドー。
ミット。
サンドバッグ。
筋力トレーニング。
そしてスパーリング。
健太も頑張った。
だが。
俺はさらに速く上達していった。
一週間。
一か月。
三か月。
半年。
トレーナーが驚くほど。
俺の動きは変わっていった。
ジャブが速くなる。
フットワークが軽くなる。
パンチの正確さも上がる。
サンドバッグを打つ。
「シュッ!」
「バン!」
「シュッ!」
「バン!」
音がリズムよく響く。
トレーナーが言う。
「魔王、かなり強くなったな」
俺は笑った。
「ありがとうございます!」
健太が横から言う。
「……」
「どうした?」
「魔王」
「何?」
「俺、追いつけない」
「まだ始めたばっかだろ」
「半年だぞ」
「そうだな」
健太が拳を握る。
「いつか絶対勝つ」
俺は笑った。
「待ってる」
「絶対だぞ」
「ああ」
二人は拳を軽くぶつけた。
コツン。
俺は思った。
もっと強くなりたい。
もっと速くなりたい。
もっと自分を鍛えたい。
そして。
いつか。
誰かが困っているとき。
今度は。
自分が前に立てる人間になりたい。
「魔王」という名前に負けないように。
俺は今日も。
リングの上で拳を握った。




