魔王、ローが好き
キックボクシングを始めてから、しばらく経った。
俺は毎日、練習した。
パンチ。
ミドルキック。
ハイキック。
そして――
ローキック。
特にローキック。
「バンッ!」
サンドバッグが揺れる。
「バンッ!」
また揺れる。
「バンッ!」
さらに揺れる。
トレーナーは、もう何も言わなくなった。
「……」
俺も何も言わない。
ただ蹴る。
「バンッ!」
俺は思った。
――やっぱりローキックはいい。
顔を蹴らなくていい。
お腹を蹴る必要もない。
そして、ちゃんと強い。
俺にとって理想的な技だった。
そんなある日。
ついに。
キックボクシングのプロ初戦の日がやってきた。
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会場に入った瞬間
控室から会場へ向かう。
俺はいつものように、帽子、メガネ、マスク。
しかし。
会場の中に入った瞬間。
「魔王だー!」
「魔王選手!」
「世界チャンピオン!」
「便通大魔王!」
「……」
最後の一人だけ。
俺は無視した。
「うおおおおおお!」
大歓声。
俺は立ち止まった。
「……」
ものすごい。
ボクシング世界王者。
総合格闘技でも勝利。
そして今度はキックボクシング。
すでに俺の名前は。
格闘技ファンなら知らない人はいないほどになっていた。
俺は。
マスクの中で呟く。
「……」
「普通に暮らしたいだけなんだけどな」
トレーナーが横から言った。
「聞こえません」
「何でもないです」
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今日の相手
今日の対戦相手。
名前を聞いただけで。
会場がざわつく。
「……」
俺は。
相手の映像を見ていた。
強い。
とにかく強い。
特に有名なのが。
ハイキック。
相手のハイキックが。
一発。
それだけで。
何人もの選手をリングに沈めてきた。
「……」
俺は映像を止める。
「これ」
「はい」
「大丈夫ですか?」
トレーナーが笑う。
「何がです?」
「相手」
「強いですよ」
「ですよね」
「かなり」
「……」
俺は。
ため息。
「なんで俺、こんな人と戦うんですか?」
トレーナー。
「お前が出るって言ったからだろ」
「……」
そうだった。
俺が自分から言ったわけではない。
空耳に言われたのだ。
「もっと強くなれ」
「キックボクシングをやれ」
そして。
財産没収をちらつかされ。
「分かったよ」
と言ってしまった。
俺は。
心の中で。
空耳に話しかけた。
「空耳さん」
――何だ?
「相手、相当強くて有名な人だけど」
――うむ。
「大丈夫?」
――大丈夫だ。
「本当に?」
――上段は絶対にガードしろ。
「はい」
――そしてローキックを蹴る時は。
「はい」
――頭を後ろに反らしながら蹴るといい。
「へえ」
――そうすればハイキックを避けられる。
俺は感心した。
「空耳さん、詳しいね」
――当然だ。
「空耳さんが試合に出たら?」
――この老体では無理だろ!
「老体?」
――そうだ。
「空耳さんの姿、見たことないし」
――……。
「本当におじいちゃんなの?」
――そこは想像に任せる。
「なんだそれ」
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第1ラウンド
ついに。
ゴング。
カーン!
俺と相手が。
中央へ。
「……」
相手を見る。
相手も俺を見る。
お互い。
すぐには動かない。
会場は。
ものすごい歓声。
「魔王!」
「魔王!」
「いけー!」
俺は。
心の中で。
――うるさい。
と思った。
でも。
それだけ期待されている。
そう思うと。
少し嬉しかった。
俺は。
構える。
相手も構える。
そして。
シュッ!
相手のジャブ。
俺は避ける。
俺も。
ジャブ。
シュッ!
