魔王、財布を忘れる
異世界。
魔王軍は、先ほどの部屋に戻ってきていた。
部屋はそれほど広くない。
大人が八人も入れば、かなり窮屈に感じるくらいの小さな部屋だった。
その中央に、古い木のテーブルが一つ。
椅子も数脚しかない。
仕方がないので、何人かは床に座っている。
魔王は壁にもたれかかりながら、部屋を見回した。
「……」
勇気が聞く。
「魔王様?」
「うん」
「どうしました?」
魔王は腕を組んだ。
「異世界に来たんだよな」
「はい」
「本当に来たんだな」
「はい」
「……」
「……」
魔王はもう一度、部屋を見た。
古い木の壁。
知らない家具。
知らない窓。
知らない世界。
そして――。
「狭いな」
勇気が笑った。
「そこですか?」
「いや、異世界に来たことより、この部屋に全員入ってることの方が気になってきた」
昆布が周囲を確認する。
「確かに、かなり狭いです」
五利武が壁際に座る。
「魔王軍全員が入るには、少々手狭ですね」
殴打が膝を抱える。
「私、足が伸ばせません」
鍋は部屋の隅にいる。
「私は大丈夫です」
便意はさらに隅。
「僕も大丈夫です」
母は魔王の隣。
父は――。
「……」
父は立ったままだった。
魔王が見る。
「父さん、座らないの?」
「椅子がない」
「じゃあ床に」
「俺は立っていた方が防御しやすい」
魔王はため息をつく。
「異世界に来てまで防御のこと考えてるの?」
「大事だろ」
母が笑う。
「この人はいつもそうよ」
空耳さんの声が部屋に響く。
『それでは、会議を始めよう』
魔王が顔を上げる。
「空耳さんも参加するの?」
『もちろんだ』
「姿は?」
『ない』
「参加してないじゃん」
『声だけ参加だ』
魔王は呆れた。
「まあいいや」
昆布がテーブルを指差した。
「それでは、異世界到着後の最初の作戦会議を始めましょう」
魔王軍全員が昆布を見る。
昆布は真剣だった。
「議題は三つです」
指を一本立てる。
「一つ。この世界の情報収集」
二本目。
「二つ。生活拠点の確保」
三本目。
「三つ。食料と資金の確保」
魔王が頷く。
「大事だな」
鍋が言った。
「特に食料ですね」
便意も頷く。
「魔法を使うにも、お腹が空いていたら集中できません」
殴打が言う。
「体を動かすにも食事が必要です」
五利武も、
「ゴルフも食事が大事です」
勇気は、
「僕は何でも食べられます!」
母が笑う。
「勇気君は頼もしいわね」
父が言う。
「俺も食べるぞ」
魔王が父を見る。
「父さんは特に食べるよね」
「防御力を維持するには食事が必要だ」
「防御力って食事で維持するものなの?」
「そうだ」
「まあ……いいけど」
昆布が話を戻した。
「まず、最重要問題です」
魔王が聞く。
「何?」
昆布は真剣な顔をしている。
「この世界で、お金が使えるかどうかです」
「ああ」
魔王も頷いた。
「確かに」
そして――。
魔王は突然、何かを思い出した。
「あ」
全員が魔王を見る。
「どうしました?」
勇気が聞く。
魔王はポケットを探る。
右。
左。
後ろ。
上着。
ズボン。
もう一度、右。
何もない。
魔王の顔が固まった。
「……」
母が聞く。
「どうしたの?」
魔王が言った。
「そういえば……」
全員が待つ。
「財布忘れた」
「……」
部屋が静まり返った。
勇気が目を丸くする。
「え?」
殴打も驚く。
「財布を?」
五利武が言う。
「異世界へ来るのに?」
魔王は申し訳なさそうに頷いた。
「うん」
鍋が聞く。
「お金は?」
「ない」
便意が言う。
「一円も?」
「一円も」
昆布が冷静に分析する。
「これは重大な問題ですね」
魔王は頭を抱える。
「だよな……」
母が魔王を見る。
「家に戻ればあるんでしょう?」
「ある」
「じゃあ、取りに戻れば?」
魔王は箱の方を見る。
「……」
部屋の隅には、異世界側のダンボールがある。
その向こう側には、魔王の家がある。
「取りに戻れるけど……」
勇気が聞く。
「何か問題が?」
「異世界に来たばかりなのに、財布を取りに一回帰るの、ちょっと恥ずかしくない?」
父が言った。
「別に恥ずかしくないだろ」
魔王が父を見る。
「父さんならどうする?」
「俺なら取りに戻る」
「即答だね」
昆布が言った。
「しかし、もう一つ問題があります」
魔王が聞く。
「何?」
「そもそも、この世界で日本円が使えるとは限りません」
「あ……」
魔王は固まった。
全員も気づいた。
勇気が言う。
「確かに」
