魔王、キックを覚える
総合格闘技に出る。
そう決めた翌日。
俺は早速、総合格闘技のジムを訪れた。
「よろしくお願いします!」
俺は頭を下げた。
目の前には。
ボクシングジムとは少し違う光景が広がっていた。
リング。
マット。
サンドバッグ。
そして。
蹴りの練習をしている選手たち。
「シュッ!」
「バンッ!」
「ドンッ!」
「……」
俺は。
その光景を見ながら。
少しだけ緊張した。
ボクシングでは。
世界チャンピオンになった。
パンチなら。
誰にも負けない。
……たぶん。
しかし。
総合格闘技では。
パンチだけでは戦えない。
キック。
タックル。
寝技。
関節技。
いろいろある。
つまり。
俺は。
世界チャンピオンなのに。
初心者だった。
「魔王さん」
トレーナーが言った。
「今日は何からやります?」
俺は胸を張った。
「キックです」
「即答ですね」
「パンチは世界チャンピオンなので」
「そうですね」
「だから」
俺は。
足を上げた。
「キックを覚えます」
トレーナーが笑った。
「いいですね」
俺は。
少しだけ安心した。
「よし」
今日から。
俺は。
キックの魔王になる。
……と思った。
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初めてのキック
サンドバッグの前に立つ。
トレーナーが説明する。
「まずはローキック」
「はい」
「次にミドル」
「はい」
「そしてハイ」
「はい」
俺は。
真剣に聞いた。
「上、中、下ですね」
「そうです」
「分かりました」
俺は。
サンドバッグを見た。
「……」
拳なら。
何度も殴ってきた。
でも。
蹴るのは。
ほとんど初めて。
「まずローから」
俺は足を振る。
「……」
スカッ。
「……」
当たった。
しかし。
音が。
小さい。
「バン……」
俺は。
サンドバッグを見る。
「……」
トレーナーを見る。
「弱いですね」
「まあ、最初ですから」
「自分でも分かります」
もう一度。
「バン!」
やっぱり弱い。
俺は首を傾げた。
「パンチより全然弱い」
「そりゃそうですよ」
「でも」
俺は。
少し悔しくなった。
「世界チャンピオンなのに」
「パンチの世界チャンピオンですから」
「……」
「キックの世界チャンピオンではありません」
「分かってます」
俺は。
サンドバッグを見た。
「今日から練習します」
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上・中・下
俺は。
ひたすら蹴った。
ロー。
「バン!」
ミドル。
「バン……」
ハイ。
「……」
足が。
途中で止まった。
「届かない」
「柔軟性も必要ですよ」
「なるほど」
もう一度。
「よいしょ!」
足を上げる。
「……」
プルプル。
俺の身体が。
震える。
「魔王さん」
「はい」
「無理しないでください」
「大丈夫です」
「顔が大丈夫じゃないです」
「顔?」
「ものすごく苦しそうです」
「キックって大変ですね」
「そうですよ」
俺は。
汗を拭いた。
「ボクシングって楽だったんだな」
「世界チャンピオンが何を言ってるんですか」
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毎日キック
それから。
俺は毎日。
総合格闘技ジムへ通った。
ボクシングの経験があるので。
パンチの技術は。
ほとんど問題ない。
問題は。
足。
「ロー!」
「バン!」
「ミドル!」
「バン!」
「ハイ!」
「……」
届かない。
「もう一回!」
「バン!」
「もう一回!」
「バン!」
毎日。
毎日。
蹴った。
最初は弱かった。
本当に弱かった。
サンドバッグを蹴っているのに。
サンドバッグが。
「ちょっと揺れただけ」
という日もあった。
俺は。
それを見るたびに。
「……」
「パンチならもっと揺れるのに」
と呟いた。
トレーナーは。
「当たり前です」
と答えた。
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魔王、スパーリングへ
そして。
数週間後。
「そろそろスパーリングやってみますか?」
トレーナーに言われた。
「はい!」
俺は。
少し自信がついていた。
毎日。
キックを練習した。
少しずつ。
強くなっている。
これなら。
できる。
そう思った。
マットの上。
相手と向かい合う。
「お願いします!」
「お願いします!」
開始。
相手が。
シュッ!
パンチ。
俺は避ける。
さすがに。
パンチは見える。
俺も。
ジャブ。
シュッ!
