そこそこ強い勇者
翌朝。
魔王は、いつものように便利屋の事務所へ向かっていた。
帽子を深くかぶり、眼鏡をかけ、マスクをしている。
「……便利屋になってから、ずいぶん平和になったな」
魔王は歩きながら呟いた。
ボクシング世界チャンピオン。
総合格闘技。
キックボクシング。
数々の試合を経験してきた。
そして今は――
「猫探し」
昨日の依頼だった。
「家具の移動」
一昨日の仕事。
「庭の草むしり」
その前の日。
魔王は少し笑った。
「これでいいんだよ」
殴らなくていい。
蹴らなくていい。
誰かを傷つける必要もない。
便利屋は、魔王にとって思った以上に居心地がよかった。
しかし――
事務所に着いた瞬間。
魔王は足を止めた。
「……何だ、これ」
事務所の入り口に、大きな紙が貼られている。
赤い文字で、
『魔王討伐予告』
と書かれていた。
その下には、
『本日、正午』
さらにその下。
『勇者』
魔王は紙を剥がした。
「……」
そして丸める。
「朝から迷惑だな」
---
事務所の中。
魔王は紙をゴミ箱に入れた。
「勇気」
「はい?」
「これ、誰が貼ったと思う?」
「勇者じゃないですか?」
「だよな」
「最近、勇者がよく来ますね」
「……」
魔王は嫌な顔をした。
「何で俺なんだよ」
「魔王だからじゃないですか?」
「便利屋だって言ってるだろ」
その時だった。
窓の外から――
カーン!
という音がした。
魔王が振り返る。
「何だ?」
窓の外を見る。
道路の向こう。
一人の男が立っている。
銀色の鎧。
赤いマント。
腰には剣。
背中には盾。
頭には――
兜。
魔王は目を細めた。
「……」
勇気も窓から外を見る。
「本物っぽいですね」
「うん」
「変装じゃなさそうです」
「うん」
「今回はかなりまともですね」
「そこが逆に怖い」
---
男はゆっくりと事務所へ歩いてきた。
そして、入り口の前で止まる。
魔王は窓から見ていた。
男が剣に手をかける。
「……」
魔王はため息をついた。
「またか」
男がドアを開ける。
「魔王!」
事務所内に声が響いた。
「俺は勇者、レオン!」
「名前まで勇者っぽいな」
「貴様を倒し――」
「ちょっと待って」
「何だ!」
「そこ、土足禁止」
「……」
レオンは足元を見る。
「……すまない」
靴を脱ぐ。
「律儀だな」
---
レオンは事務所の中央に立った。
「魔王よ」
「はい」
「今日こそ、貴様を倒す!」
「嫌だな」
「なぜだ!」
「仕事があるから」
「仕事?」
「午後から猫探し」
「……」
レオンは絶句した。
「魔王が猫探しだと?」
「そう」
「世界を支配するのではないのか?」
「しない」
「人間を恐怖に陥れないのか?」
「依頼人を怖がらせたらクレームになる」
「……」
レオンは頭を抱えた。
「聞いていた話と違う」
「どんな話を聞いたんだよ」
「恐ろしい魔王だと」
「まあ、昔はそういう感じだったかもしれないけど」
「今は?」
「便利屋」
「……」
レオンは真剣に悩み始めた。
---
「それでも俺は勇者だ!」
レオンは剣を抜いた。
魔王も立ち上がる。
「危ないから、剣はしまってくれ」
「断る!」
「じゃあ外でやってくれ」
「戦うのか!」
「仕事の邪魔になるから」
「どっちなんだ!」
レオンが剣を構える。
魔王は拳を握った。
その瞬間。
魔王の脳裏に、空耳の声が響いた。
『……』
「空耳さん?」
返事はない。
「こういう時に限っていないんだよな」
魔王は小さく呟いた。
レオンが突っ込んでくる。
「魔王!」
鋭い踏み込み。
魔王は横へ避けた。
「速いな」
レオンはすぐに振り返る。
「まだ終わっていない!」
再び突っ込んでくる。
魔王は腕で剣を受ける。
ガン!