五利武が腕を組む。
「日本円を持ってきても、使えない可能性がありますね」
殴打も頷く。
「異世界ですからね」
鍋が言う。
「じゃあ、何を持ってくればいいんでしょう?」
魔王軍全員が、
一斉に空耳さんを見る。
『……』
空耳さんは少し黙った。
魔王が聞く。
「空耳さん」
『何だ?』
「この世界のお金って、何?」
『ゴウだ』
「ゴウ?」
『そうだ』
「円じゃないの?」
『円は使えないからな』
魔王はため息をついた。
「やっぱりか」
空耳さんは続ける。
『この世界ではゴウという通貨を使う』
昆布が確認する。
「ゴウですか」
『そうだ』
便意が聞く。
「一ゴウはいくらですか?」
『それは――』
空耳さんが黙る。
「空耳さん?」
『……』
「まさか」
『そこまでは分からん』
魔王が頭を抱える。
「なんでそこだけ分からないんだよ!」
『まあ、異世界だからな』
「理由になってないよ」
昆布が聞く。
「では、物価は?」
『薬草は10ゴウだ』
魔王が反応する。
「薬草?」
『そうだ』
「薬草10ゴウ」
昆布が頷く。
「なるほど」
母が少し不安そうな顔をした。
「10ゴウって……」
「母さん?」
「お米を10ゴウも?」
魔王が振り返る。
「え?」
母は真剣だった。
「葉っぱ食べるためにお米を10ゴウも持って来なければいけないの?」
母はさらに不安そうになった。
「じゃあ……」
魔王が聞く。
「うん」
母が言った。
「そんなにお米持ってこれるかしら」
全員が沈黙した。
魔王がゆっくり振り返る。
「……母さん」
「何?」
「お米を異世界に持ってくるつもりだったの?」
「だって食べるんでしょう?」
「いや、そうだけど」
母は真剣だった。
「異世界でお米が買えなかったら困るじゃない」
勇気が言う。
「お米は大事です!」
鍋も頷く。
「料理にも必要です」
魔王が頭を抱える。
「いや、異世界に米俵を持ってくるのは無理だろ」
父が言う。
「俺なら持てるぞ」
魔王が父を見る。
「父さんは持てるかもしれないけど!」
殴打が言った。
「私はバットもあります」
五利武が言う。
「私はゴルフクラブがあります」
便意がスマートフォンを見せる。
「私はスマートフォンがあります」
昆布が言う。
「私は情報収集能力があります」
魔王が言う。
「俺は……」
ポケットを探る。
「何もない」
全員が笑った。
魔王は異世界に来たのに、手ぶらだった。
空耳さんが言う。
『だから、お米ではない。お米を炊く時の合ではない』
母が首を傾げる。
「え?」
『お米を持ってくる必要はない』
母の顔が明るくなる。
「そうなの?」
『困っている人を助けると、報酬がもらえるぞ』
魔王軍全員が黙った。
昆布が反応する。
「報酬?」
『そうだ』
「つまり、仕事をすればお金がもらえる?」
『その通り』
魔王は少し考えた。
「……」
そして――。
「あ」
勇気が聞く。
「何ですか?」
魔王は笑った。
「俺、便利屋じゃん」
全員が一斉に頷いた。
「そうだった!」
魔王軍にとって、
それは非常に重要な事実だった。
魔王は魔王である。
しかし同時に、
便利屋でもある。
引っ越し。
掃除。
家具の運搬。
庭の手入れ。
料理。
ゴルフの指導。
警備。
その他、いろいろ。
今まで散々やってきた。
魔王は胸を張った。
「困ってる人を助けて報酬をもらうなら――」
昆布が続ける。
「魔王便利屋の仕事ができます」
鍋が笑う。
「異世界でも便利屋ですね」
五利武が頷く。
「実に魔王様らしい」
殴打も、
「勇者ではなく便利屋ですね」
勇気が笑った。
「でも、魔王様ならそれが一番合ってます!」
便意が手を挙げる。
「僕も魔法で手伝います!」
母も、
「私も治療ならできるわ」
父が言う。
「俺は防御だ」
魔王が父を見る。
「異世界でも?」
「もちろん」
「何から守るの?」
「分からん」
「分からないんだ」
昆布が立ち上がった。
「役割を整理しましょう」
小さな部屋の中で、
魔王軍異世界初の本格的な作戦会議が始まった。
昆布が紙を一枚取り出す。
「魔王様」
「はい」
「便利屋として仕事を受ける場合、まずは受付が必要です」
「受付か」
「はい」
「誰がやる?」
昆布は全員を見る。
「私が担当しましょう」
魔王が頷く。
「軍師だしな」
昆布は紙に書く。
【魔王便利屋・異世界支部】
魔王が覗き込む。
「異世界支部って書くと、なんか会社みたいだな」
昆布が言う。
「会社です」
「魔王軍なのに?」
