勇者、本当に来る
それから、一週間。
何も起こらなかった。
本当に、何も。
勇者は来ない。
空耳さんも来ない。
母さんは魔法を使えない。
父さんは会社で上司に怒られて、普通にへこんでいる。
そして俺は。
普通に便利屋の仕事をしていた。
「……」
俺は事務所で伝票を整理しながら、ため息をついた。
「結局、何だったんだろうな」
先輩が聞く。
「何がです?」
「いや、こっちの話」
俺は屋根裏で見つかったノートのことを思い出していた。
魔王。
勇者。
魔王の城。
そして、空耳。
全部がつながっているような気がする。
でも。
何も起こらない。
「……まあ、平和なのはいいことか」
俺はそう思うことにした。
---
両親の一週間
家に帰ると、母さんが夕飯を作っていた。
「ただいま」
「おかえり」
「母さん」
「何?」
「魔法、使えるようになった?」
「ならないわよ」
即答だった。
「一週間もあったのに?」
「一週間あれば魔法が使えるようになると思ってたの?」
「……空耳さんはそんな感じで言ってた」
母さんはため息をついた。
「その空耳さんって、本当に大丈夫なの?」
「俺も最近そう思ってる」
父さんがテレビを見ながら言った。
「俺も防御力なんて上がってないぞ」
「会社で怒られてたね」
「うん」
「へこんでたね」
「うん」
「防御力ゼロじゃん」
「精神的な防御力は別らしい」
父さんは真顔で言った。
「……」
「何?」
「父さん、空耳さんの話を信じ始めてない?」
「いや」
父さんは首を振った。
「病院には行く」
「やっぱり?」
「一週間後にまた行こう」
「うん……」
俺は苦笑した。
そして。
その夜。
俺は自分の部屋でベッドに横になった。
一週間。
何もなかった。
「……」
俺は天井を見た。
「空耳さん」
返事はない。
「空耳さん?」
沈黙。
「……」
俺は枕を抱えた。
「このまま一生出てこなければいいのに」
その瞬間。
――よう、元気か?
「うわあああ!」
俺は飛び起きた。
「出た!」
――久しぶりだな。
「久しぶりじゃない!」
――どうした?
「病院に連れて行かれたぞ!」
――……。
「お前のせいだぞ!」
――ごめん。
「軽い!」
――旅行に行ってた。
「旅行ってなんやねん!」
俺は思わず関西弁になった。
――一週間ほど。
「長い!」
――いい旅行だった。
「俺は病院だよ!」
――まあまあ。
「まあまあじゃない!」
---
空耳、反省する
――次はちゃんとやるから許して。
「ちゃんとやらなくていいんだよ!」
――え?
「もう出てこなくていいよ!」
――……。
「俺は普通に暮らしたい」
――……。
「便利屋やって、普通に働いて、普通に寝たい」
――……。
「勇者とか魔王とか、もういいよ」
少し沈黙。
そして。
――誰のおかげで金持ちになったと思ってるんだ?
「……」
俺は黙った。
「……」
確かに。
俺は格闘技でかなり稼いだ。
ボクシング。
総合格闘技。
キックボクシング。
それらで勝てたのは、空耳の力があったからだ。
「……分かったよ」
――うむ。
「でも」
――何だ。
「母さんは魔法使えないし」
――まだだ。
「父さんも会社で怒られてへこんでるぞ」
――それは想定内だ。
「想定内なの?」
――母さんの魔法で家が燃えたら困るだろ。
「……」
――父さんは精神的ダメージに強くなるとは言ってない。
「じゃあ、何が強くなるの?」
――タイミングが難しい。
「何のタイミングだよ!」
――まあ、そのうち分かる。
「また『そのうち』かよ!」
---
勇者は来なかった
俺はベッドに座り直した。
「ところで」
――何だ。
「勇者来なかったぞ」
――知っている。
「何で?」
――いつ来るか分からないからだ。
「それじゃ困るよ」
――お前もゲームをやっただろう。
「うん」
――勇者がいつ魔王と戦うか分からないだろ?
