倒されたい勇者
玄関の外から聞こえてきた、不気味な音。
ガシャン!
魔王は玄関を見つめたまま固まっていた。
父さんも動かない。
母さんも動かない。
そして、三人とも同じことを考えていた。
――また来た。
魔王は小声で言った。
「父さん……」
「なんだ?」
「今回は俺が出た方がいいかな」
「いや」
父さんは首を横に振った。
「インターホンのカメラで確認してからだ」
「……学習したな」
「前回、魔王が言ってただろ」
「そうだった」
魔王はインターホンのモニターを確認した。
しかし――
誰もいない。
「……誰もいない」
父さんが近づく。
「本当か?」
「うん」
母さんも覗き込む。
「でも、音はしたわよね?」
「した」
三人でモニターを凝視する。
すると――
画面の端から、何かがゆっくり現れた。
「!」
魔王は身構えた。
しかし、映ったのは――
一人の男だった。
年齢は二十代くらい。
ジャージ姿。
頭にはスポーツ用のヘッドバンド。
そして肩から、大きなリュックを背負っている。
魔王は首をかしげた。
「……勇者っぽくないな」
父さんが言った。
「普通のスポーツマンじゃないか?」
すると男は、カメラに向かって手を振った。
「こんにちはー!」
魔王は嫌な予感がした。
男が言った。
「魔王さんのお宅ですよね?」
「……」
魔王はモニターを見つめた。
「知ってるじゃん」
父さんが聞く。
「どうする?」
魔王は深呼吸した。
「話だけ聞いてみよう」
インターホンのマイクを押す。
「はい。何でしょうか?」
『あ、魔王さんですか?』
「そうですけど」
『よかったー!』
「何が?」
『本当に魔王さんだった!』
「本人確認から始めるなよ」
男は笑った。
『実は、お願いがありまして』
「お願い?」
『はい』
「何でしょう?」
『便利屋さんですよね?』
「……はい」
『じゃあ、依頼したいです』
魔王は拍子抜けした。
「依頼?」
『はい』
「どんな依頼ですか?」
男は少し考えた。
『俺を倒してください』
「…………」
魔王はゆっくりマイクから手を離した。
「父さん」
「なんだ?」
「普通の依頼じゃない」
「そうだな」
「俺、便利屋なんだけど」
「知ってる」
「便利屋に『俺を倒してください』って依頼する?」
「普通はしないな」
魔王は再びマイクを押した。
「すみません」
『はい?』
「うちは便利屋です」
『はい』
「格闘技ジムではありません」
『知ってます』
「じゃあ、なぜ?」
男は胸を張った。
『あなたが魔王だからです!』
「そこかよ!」
魔王は思わず叫んだ。
母さんが台所から顔を出した。
「どうしたの?」
「勇者!」
「また?」
「たぶん!」
男はインターホン越しに続けた。
『俺は勇者候補です!』
魔王は頭を抱えた。
「また勇者候補……」
男が名乗った。
『名前は――』
そこで一度、咳払い。
『勇気です!』
「…………」
魔王は沈黙した。
「名前からして勇者じゃん」
父さんが頷く。
「確かにな」
母さんも笑った。
「勇気って、すごく勇者っぽいわね」
魔王はインターホンに向かって言った。
「じゃあ勇気さん、どうして俺に倒されたいんですか?」
『俺は勇者候補なんです』
「はい」
『でも、勇者になるには魔王を倒さないといけない』
「はい」
『だから、まず魔王と戦って、自分の実力を確かめたいんです』
「なるほど」
魔王は少し納得した。
「でも、俺は戦いたくないんですよ」
『え?』
「俺、人を殴るの好きじゃないんです」
『世界チャンピオンなのに?』
「世界チャンピオンになったけど好きじゃないんです」
『キックボクシングでも勝ったって聞きました』
「勝ったけど好きじゃないんです」
『じゃあ、どうやって戦えば……』
「戦わない」
『勇者になれません!』
「知らないよ!」
魔王は頭を抱えた。
そのとき、男が突然リュックを下ろした。
「では!」
「?」
リュックから何かを取り出した。
魔王はモニターを見つめる。
「何それ?」
『木刀です!』
「なんで持ってるんだよ!」