「魔王軍でもあります」
勇気が言った。
「じゃあ、僕は?」
昆布が書く。
【勇気――補助・応援】
「はい!」
殴打。
【殴打――物理攻撃】
「了解しました」
五利武。
【五利武――素早い物理攻撃】
「任せてください」
鍋。
【鍋――料理】
「料理なら任せてください」
便意。
【便意――魔術師】
便意が胸を張る。
「魔法なら任せてください!」
魔王が言う。
「まだ呪文を噛むけどね」
「頑張ります!」
母。
【母――回復・治療】
母が嬉しそうに頷く。
「頑張るわ」
父。
昆布はしばらく考えた。
「父さんは……」
父が腕を組む。
「防御だ」
昆布が書く。
【父――防御】
魔王が見る。
「シンプルだな」
「分かりやすいだろ」
「うん」
最後に魔王。
昆布はペンを止めた。
「魔王様は?」
全員が魔王を見る。
魔王は考えた。
「……便利屋」
昆布が書く。
【魔王――便利屋】
勇気が笑った。
「魔王様、役割がそのままですね」
「仕方ないだろ」
そして魔王はふと気づいた。
「……待て」
「はい?」
「異世界で仕事をするなら、事務所が必要じゃない?」
昆布が頷く。
「必要です」
魔王は小さな部屋を見回した。
「ここ?」
全員が部屋を見る。
狭い。
古い。
机が一つ。
椅子が少ない。
魔王は首を振った。
「ここじゃ仕事できないよな」
昆布が言う。
「では、まず拠点探しですね」
「そうだな」
鍋が聞く。
「宿屋は?」
勇気が言う。
「町も見つけないと」
殴打が言う。
「この世界の地理も分かりません」
五利武が言う。
「食料も必要です」
便意が言う。
「ゴウも必要です」
母が言う。
「お米も必要です」
魔王が言った。
「母さん、さっきお米は持ってこなくていいって分かったでしょ」
母は笑った。
「そうだったわね」
そして――。
「良かった」
魔王が聞く。
「何が?」
母は胸をなで下ろした。
「お米じゃなくて良かった」
全員が吹き出した。
「そこ?」
魔王も笑ってしまう。
「異世界に来て最初の心配がお米って……」
母は真顔で答えた。
「食事は大事よ」
鍋が頷く。
「その通りです」
勇気も、
「大事です!」
殴打も、
「私も賛成です」
五利武も、
「食事なしでは動けません」
便意も、
「魔法も使えません」
父も、
「防御力にも関わる」
魔王が笑う。
「結局、全員お米じゃん!」
そのとき。
部屋の外から、
小さな物音がした。
「……」
全員が止まる。
魔王が振り返る。
昆布も耳を澄ます。
「誰かいます」
勇気が立ち上がる。
「敵ですか?」
殴打が構える。
五利武も立つ。
便意が手を前に出す。
母も少し身構える。
父が前に出た。
「俺が行く」
魔王が言う。
「父さん、メンタルガード?」
「もちろん」
父は静かに扉を見る。
魔王は小声で言った。
「……異世界初の仕事が、まさか戦闘じゃないだろうな」
昆布が答える。
「まだ分かりません」
魔王は少しだけ笑った。
「でも――」
彼は立ち上がった。
「困ってる人がいるなら」
魔王軍を見る。
「俺たちは助ければいい」
勇気が笑う。
「はい!」
鍋も頷く。
「はい!」
母も、
「もちろん」
殴打も、
「任せてください」
五利武も、
「お手伝いします」
便意も、
「魔法で!」
昆布は紙を持った。
「情報を集めます」
父は拳を握る。
「防御する」
魔王は苦笑した。
「父さんは本当に防御好きだな」
そして、
魔王軍は扉の前に並んだ。
異世界に来て最初の会議。
決まったことは、
ほとんどなかった。
お金もない。
拠点もない。
この世界のことも分からない。
しかし――。
一つだけ決まった。
魔王軍は、
この世界でも、
困っている人を助ける。
そして報酬として、
この世界の通貨――
「ゴウ」を手に入れる。
魔王は最後に、部屋の隅に置かれたダンボールを振り返った。
普通のダンボール。
その向こうには、
元の世界がある。
魔王は小さく呟いた。
「……財布は、しばらく取りに帰らなくてもいいかな」
空耳さんが答えた。
『そのうち必要になるぞ』
魔王は嫌な予感がした。
「……やっぱり?」
『ゴウを稼がないとな』
「そうだよな」
魔王は扉に手をかける。
そして――。
異世界で初めての、
「魔王便利屋」の仕事を探すため、
外へ出ようとした。
その直前。
母が言った。
「魔王」
「ん?」
「お米は?」
「だから、まだ言ってるの!?」
小さな部屋に、
魔王軍の笑い声が響いた。