「まあ」
――同じだ。
「いや」
俺は考えた。
「ゲームならセーブして待てるけど、俺は現実なんだよ」
――そうだな。
「突然、宅配業者が来るんだぞ?」
――勇者だからな。
「怖いよ」
――なら。
空耳が少し考えるように言った。
――体験版にするか。
「体験版?」
――魔王と少しだけ戦えるようにする。
「……」
俺は首を傾げた。
「良く分かんないけど」
――うむ。
「そういうの出来るんじゃん!」
――出来る。
「じゃあ、いつ勇者来るの?」
――行けたら行く。
「……」
俺は固まった。
「それ」
――何だ?
「絶対来ないパターンでしょ!」
――そうか?
「『行けたら行く』って言って本当に来る人、見たことないぞ!」
――では。
少し間があった。
――一週間以内には行けると思う。
「絶対だぞ!」
――うむ。
「一週間以内に来てよ!」
俺は少し考えた。
「……来てほしくないけど」
――オッケー。
「急にフレンドリーだな!」
――オッケー。
「なんなんだよ、その軽さ!」
---
家族への説明
翌朝。
俺は両親に説明した。
母さん。
父さん。
俺。
また三人でテーブルを囲んでいる。
「つまり」
父さんが言った。
「一週間以内に勇者が来る可能性がある」
「うん」
「そして」
「うん」
「母さんが魔法使いになる可能性がある」
「うん」
「俺が防御力の高い人間になる可能性がある」
「うん」
父さんは腕を組んだ。
「……」
「どう思う?」
「病院に行こう」
「やっぱり!」
母さんが言った。
「お父さん、一週間後にまた行くんでしょ?」
「そうだったな」
俺はため息をついた。
「まあ、いいよ」
そして父さんが言った。
「でも」
「ん?」
「勇者が本当に来たら」
「うん」
「そのときは説明してくれ」
「もちろん」
父さんは頷いた。
「そのときは信じる」
「……」
俺は少し安心した。
そのとき。
母さんが味噌汁を飲みながら言った。
「でも、勇者ってどんな人なの?」
「前はバットだった」
「バット?」
「うん」
「野球選手?」
「違う」
「じゃあ、今度は?」
「分からない」
父さんが言った。
「宅配業者じゃないといいな」
「俺もそう思う」
---
翌日
そして。
次の日。
俺は仕事が休みだった。
家には家族三人。
朝からのんびりしていた。
母さんはテレビ。
父さんは新聞。
俺はゲーム。
平和だった。
あまりにも平和だった。
俺は思った。
「……本当に勇者なんて来るのかな」
その瞬間。
ピンポーン。
三人が同時に顔を上げた。
「……」
俺はゲームを止めた。
父さんが新聞から顔を上げる。
母さんもテレビを見る。
もう一度。
ピンポーン。
父さんが言った。
「宅配かな」
俺は立ち上がる。
「ちょっと待って」
玄関のインターホンへ向かう。
モニターを見る。
そこには。
宅配業者の制服。
普通の服装。
普通の帽子。
普通の荷物。
「……」
父さんが後ろから覗き込む。
「宅配業者だな」
母さんも見る。
「そうね」
俺は嫌な予感がした。
「……」
父さんを見る。
「父さん」
「何だ?」
「少しの間、受け取ってほしい」
「いいぞ」
父さんが玄関へ向かう。
俺は少し離れて待つ。
母さんも後ろにいる。
父さんがドアの前に立つ。
「はい」
外から声がする。
「魔王さーん」
俺は目を閉じた。
「……」
やっぱり。
「遊ぼう」
俺は目を開けた。
「勇者が遊びに来るな!」
父さんが振り返る。
「勇者?」
「たぶん!」
「分かった」
父さんは玄関の鍵を開けた。
ガチャ。
ドアが開く。
次の瞬間。
ドゴッ!
宅配業者の拳が父さんの顔面に飛んだ。
「父さん!」
父さんの顔が少し後ろへ揺れる。
そして。
「……痛い」
父さんが言った。
「普通に痛い」
「父さん!」
俺は叫んだ。
「勇者だ!」
父さんが振り返る。
「本当に?」
「本当に!」
宅配業者がダンボールを床に置く。
そして。
その中から。
ゴソゴソ。
何かを取り出した。
木製の棍棒。
「ダンボールから棍棒出すなよ!」
勇者は棍棒を振り上げた。
「危ない!」
父さんに向かって振り下ろす。
ドゴン!