相手が下がる。
次は。
相手のロー。
「バシッ!」
俺は。
足を引く。
俺もロー。
「バンッ!」
当たった。
相手が少し下がる。
「……」
効いている。
だが。
相手は強い。
すぐに距離を詰める。
パンチ。
キック。
またパンチ。
俺も。
パンチ。
ロー。
ロー。
そして。
相手の足が動く。
俺は。
ローキックを当てていく。
「バン!」
「バン!」
「バン!」
会場が。
「おおおお!」
と湧く。
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ハイキック
その時。
相手の右足が。
スッと上がった。
「!」
ハイキック。
俺は。
両腕を上げる。
「ガード!」
「ドンッ!」
強烈な衝撃。
腕が痺れる。
「……!」
でも。
顔には当たっていない。
空耳の言葉を思い出す。
――上段は絶対ガードしろ。
「……」
よし。
もう一度。
相手が。
ハイキック。
俺は。
またガード。
「ドン!」
そして。
俺は。
ロー。
「バン!」
相手が下がる。
俺は。
さらにロー。
「バン!」
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魔王、脇腹をもらう
しかし。
相手は。
単純なハイキックだけではなかった。
相手の足が。
また上がる。
「!」
俺は。
ハイキックだと思い。
ガードを上げる。
ところが。
足が途中で方向を変えた。
「!」
ミドルキック。
「ドンッ!」
脇腹。
「ぐっ!」
俺の身体が。
少し横へ流れる。
「……痛い」
俺は。
脇腹を守る。
その瞬間。
俺のガードが。
少し下がった。
相手は。
それを見逃さない。
パンチ。
「シュッ!」
俺は避ける。
しかし。
さらに。
ミドル。
「バン!」
俺は。
苦しい。
――まずい。
相手は。
俺のガードを下げさせようとしている。
俺は。
もう一度。
ローを狙う。
足を振る。
その瞬間。
相手が待っていた。
「!」
ハイキック。
俺は。
慌てて頭を反らす。
「ブンッ!」
足が。
顔の前を通過。
完全には避けられなかった。
「ガッ!」
つま先が。
頬をかすった。
「……!」
俺の身体が。
一瞬。
フラッ。
視界が揺れた。
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ラウンド終了
カーン!
第1ラウンド終了。
俺は。
ふらつきながら。
コーナーへ戻った。
トレーナーが。
すぐに近づく。
「魔王!」
「はい」
「最後のハイキック!」
「はい」
「当たったのは大丈夫だったか?」
俺は。
頭を振る。
「大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「どうだった?」
「かすって」
「うん」
「ふらついただけです」
トレーナーは。
真剣な顔。
「次は危ないぞ」
「……」
「相手は絶対に、今のことに気づいている」
俺は。
頷いた。
「はい」
「次はラッシュを仕掛けてくるかもしれない」
「……」
「しっかりガードだ」
「分かりました」
俺は。
水を飲む。
そして。
ふと。
心の中で呟いた。
――なんで俺。
――こんな強い人と戦ってるんだ?
俺は。
本当は。
サラリーマンになりたかった。
健太みたいに。
普通に働いて。
普通に暮らして。
休日には。
「今日は何しようかな」
とか言って。
ゆっくりしたかった。
なのに。
今。
俺は。
世界でも有名なキックボクサーと。
リングの上で殴り合っている。
「……」
怖い。
痛い。
できれば。
早く終わらせたい。
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魔王の作戦
俺は。
相手を見る。
そして。
考えた。
――次。
相手は。
最初にハイキックを出してくる。
俺は。
そう予想した。
第1ラウンド最後。
ハイキックが。
俺の顔をかすめた。
相手も。
俺が一瞬ふらついたことを知っている。
だから。
次は。
いきなり狙ってくる。
俺は。
そう思った。
なら。
どうする?
「……」
空耳の言葉。
――ローキックを蹴る時は。
――頭を後ろに反らしながら。
俺は。
決めた。
「……」
ハイキックに。
ローキックを合わせる。
これしかない。
俺は。
静かに構えた。
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第2ラウンド
カーン!
