井戸の底へ
旅立ちの村では、朝から一つの噂が広がっていた。
「井戸から水が出ないらしいぞ」
「昨日までは出ていたのに」
「井戸の中に何かいるんじゃないか?」
「モンスターじゃないか?」
村人たちは心配そうに話していた。
旅立ちの村にある井戸は、村人たちにとって大切な水源だった。
飲み水。
料理。
洗濯。
畑。
いろいろなことに使っている。
それが突然、出なくなった。
魔王軍が勇者の家で朝食を食べていると、その話が聞こえてきた。
勇気が箸を止めた。
「魔王様」
「ん?」
「井戸の水が出なくなったそうです」
魔王も顔を上げた。
「井戸?」
昆布が頷く。
「村にとっては重要な問題ですね」
魔王は考えた。
「じゃあ、見に行ってみるか」
勇気が立ち上がる。
「クエストですね!」
魔王も頷く。
「そうだな」
殴打が立ち上がった。
「今回は何を持っていく?」
全員が昆布を見る。
昆布は少し考えた。
そして――。
「ハエ叩きです」
魔王が固まった。
「……また?」
「前回、ハチを倒せました」
「まあ……」
勇気がハエ叩きを持ち上げる。
「確かに便利でした」
五利武も持つ。
「軽いしな」
鍋も一本持つ。
「これ、だんだん魔王軍の標準装備になってませんか?」
便意が言う。
「私はハエ叩きより魔法を使いたいです」
魔王が答える。
「便意はまだ練習中だから」
「はい……」
昆布はハエ叩きを見ながら言った。
「ただし、今回は井戸の中です」
「うん」
「何がいるか分かりません」
「うん」
「ですから、最初は偵察です」
魔王が頷く。
「戦うためじゃなく、確認するために行く」
「はい」
こうして魔王軍は、ハエ叩きを持って井戸へ向かった。
---
井戸の前には、何人かの村人が集まっていた。
「魔王様!」
村人が声をかける。
「井戸を見てくれるんですか?」
魔王は少し照れながら答えた。
「まあ、できることがあれば」
「ありがとうございます!」
魔王軍が井戸を覗き込む。
暗い。
水は見えない。
勇気が身を乗り出す。
「深いですね」
殴打も覗く。
「かなり深い」
五利武が言う。
「ゴルフボールを落としたら、拾うのが大変そうだ」
魔王が言う。
「ゴルフボール持ってきてないだろ」
五利武がポケットを探る。
「……ゴルフボール持ってきていた」
「なんで?」
「職業病だ」
昆布が井戸の中を見ながら言った。
「降りられそうですね」
魔王が驚く。
「降りるの?」
「原因を確認するには、それが一番確実です」
父が井戸を見る。
「大丈夫なのか?」
昆布は答えた。
「ロープを使えば問題ありません」
母がロープを確認する。
「回復魔法も準備しておきますね」
魔王は頷いた。
「よし。慎重に行こう」
魔王軍は一人ずつ井戸の中へ降りていった。
---
井戸の内部。
思った以上に広い。
壁には古い石が積まれている。
足元は湿っている。
魔王はゆっくりと降りていく。
「……思ったより深いな」
勇気が後ろから言う。
「魔王様、足元気を付けてください」
「ありがとう」
殴打が続く。
五利武。
鍋。
便意。
昆布。
父。
母。
全員が井戸の底へ降りた。
魔王が周囲を見る。
「水がないな」
昆布が地面を確認する。
「本来なら、ここに水が溜まっているはずです」
勇気が言う。
「どうしてなくなったんでしょう?」
そのときだった。
――グルルル。
どこからか音がした。
全員が止まる。
「……今の何?」
魔王が聞く。
昆布が双眼鏡を取り出した。
「双眼鏡、必要?」
魔王が突っ込む。
「暗い場所でも見えます」
「そうなの?」
昆布が覗く。
「……います」
勇気がハエ叩きを構える。
「モンスターですか?」
「はい」
「何ですか?」
昆布が答える。
「カエルです」
全員が黙った。
魔王はハエ叩きを見た。
「……」
昆布を見る。
「……」
魔王が言った。
「これ、無理じゃない?」
昆布が頷いた。
「はい」
「ハエ叩きじゃ?」
「カエルには少々厳しいと思います」
勇気もカエルを見る。
「大きいですね」
そのカエルは、普通のカエルよりはるかに大きかった。
井戸の底にある岩の上に座っている。
