魔王、真顔になるだけで世界を止める
翌朝。
魔王は、いつものように便利屋の事務所へ向かった。
帽子。
眼鏡。
マスク。
完全装備である。
ただし今日は、いつもと少し違った。
「……」
魔王は真剣な顔をして歩いていた。
昨夜、空耳から新しい魔王能力の話を聞いたからだ。
魔王の威圧。
魔王の結界。
魔王の回復。
魔王の命令。
そして――
魔王のボディーブロー。
「……本当にこんなの必要なのかな」
魔王は考え込んでいた。
その顔は、完全な真顔だった。
本人は普通に考え事をしているだけである。
しかし――
通りの向こうから歩いてきた男性が、魔王を見た。
「……!」
ピタッ。
突然、男性が止まった。
「?」
魔王は気付かなかった。
さらに前方から、自転車に乗った女性がやって来る。
魔王と目が合う。
「……!」
ピタッ。
自転車が止まった。
女性も止まった。
自転車だけが、妙に斜めになった。
「……?」
魔王は首を傾げた。
すると女性は、必死に自転車を支えながら心の中で叫んでいた。
(動けない……!)
(何なの、この人……!)
(怖い!)
魔王は何も知らず、そのまま歩いていった。
---
事務所。
「おはようございます!」
勇気が元気よく挨拶した。
「おはよう」
魔王が真顔で答える。
「……」
勇気が止まった。
「勇気?」
「……」
「どうした?」
「……動けません」
「え?」
「魔王さん……」
「何?」
「今、僕を睨みました?」
「睨んでないよ」
「でも目が……」
「普通に見ただけだよ」
「その普通の目が怖いんです!」
「失礼だな」
魔王は少し笑った。
すると勇気は動けるようになった。
「……あ」
「どうした?」
「笑ったら動けました」
「何だそれ」
「魔王さん、笑っていてください」
「仕事中ずっと笑ってるのは無理だろ」
魔王が真顔に戻った。
「……!」
勇気が再び固まった。
「勇気?」
「……」
「また?」
「……はい」
---
その時だった。
事務所のドアが開いた。
「すみませーん!」
お客様だった。
魔王は振り返る。
「はい、何でしょう?」
「庭の木を――」
お客様と目が合う。
「……!」
ピタッ。
お客様が止まった。
「……」
魔王も止まった。
「……」
勇気も止まった。
事務所内に沈黙が流れる。
魔王が首を傾げる。
「お客様?」
「……」
「大丈夫ですか?」
「……」
動かない。
魔王が一歩近づく。
「具合でも悪いんですか?」
「……!」
お客様の顔がさらに青くなる。
(近づいてきた!)
(怖い!)
(殺される!)
魔王は困った。
「勇気、どうしよう?」
勇気は動けない。
「……」
「勇気?」
「……」
「お前もか」
---
その時。
魔王の頭の中に声が響いた。
『……』
「空耳さん?」
『何だ?』
「お客様が動かなくなった」
『……』
「何かした?」
『してない』
「じゃあ何で?」
『お前だ』
「俺?」
『魔王の威圧だ』
「これ?」
『そうだ』
「でも俺、睨んでないぞ」
『お前は真顔になった』
「それだけ?」
『それだけだ』
「……」
魔王は呆然とした。
「じゃあ、俺が真顔になるだけで人が動けなくなるの?」
『お前が睨むのは苦手だと言ったから、そういう設定にしてみた』
「設定にしてみたって何だよ!」
『魔王だからな』
「雑すぎるだろ!」
---
魔王は恐る恐るお客様を見る。
「すみません」
「……」
「俺、睨んでないですからね」
「……」
「怖くないですよ」
「……」
「……」
魔王は笑顔を作った。
「ニコッ」
すると――
お客様が動いた。
「動ける!」
「良かった!」
「魔王さん、今の何ですか!?」
「俺にも分からない」
勇気も動けるようになった。
「魔王さん!」
「何?」
「真顔禁止です!」
「便利屋なのに?」