「……!」
魔王の腕に衝撃が走った。
「結構強いな」
レオンはニヤリと笑った。
「どうだ!」
「そこそこ強い」
「そこそこだと!?」
「いや、かなり強いと思う」
「最初からそう言え!」
---
レオンは攻撃を続けた。
剣を振る。
魔王が避ける。
盾で殴る。
魔王が避ける。
魔王が一歩下がる。
レオンが踏み込む。
魔王は再び避ける。
「……」
魔王は思った。
「本当に強いな」
しかし。
魔王は攻撃しない。
「どうした魔王!」
レオンが叫ぶ。
「なぜ攻撃しない!」
「人を殴るの、好きじゃないんだよ」
「魔王なのに!?」
「だから便利屋だって!」
「では、どうやって俺を倒す!」
「倒したくない」
「そんな魔王いるか!」
「ここにいる」
レオンが頭を抱える。
「話が進まない!」
---
その時。
レオンが足を滑らせた。
「うわっ!」
ドン!
床に転がる。
魔王が手を差し出した。
「大丈夫?」
「……」
レオンは魔王の手を見る。
「……助けるのか?」
「怪我したら困るだろ」
「敵なのに?」
「だから便利屋だって」
レオンはしばらく黙っていた。
そして――
「……変な魔王だな」
「よく言われる」
---
レオンは立ち上がった。
「分かった」
「何が?」
「今日のところは帰る」
「助かる」
「だが、俺は諦めない」
「いや、もう来なくていい」
「また来る!」
「来なくていいって!」
レオンは剣を鞘に戻した。
そしてドアへ向かう。
しかし、突然振り返った。
「魔王!」
「何?」
「最後に一つ聞きたい」
「何だ?」
「お前は、本当に魔王なのか?」
魔王は少し考えた。
「……たぶん」
「たぶん?」
「俺もよく分からない」
「そうか」
レオンは笑った。
「では、また会おう」
「できれば会いたくない」
「ではな!」
レオンは去っていった。
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事務所に静寂が戻った。
勇気が窓から外を見る。
「行っちゃいましたね」
「ああ」
「結構強かったですね」
「うん」
「魔王さん、よく避けましたね」
「まあ、昔は格闘技やってたから」
「また戦いますかね?」
「どうだろうな」
魔王は椅子に座った。
「でも、ああいう勇者なら……」
「なら?」
「ちょっとだけ応援したくなるな」
「魔王なのに?」
「俺だって人間だからな」
勇気が笑った。
「魔王なのに?」
「しつこいぞ」
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その夜。
魔王はベッドに横になった。
「……空耳さん」
『何だ?』
「いたのかよ!」
『ずっといた』
「じゃあ何で昼間黙ってたんだよ!」
『お前が自分で何とかできると思ってな』
「……」
魔王は天井を見た。
「今日の勇者、強かったぞ」
『そうか』
「俺、あいつとはまた戦うのかな?」
『さあな』
「何か知ってるだろ?」
『知らん』
「本当に?」
『……』
「空耳さん?」
返事がない。
「またいなくなった」
魔王はため息をついた。
「まあいいか」
目を閉じる。
その頃。
街の外れ。
レオンは一人、歩いていた。
手には剣。
背中には盾。
しかし、その表情は明るかった。
「……あの魔王」
レオンは呟く。
「俺が思っていた魔王とは違う」
そして、腰に下げていた小さな紙を取り出した。
そこには古い文字で、
『魔王を見つけたら、決して急いで倒してはいけない』
と書かれていた。
「……どういう意味なんだ?」
レオンは首を傾げた。
しかし、答えを知る者はいない。
そして彼は、その紙を大切にしまった。
やがて夜の闇に消えていく。
魔王も知らない。
レオンも知らない。
この小さな出会いが――
やがて始まる「魔王軍討伐」の、大きな前触れだったことを。




