「ご飯ください」
夜明け前。
王都を囲む堀には、まだ薄い霧が残っていた。
城壁の上では、兵士たちが緊張した面持ちで外を見つめている。
その少し後ろでは、魔王軍の面々も警戒していた。
昆布は、光る靴を片方の手に持っていた。
「……明るいですね」
靴底から発せられる光が、堀の外や森の入り口を照らしている。
兵士が隣から尋ねた。
「昆布殿、その靴は本当に靴なのですか?」
「靴です」
「手に持って使うものなのですか?」
「本来は履くものだと思います」
「では、なぜ持っているのですか?」
「今は履くより照らした方が役に立つので」
「なるほど……」
兵士は少し考えた。
「……合理的ですね」
昆布はうなずいた。
「戦場では、使えるものを使える方法で使うのが大事です」
その横で魔王が森を見ていた。
「……でも、静かだね」
父も森を見る。
母も言った。
「本当に襲ってくるのかしら?」
鍋はヘル鍋を頭にかぶったまま、少し眠そうだった。
「襲ってくるなら、朝ご飯を食べてからにしてほしいですね」
殴打が言う。
「鍋さん、戦いの前に食事の心配ですか?」
「料理人ですから」
五利武も森を見る。
「俺も腹減ってきた」
「五利武さんまで……」
勇気が苦笑した。
「皆さん、まだ戦いになると決まったわけではありませんから」
そのときだった。
森の奥から――
ズズズズズ……
巨大な何かが動く音がした。
兵士たちが一斉に構える。
「来るぞ!」
「全員、警戒!」
「敵襲か!」
魔王も身構えた。
「大きい……」
昆布が光る靴を森へ向ける。
「……何かいます」
木々が左右に揺れる。
ザザザザッ!
バキッ!
太い木の枝が折れた。
そして――
森の中から、
さらに巨大なオオカミモンスターが現れた。
「でかっ!」
兵士が叫んだ。
普通のオオカミモンスターより、さらに二倍、三倍は大きい。
巨大な体。
大きな頭。
鋭そうな牙。
太い四本の脚。
その姿を見た兵士たちは、一斉に武器を構えた。
「来るぞ!」
「攻撃準備!」
「ついにボスが――!」
巨大オオカミは、王都をじっと見つめた。
兵士たちも見つめる。
魔王も見つめる。
昆布も見つめる。
勇気も見つめる。
父も見つめる。
母も見つめる。
鍋も見つめる。
殴打も見つめる。
五利武も見つめる。
ゴプリンも見つめる。
便意も見つめる。
そして――
巨大オオカミが口を開いた。
「ワン!」
全員、
「…………」
魔王が瞬きをした。
「……ワン?」
巨大オオカミは、
ドサッ。
その場に座った。
そして、
ブンブンブンブン!
尻尾を振り始めた。
「…………」
兵士の一人が小声で言った。
「座った……?」
別の兵士も言う。
「攻撃しないのか?」
巨大オオカミは舌を出した。
「ハッ、ハッ、ハッ……」
口の端から、
ポタ……
ポタ……
よだれが落ちる。
昆布は光る靴を下ろした。
しばらく巨大オオカミを観察する。
そして静かに言った。
「……ご飯前のワンちゃん」
魔王が思わず振り返った。
「昆布さん」
「はい」
「今、敵を見て言いました?」
「はい」
「ワンちゃんって?」
「どう見ても、ご飯を待っている犬です」
魔王も巨大オオカミを見る。
「……確かに」
父も見る。
「尻尾、ものすごく振ってるな」
母が言った。
「かわいいわね」
兵士たちは混乱していた。
「かわいい……?」
「いや、巨大ですよ?」
「でも尻尾を振っているぞ」
「よだれも出ている」
「……腹が減っているのか?」
巨大オオカミが、
「ワン!」
と鳴いた。
すると――
周囲にいた大量のオオカミモンスターたちも、
「ワン!」
「ワン!」
「ワン!」
「ワン!」
「ワン!」
一斉に座った。
ズズズズズッ!
ドン!
ドン!
ドン!
王都の外に並ぶ大量のオオカミモンスターが、次々と座る。
そして――
ブンブンブンブンブン!