相手が下がる。
「……」
やっぱり。
パンチはできる。
問題は。
キックだ。
相手が。
ローキック。
「バシッ!」
「……」
俺も。
ローを返す。
「バン!」
当たった。
「よし!」
少し嬉しい。
しかし。
相手が距離を詰めてきた。
顔が。
目の前にある。
俺は。
ハイキックを出そうとする。
「……」
足が止まった。
「……無理」
顔を蹴れない。
相手の頭。
目。
鼻。
口。
全部。
見えてしまう。
「……」
俺は。
足を下ろした。
相手が不思議そうな顔をする。
「?」
俺は。
思った。
――ボクシングと同じだ。
顔を殴れなかった。
そして。
今度は。
顔を蹴れない。
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ミドルキックにも問題があった
相手の身体。
胸。
腹。
胴体。
俺は。
ミドルキックを出そうとする。
「……」
やっぱり。
止まる。
「……」
腹も。
蹴りたくない。
「なんでですか?」
トレーナーが聞く。
「いや……」
俺は。
困った顔をする。
「痛そうなので」
「格闘技ですからね」
「分かってます」
「ルールの中でやってますから」
「でも」
俺は。
真剣に言った。
「お腹を蹴ったら痛いじゃないですか」
「そりゃ痛いですよ」
「だから嫌なんです」
トレーナーは。
頭を抱えた。
「魔王さん」
「はい」
「あなた」
「はい」
「格闘技、向いてないんじゃないですか?」
「……」
俺も。
少し考えた。
「俺もそう思います」
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ローキックなら
しかし。
一つだけ。
俺が抵抗なく蹴れる場所があった。
足。
ローキック。
「バシッ!」
相手が下がる。
「……」
俺は。
ローを打つ。
「バシッ!」
また下がる。
「……」
もう一度。
「バシッ!」
相手の足が止まる。
俺は。
思った。
「これなら」
蹴れる。
顔ではない。
腹でもない。
足なら。
比較的。
気持ちが楽だった。
「ローキック」
「バシッ!」
「ローキック」
「バシッ!」
俺は。
ローばかり蹴り始めた。
トレーナーが叫ぶ。
「魔王さん!」
「はい!」
「ローしか蹴ってません!」
「はい!」
「ミドルは?」
「怖いです」
「ハイは?」
「もっと怖いです」
「何なら怖くないんですか!」
俺は。
即答した。
「ローです」
「……」
「ローなら大丈夫です」
「あなた、本当にボクシングから何も変わってませんね」
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魔王式・優しい総合格闘技
スパーリングが終わる。
俺は汗だくになっていた。
相手も息を切らしている。
「ありがとうございました」
「ありがとうございました」
相手が笑う。
「魔王さん」
「はい?」
「面白いですね」
「何がですか?」
「パンチが強いのに」
「はい」
「顔にはほとんど打たない」
「はい」
「蹴りも」
「はい」
「ローしか来ない」
「……」
「めちゃくちゃ優しい戦い方ですね」
俺は。
少し考えた。
「……」
「そうですかね?」
「はい」
「じゃあ」
俺は胸を張った。
「優しい魔王を目指します」
トレーナーが。
「魔王なのに?」
と呟いた。
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夜、謎の声
その夜。
家に帰る。
ベッドに倒れ込む。
「疲れた……」
今日は。
キックのスパーリングまでやった。
足が。
ものすごく重い。
俺は天井を見る。
「総合格闘技って大変だな」
――そうだな。
「お」
謎の声。
「今日はいるのか」
――いる。
「総合格闘技って難しい」
――当然だ。
「パンチなら世界チャンピオンなのに」
――うん。
「キックになると初心者」
――うん。
「なんか納得いかない」
――それが総合格闘技だ。
俺は。
ため息をついた。
「でも」
――何だ。
「ローキックなら結構できるようになった」
――そうだな。
「だから」
俺は。
布団に入る。
「しばらくローキック中心でいく」
――……。
「何?」
――いや。
「何だよ」
――お前。
「うん」
――また一つの技だけ極めようとしているな。
「悪いか?」
――悪くはない。
「ならいいじゃん」
――ただ。
「何?」
――総合格闘技はローキックだけではない。
「分かってるよ」
――パンチ。
「できる」
――キック。
「練習中」
――タックル。
「……」
俺は黙った。
――寝技。
「……」
さらに黙った。
――関節技。
「……」
俺は布団を頭までかぶった。
「聞こえない」
――魔王。
「聞こえない!」
――お前は総合格闘技を――
「明日考える!」
俺は。
布団の中で叫んだ。
「今日は寝る!」
――……。
しばらくして。
謎の声が言った。
――まあいい。
「……」
――明日から頑張れ。
俺は。
小さく笑った。
「うん」
そして。
目を閉じる。
しかし。
その時の俺は。
まだ知らなかった。
毎日積み重ねているローキックが。
やがて。
総合格闘技の世界で。
誰も予想しなかった。
俺だけの武器になることを。
そして。
「パンチも強い」
「ローキックも強い」
「でも顔は絶対に蹴らない」
そんな。
奇妙なファイターが。
またしても。
格闘技界を騒がせることになるとは。
俺自身。
知る由もなかった。