じっとこちらを見ている。
魔王がハエ叩きを構える。
「一応……」
カエルが、
「ゲコッ」
と鳴く。
魔王が止まる。
「……怖い」
勇気も止まる。
「怖いですね」
殴打もハエ叩きを下ろす。
「これはバットの方がいい」
五利武も頷く。
「ゴルフクラブもいける」
魔王が言う。
「だから武器を増やす話じゃない」
昆布がカエルを観察する。
「少し変ですね」
「何が?」
「攻撃してきません」
確かに。
カエルは魔王軍を見ているだけだった。
逃げるわけでもない。
飛びかかるわけでもない。
ただ――。
何かの前に座っている。
魔王が目を細める。
「……何か守ってる?」
昆布が頷いた。
「その可能性があります」
魔王はカエルの後ろを見る。
暗くてよく見えない。
カエルの後ろには、石の壁。
そして、その壁の下から――。
かすかに水が流れている音がする。
「水の音?」
母が耳を澄ます。
「聞こえますね」
昆布も頷く。
「水路があるようです」
魔王が言う。
「じゃあ、井戸から水が出ない原因は?」
昆布は考える。
「このカエルが水路を塞いでいる可能性があります」
殴打が言った。
「なら、どかせばいい」
魔王がカエルを見る。
「でも、何かを守っているなら、理由があるんじゃないか?」
昆布は頷いた。
「その通りです」
魔王はハエ叩きを下ろした。
「一旦戻ろう」
勇気が驚く。
「戦わないんですか?」
「うん」
「でも、村の水が……」
「だからこそ、ちゃんと準備しよう」
昆布が頷いた。
「賛成です」
---
魔王軍は井戸から戻った。
勇者の家。
再び会議である。
テーブルの上には、ハエ叩きが並んでいる。
魔王はそれを見つめた。
「……これは無理だな」
昆布が頷く。
「カエル相手には、適していません」
勇気が聞く。
「じゃあ、何を持っていきますか?」
殴打が言った。
「バット」
五利武。
「ゴルフクラブ」
鍋。
「包丁」
魔王が全員を見る。
「ちょっと待て」
鍋が包丁を下ろす。
「はい」
魔王は頭を抱えた。
「今回は、カエルを倒すことが目的じゃない」
昆布が頷く。
「その通りです」
魔王が続ける。
「何を守っているのか調べる」
「はい」
「それから、水を取り戻す」
「はい」
昆布が地図を広げた。
「でしたら、必要なのは武器だけではありません」
母が言う。
「灯り?」
「はい」
「ロープ」
「必要です」
「薬草」
「念のため」
魔王は頷く。
「それと?」
昆布が少し考えた。
「水を汲むための容器」
魔王が笑う。
「便利屋らしくなってきたな」
全員で準備する。
武器も持つ。
しかし今回は、戦闘だけを目的にしない。
殴打はバット。
五利武はゴルフクラブ。
勇気はフライパン。
便意は魔法の練習用の杖。
母は回復道具。
父は盾。
鍋は包丁ではなく、大きな木べら。
魔王は――。
いつもの自分の拳。
そして昆布は双眼鏡。
「準備できました」
魔王が頷く。
「よし。もう一度行こう」
---
再び井戸の底。
魔王軍は慎重にカエルへ近づいた。
カエルはまた同じ場所にいる。
「ゲコッ」
魔王は手を上げた。
「待ってくれ」
カエルが止まる。
魔王は攻撃せずに、ゆっくり近づいた。
そして、カエルの後ろを覗く。
そこには――。
古い石造りの小さな祠があった。
昆布が双眼鏡で確認する。
「祠があります」
「祠?」
「はい」
魔王も見る。
祠の中には、小さな青い石が置かれていた。
その石は、ほんのりと水色に輝いている。
「……何だ、あれ?」
母が言う。
「魔法の石でしょうか?」
昆布が慎重に近づく。
「おそらく、水に関係する魔法石です」
魔王が尋ねる。
「それをカエルが守ってる?」
「はい」
その瞬間。
カエルが、
「ゲコッ!」
と鳴いた。
魔王軍全員が身構える。
しかし、カエルは攻撃しなかった。
祠の前に座り直した。
まるで、
「ここには近づくな」
と言っているようだった。
魔王はカエルを見つめる。
「お前、それを守ってるのか?」
「ゲコ」
「……そうなのか?」
「ゲコ」
勇気が言った。
「会話できてるんですか?」
魔王。
「いや、雰囲気で話してる」