「痛い!」
父さんが叫んだ。
俺は思わず目を閉じた。
しかし。
カラン。
何かが床に落ちた音がした。
目を開ける。
棍棒が。
折れていた。
「……」
父さんが自分の肩を見る。
「……?」
「父さん?」
「俺、何もしてないぞ」
「……」
母さんも固まっている。
勇者も固まっている。
全員が折れた棍棒を見る。
父さんが一言。
「これ、弁償しなくていいのか?」
「そこじゃない!」
俺は叫んだ。
勇者がもう一度棍棒を振り上げる。
「父さん!」
俺は飛び出した。
そして。
反射的に。
身体が回った。
ボンッ!
俺の左足が。
勇者の顔面――ではなく。
その横を通り過ぎた。
俺は寸前で軌道を変えた。
そのまま。
強烈なハイキック。
ドンッ!
勇者が吹き飛んだ。
「……!」
俺自身が驚いた。
「今の……」
勇者は玄関の外で倒れていた。
そして。
シュンッ。
消えた。
「……」
俺は呆然と立っていた。
「消えた」
父さんが言った。
「本当に消えたな」
母さんが後ろから小さく言う。
「……怖いわね」
俺は頷いた。
「うん」
三人とも。
しばらく動かなかった。
そして。
俺たちは無言で家の中に戻った。
ガチャ。
鍵をかける。
チェーンもかける。
さらに。
俺がもう一つ鍵を確認する。
「……」
父さんがソファに座った。
母さんも座る。
俺も向かいに座った。
三人とも冷や汗をかいていた。
しばらく誰も話さない。
そして。
父さんが俺を見る。
「魔王」
「うん」
「……こういうことか?」
俺はゆっくり頷いた。
「……うん」
父さんは折れた棍棒を見る。
「なるほど」
母さんが言う。
「本当に勇者だったのね」
「うん」
俺は深く息を吐いた。
「だから言っただろ」
父さんは頷いた。
「……」
そして。
父さんが真剣な顔で言った。
「魔王」
「何?」
「次からは」
「うん」
「インターホンのカメラだけじゃなく」
「うん」
「荷物の中身まで確認しよう」
「……」
俺は頷いた。
「それがいいと思う」
母さんが言う。
「あと」
「何?」
「宅配便は置き配にしましょう」
「……」
俺は思わず笑った。
「それが一番安全かもしれない」
三人で笑った。
しかし。
俺の心の中には、一つの疑問が残っていた。
――なぜ俺のハイキックは、あんなに強かった?
ボクシングでは。
あれほどキックを練習していなかった。
キックボクシングを始めてから練習はした。
それでも。
今の一撃は。
明らかに普通じゃない。
そして。
頭の中に。
久しぶりの声が響いた。
――どうだ?
「空耳さん」
――勇者との戦い。
「……怖かったよ」
――だが、勝った。
「うん」
――少しは自信がついたか?
俺は自分の足を見る。
「……」
そして。
「空耳さん」
――何だ。
「俺」
少し間を置く。
「本当に魔王になっていくのか?」
空耳は答えなかった。
しばらくして。
――その答えは。
さらに間を置いて。
――次の勇者が来たときに分かる。
「……」
俺は天井を見上げた。
「また来るのかよ……」
――来る。
「もう宅配は嫌だぞ」
――次は別の方法かもしれん。
「それも嫌だよ!」
父さんが隣から聞いた。
「また誰かと話してるのか?」
「……うん」
父さんは少し考えた。
「次に来たら」
「うん」
「俺も話してみようか?」
俺は驚いた。
「空耳さんと?」
「ああ」
「何て言うの?」
父さんは真顔で答えた。
「まず、旅行の件を聞く」
「そこ?」
母さんが笑った。
「お父さん、そこ気になるのね」
父さんは真剣だった。
「一週間も旅行してたんだろ?」
「うん」
「どこへ行ったのか聞きたい」
俺は吹き出した。
「確かに」
そして。
家族三人で笑った。
その日。
俺たちは初めて。
「勇者が本当に存在する」
という事実を共有した。
そして俺はまだ知らなかった。
この一件が。
俺の人生をさらに大きく変える。
最初の「体験版」が。
もう始まってしまったことを。