『勇者っぽいでしょう?』
「いや、普通に危ないよ!」
『じゃあ、これは?』
今度はフライパンを出した。
「なんでフライパン?」
『勇者は料理もできるべきかと思って』
「勇者の武器の方向性が迷子だよ!」
男は次々とリュックから物を出していく。
木刀。
フライパン。
懐中電灯。
虫取り網。
軍手。
水筒。
折りたたみ傘。
そして――
「……それ何?」
『バナナです』
「勇者にバナナ必要?」
『途中でお腹が空いた時用です』
「遠足じゃねえか!」
父さんが横から言った。
「魔王」
「何?」
「便利屋として、この人の荷物を整理する依頼を受けたらどうだ?」
「父さん、今それ言う?」
母さんが笑っている。
「でも、便利屋らしい仕事ではあるわね」
「勇者の荷物整理から始まる魔王って何なんだよ……」
男は急に真剣な表情になった。
『魔王さん』
「はい」
『俺は本気です』
「何が?」
『あなたを倒して、勇者になりたいんです』
魔王は少し黙った。
そして――
「分かった」
男の顔が明るくなった。
『戦ってくれるんですか!』
「いや」
『え?』
「便利屋として相談に乗る」
『……』
「勇者になる方法を一緒に考えよう」
『魔王さん……』
男は感動したような顔をした。
「はい」
『優しいんですね』
「よく言われる」
『では――』
男が突然、拳を握った。
『まずは魔王さんを殴ります!』
「なんでだよ!」
魔王は反射的に玄関から離れた。
「話聞いてた!?」
『勇者になるには実戦経験が必要なので!』
「その実戦相手が俺なのがおかしい!」
男は木刀を構えた。
『行きます!』
「待て!」
魔王は慌ててインターホンを切った。
玄関の外から、
「魔王さーん!」
「帰れ!」
「勇者になりたいんです!」
「まず家に入る前に帰れ!」
父さんがため息をついた。
「魔王」
「何?」
「お前の便利屋、順調なのか?」
「……分からない」
母さんが言った。
「でも、依頼は来てるわよ」
「そうだけど」
「お客さんを追い返していいの?」
「勇者候補だよ?」
「お客さんには違いないでしょ」
「……」
魔王は悩んだ。
そして玄関の外を見る。
「分かった」
魔王は扉を開けた。
「勇気さん」
「はい!」
「うちの便利屋の仕事として、一つ依頼を受ける」
「本当ですか!」
「あなたを勇者候補として鍛える」
「え?」
「ただし――」
魔王は指を一本立てた。
「俺を殴るのは禁止」
「ええっ!」
「代わりに、便利屋の仕事を手伝って」
「便利屋?」
「そう」
「それで勇者になれるんですか?」
「知らない」
「知らないんですか!」
「俺だって勇者のことよく分かってないんだよ!」
こうして――
魔王の便利屋に、初めての「勇者候補研修生」が誕生した。
しかし魔王は、まだ知らなかった。
この勇者候補者が――
後に便利屋の仕事をめちゃくちゃにするほどの、とんでもない人物になることを。
そして。
この男の後にも――
まだまだ勇者候補者が控えていることを。
魔王は空を見上げた。
「……俺、普通に便利屋やりたいだけなんだけどな」
その夜。
久しぶりに空耳の声がした。
『いい感じだな』
「何が?」
『勇者候補が増えた』
「増やすな!」
『魔王として順調だ』
「便利屋としては全然順調じゃない!」
『次も来るぞ』
「まだいるの?」
『いる』
「何人?」
『知らん』
「お前、神様みたいな立場じゃないの?」
『細かいことは気にするな』
「細かくない!」
魔王はベッドに倒れ込んだ。
「……明日から便利屋、休もうかな」
空耳が言った。
『それはダメだ』
「なんで?」
『勇者候補が困る』
「俺の心配はしないのかよ!」
空耳は答えなかった。
「……空耳さん?」
返事はない。
「また消えた」
魔王は布団をかぶった。
「もう知らん……」
しかし翌朝。
便利屋の事務所の前には――
見たことのない人物が立っていた。
その人物は、看板を見上げていた。
そして一言。
「ここが……魔王の便利屋か」
新たな勇者候補者の登場だった。