「少なくとも接客中は!」
「分かったよ」
---
しかし、その日の午後。
事件が起きた。
庭の草刈りの依頼で、魔王たちは依頼人の家へ向かった。
そこには――
五人の作業員がいた。
「今日はよろしくお願いします!」
全員、元気だった。
「よろしくお願いします」
魔王は真顔で頭を下げた。
「……!」
五人全員が固まった。
「……」
「……」
「……」
「……」
「……」
勇気が叫んだ。
「魔王さん!」
「何?」
「全員止まりました!」
「……」
魔王は困った。
「俺、まだ何もしてないぞ」
「顔です!」
「顔だけで?」
「顔だけで!」
---
さらに恐ろしいことが分かった。
魔王が真顔で振り返るだけで――
犬も止まった。
猫も止まった。
カラスも止まった。
そして、近所の野良猫まで、
「ニャ……」
と言ったところで止まった。
「……」
魔王は猫を見つめた。
猫も魔王を見つめている。
「……かわいい」
魔王が笑った。
「ニャー」
猫が動き出した。
「……」
魔王は頭を抱えた。
「俺、猫まで止めてるのかよ」
勇気が言った。
「すごい能力ですね」
「便利屋では使い道がない」
「強盗が来たら便利ですよ」
「それは確かに」
---
その夜。
魔王はベッドに座っていた。
「空耳さん」
『何だ?』
「この能力、どうするんだよ」
『魔王らしくていいだろ』
「俺が真顔になっただけで、みんな動けなくなるんだぞ」
『威圧だ』
「睨んだらじゃないの?」
『最初はそうだった』
「最初は?」
『設定を考えているうちに、真顔でも発動するようになった』
「設定変更のたびに適当になってない?」
『気のせいだ』
「絶対気のせいじゃない」
---
魔王は考えた。
「でも、今日分かった」
『何が?』
「俺、誰かを傷つけなくても戦えるんだな」
『……』
「相手を殴らなくてもいい」
『そうだ』
「蹴らなくてもいい」
『そうだ』
「剣で戦わなくてもいい」
『そうだ』
「ただ睨めばいい」
『……』
「いや、睨むのも嫌だけど」
『では真顔だ』
「もっと嫌だよ!」
魔王は笑った。
そして言った。
「まあ、使い方を考えてみるよ」
空耳は少し黙った。
『……それでいい』
「珍しく普通だな」
『お前はもう、昔とは違う』
「?」
『強さとは、相手を倒すことだけではない』
魔王は少し黙った。
「……空耳さん」
『何だ?』
「たまには良いこと言うじゃん」
『当然だ』
「でも――」
魔王はニヤリと笑った。
「俺が真顔になっただけで勇者まで止まったら、かなり楽じゃない?」
『……』
「空耳さん?」
『それは……』
「何?」
『かなり魔王らしいな』
「だろ?」
二人は少し笑った。
――しかし。
その頃、街の外では。
一人の男が森の中を歩いていた。
腰には剣。
背中には盾。
そして手には――
魔王討伐の依頼書。
男は立ち止まった。
「……ここに魔王がいるのか」
そして、遠くに見える街を眺める。
「待っていろ、魔王」
男は剣を握った。
「今度こそ――」
その男は知らなかった。
魔王の最強能力が、
パンチでも。
キックでも。
魔法でも。
剣でもないことを。
――真顔。
それだけである。
しかも魔王本人は、その能力の恐ろしさをまだ完全には理解していなかった。
そして翌日。
新たな勇者が、魔王の便利屋を訪れる。
魔王は、その勇者を見た瞬間――
何も考えず、
いつものように、
真顔になった。
「……」
勇者の体が、
ピタッ。
と止まった。
「……」
魔王は首を傾げた。
「……また?」
勇者は心の中で叫んだ。
(何だ、この魔王……!)
(強すぎるだろ!)
しかし魔王は思っていた。
(お客さんかな?)
こうして――
「真顔の魔王」と「動けない勇者」の、史上最も地味な魔王討伐戦が始まろうとしていた。