開始。
相手が。
いきなり。
前へ出てくる。
「!」
速い。
俺は。
構える。
相手の足が。
上がる。
「来た!」
ハイキック!
俺は。
空耳の言葉を思い出す。
――頭を後ろに反らせ。
俺は。
思いきり。
上体を後ろへ。
「!」
相手のハイキックが。
目の前を通り過ぎる。
「ブンッ!」
空振り。
その瞬間。
俺の右足が。
走った。
「うおおお!」
強烈なローキック。
「バンッッ!」
相手の足へ。
まともに入った。
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一瞬の出来事
相手の身体が。
大きく傾く。
「え?」
俺自身も。
驚いた。
相手の身体が。
浮いた。
「……」
宙を舞う。
そして。
「ドン!」
リングへ。
頭から落ちる。
会場。
「うおおおおおおおお!」
大歓声。
俺は。
その場で固まった。
「……」
「え?」
レフェリーが。
相手を見る。
相手は。
起き上がろうとする。
しかし。
足を押さえている。
「くっ……」
立とうとする。
「……無理だ」
脚が痛くて。
立てない。
レフェリーが。
試合を止める。
「ストップ!」
俺は。
呆然としていた。
そして。
レフェリーが。
俺の腕を上げた。
「勝者!」
「魔王!」
会場が。
爆発したように沸いた。
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またロー
俺は。
自分の右足を見る。
「……」
まさか。
ローキックで。
こんなことになるとは。
トレーナーが。
ケージの外から。
叫ぶ。
「魔王!」
「はい!」
「お前!」
「はい!」
「ロー好きだな!」
「……」
俺は。
少し考えた。
「はい!」
観客が。
「ハハハハハ!」
と笑う。
トレーナーも笑う。
俺も笑った。
しかし。
すぐに。
倒れた相手を見る。
医療スタッフが駆け寄っている。
俺は。
心配そうに見つめた。
「大丈夫かな……」
スタッフが。
相手を確認する。
相手は。
意識はしっかりしている。
ただ。
脚の痛みが強く。
すぐには立てない。
俺は。
胸を撫で下ろした。
「よかった……」
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試合後
控室へ戻る。
トレーナーが。
俺の肩を叩いた。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
「キックボクシング初戦」
「はい」
「しかも」
「はい」
「強敵相手に」
「はい」
「ローキック一発」
「……」
「まさか本当にローで終わらせるとは」
俺は。
苦笑した。
「俺もびっくりしました」
「どうしてあんなにタイミングが合ったんだ?」
俺は。
少し黙った。
「……」
空耳のことは。
言えない。
「勘です」
「勘?」
「はい」
トレーナーが。
呆れた顔。
「世界チャンピオンの勘って怖いな」
俺は。
心の中で。
空耳に話しかけた。
「空耳さん」
――何だ。
「勝ったよ」
――見ていた。
「ありがとう」
――よくやった。
「でも」
――何だ。
「やっぱり怖かった」
――そうだろうな。
「もうちょっと楽な相手にしてほしい」
――強くなれば楽になる。
「……」
俺は。
ため息。
「またそれか」
――まだまだだ。
「俺」
「サラリーマンになりたいんだけど」
――却下。
「即答するなよ!」
そして。
俺は。
鏡を見る。
世界チャンピオン。
総合格闘技でも勝った。
そして。
キックボクシング初戦も勝った。
俺の名前は。
さらに有名になっていく。
俺は。
帽子。
メガネ。
マスク。
この三つが。
ますます手放せなくなった。
そして。
世間では。
新しい呼び名まで生まれていた。
「世界王者級のパンチを持ち、必殺技はローキック。なのに本人はサラリーマンになりたい男――魔王」
俺は。
その記事を読んで。
一言。
「……」
「最後のところだけ、本当に分かってほしい」
そう呟いた。