昆布が祠を観察する。
「この石が、水を生み出していた可能性があります」
「じゃあ、なぜ今、水が出ない?」
昆布は周囲を調べる。
そして気づいた。
「石の周りに泥が詰まっています」
魔王が近づく。
「本当だ」
石の周りに泥や小石が溜まっている。
水が流れる道を塞いでいる。
昆布が言う。
「この石自体は壊れていません」
「つまり?」
「水路が詰まっているだけかもしれません」
魔王はカエルを見る。
「じゃあ、お前が守ってる石を壊すつもりはない」
「ゲコ」
「水を戻したいだけだ」
「ゲコ」
魔王は少し考えた。
「……掃除してもいい?」
カエルはじっと魔王を見る。
そして――。
少し横へ移動した。
勇気が驚く。
「どきました!」
魔王が笑う。
「許してくれたのかな」
昆布が頷く。
「おそらく」
魔王軍は水路の掃除を始めた。
殴打が大きな石を動かす。
「重い!」
父が支える。
「こっちだ」
五利武が細かい石を取り除く。
鍋が木べらで泥をすくう。
「料理以外にも使えるんですね」
「木べらって便利だな」
魔王が感心する。
便意は魔法を使おうとする。
「ウォーター!」
何も起きない。
「……」
魔王が見る。
「便意」
「はい」
「まだ早い」
「はい」
昆布が指示を出す。
「右側の泥を取ってください!」
「はい!」
「そこです!」
「分かった!」
少しずつ水路が開いていく。
そして――。
ポタ。
水が一滴。
ポタ。
もう一滴。
勇気が叫んだ。
「水です!」
さらに――。
サァァァァ……。
水が流れ始めた。
井戸の底に、水が戻ってくる。
「やった!」
魔王軍から歓声が上がる。
母も笑う。
「よかったですね」
カエルは水の流れを見ていた。
そして、祠の前から少し離れた。
魔王は青い石を見る。
「これが、村の井戸を支えていたんだな」
昆布が頷く。
「おそらく、この石が水の流れを維持していたのでしょう」
「じゃあ、このカエルは?」
昆布はカエルを見る。
「この石を守っていた」
魔王はカエルに近づく。
「お前が守ってくれてたんだな」
「ゲコ」
魔王は笑った。
「ありがとう」
カエルは何も言わない。
ただ、静かに水の流れを見ていた。
---
村に戻ると、大きな歓声が上がった。
「水が出た!」
「井戸が戻ったぞ!」
「ありがとうございます!」
村人たちは大喜びだった。
魔王軍は少し照れながら立っている。
魔王が言った。
「モンスターは倒してないけどな」
昆布が答える。
「今回の目的は、モンスターを倒すことではなく、水を取り戻すことでした」
魔王は頷いた。
「そうだな」
勇気が笑う。
「カエルも倒さなくてよかったです」
殴打がバットを見る。
「今回は出番がなかった」
五利武もゴルフクラブを見る。
「こっちも」
鍋が木べらを見る。
「私は使いました」
便意が杖を見る。
「私は使いませんでした」
魔王が笑う。
「それはいつものことだろ」
昆布が最後に言った。
「今回分かったことがあります」
魔王が聞く。
「何?」
「この世界のモンスターは、必ずしも人間を襲うためにいるわけではないのかもしれません」
魔王は少し黙った。
井戸の底で、青い石を守っていたカエル。
村人にとっては、
「井戸を使えなくしたモンスター」
だった。
しかし実際には――。
大切なものを守っていた。
魔王は森の方を見る。
「……モンスターにも、何か理由があるのかもしれないな」
昆布が頷いた。
「はい」
その言葉は、誰にも聞こえないほど小さかった。
けれど――。
魔王軍がこれから旅を続ける中で、何度も思い出すことになる言葉だった。
そしてその日。
旅立ちの村の井戸には、再び水が流れ始めた。
魔王軍の報酬は――。
村人からの感謝。
そして、商人から届けられた小さな袋。
中には――。
150ゴウ。
魔王は目を丸くした。
「……また稼いだ」
昆布が頷く。
「はい」
魔王は袋を握りしめた。
「今度は全部使わないぞ」
全員が笑った。
「絶対ですよ」
「分かってる」
魔王は財布に150ゴウを入れた。
その隣には、前回買った魔法の薬草が五つ。
少しずつ。
本当に少しずつ。