全員が尻尾を振り始めた。
「ワン!」
「ワン!」
「ワン!」
舌を出す。
ハッ、ハッ、ハッ。
よだれが落ちる。
ポタ。
ポタ。
ポタ。
ポタポタポタポタ。
兵士が叫んだ。
「よだれがすごいぞ!」
別の兵士が言う。
「攻撃より先に腹が減っている!」
昆布は冷静に言った。
「……なるほど」
魔王が聞く。
「何かわかりました?」
「はい」
昆布はオオカミ軍を指差した。
「これはおそらく、籠城戦ではありません」
「じゃあ何ですか?」
昆布は少し考えた。
「……食事会です」
「食事会!?」
魔王が思わず叫んだ。
「いやいや、王都を包囲してるんだよ!?」
昆布はうなずく。
「包囲しているように見えます」
「見えますじゃなくて、実際に包囲してるよ!」
「ですが、攻撃してきません」
「それはそうだけど……」
昆布は細い指向性メガホンを取り出した。
「少し試してみましょう」
魔王が言う。
「何を?」
昆布はメガホンを口元へ持っていく。
「食事の提供です」
「食事!?」
昆布は王都の反対側にいる兵士たちにも聞こえるように、指向性メガホンを使った。
「激辛さん、鍋さんと皆で協力して、王都の堀の外に甘辛肉鍋を投げてください」
声が遠くまで響く。
「甘辛肉鍋を投げる!?」
鍋が振り返った。
「私の鍋ですか?」
昆布がうなずく。
「はい」
鍋はヘル鍋を触った。
「この鍋で?」
「そうです」
「料理を入れて?」
「そうです」
「投げるんですか?」
「そうです」
鍋は少し考えた。
「……料理人として、初めて聞く調理法ですね」
魔王が言った。
「僕も初めて聞いたよ」
そこへ激辛がやって来た。
「甘辛肉鍋ですね?」
昆布がうなずく。
「お願いします」
激辛は鍋の前に立った。
そして――
鍋に手をかざす。
「甘辛肉鍋」
ボンッ!
鍋の中に、突然大量の肉が現れた。
さらに野菜。
さらに甘辛いタレ。
そしてグツグツ煮えた肉鍋。
「おお……」
鍋が驚いた。
「満杯です」
激辛は何事もなかったように言う。
「甘辛肉鍋です」
鍋は自分の鍋を見た。
「……料理人の鍋に、料理がいっぱい入りました」
魔王が言う。
「そのままだね」
鍋はうなずいた。
「はい」
昆布が指示を出す。
「では、皆さん。堀の外へ」
兵士たちも集まった。
「投げるのか?」
「本当に投げるんですか?」
「敵に料理を?」
昆布が答える。
「はい」
「戦争なのに?」
「はい」
「肉鍋を?」
「はい」
「……大丈夫ですか?」
昆布は冷静だった。
「オオカミたちが空腹なら、これが一番安全です」
魔王も納得した。
「確かに、戦うよりいいね」
勇気も笑顔でうなずいた。
「では、皆さん。頑張りましょう!」
兵士たちは調理用スプーンを持ち上げた。
「せーの!」
「おおおおお!」
ブンッ!
ドサッ!
堀の外へ肉鍋が落ちた。
その瞬間。
オオカミモンスターたちの目が、
キラッ!
と光った。
巨大オオカミが立ち上がる。
「ワン!」
周囲のオオカミも、
「ワン!」
「ワン!」
「ワン!」
そして――
ドドドドドドドドド!
一斉に肉鍋へ走っていく。
「速い!」
兵士が叫ぶ。
巨大オオカミが肉鍋へ到着。
クンクン。
匂いを嗅ぐ。
そして、
「ガブッ!」
食べ始めた。
「おお……」
その後ろから大量のオオカミモンスターが集まる。
「ワン!」
「ワン!」
「ワン!」
そして全員、
むしゃむしゃむしゃむしゃ。
肉。
野菜。
肉。
野菜。
甘辛いタレ。
むしゃむしゃ。
「食べてる……」
魔王が呟いた。
鍋は複雑そうな顔をした。
「……私の料理が、戦場で大人気になっています」
激辛も満足そうだった。
「売れ行きがいいですね」
「売ってませんよ」
魔王が突っ込む。
さらに兵士たちが肉鍋を投げる。
「次!」
「はい!」
「せーの!」
ブンッ!
ドサッ!
「ワン!」
ドドドドド!
むしゃむしゃむしゃ!
また投げる。
「次!」
ブンッ!
ドサッ!
「ワン!」
むしゃむしゃむしゃ!
さらに投げる。
「次!」
ブンッ!
ドサッ!
むしゃむしゃむしゃ!
王都の城壁の上では、完全に異様な光景になっていた。
兵士たちは武器ではなく、肉鍋を持って走り回っている。
鍋は自分の鍋を抱えている。
激辛は次々と甘辛肉鍋を作っている。
昆布は指向性メガホンで指示している。
勇気は兵士たちを励ましている。
「皆さん、あと少しです!」
「はい!」
「頑張ってください!」
「お疲れ様です!」
「次の肉鍋です!」
「はい!」
一方、外では――
オオカミ軍。
むしゃむしゃむしゃ。
「ワン!」
むしゃむしゃ。
「ワン!」
むしゃむしゃ。
そしてしばらくすると――
一匹のオオカミが、
「ふぅ……」
というような顔をして座った。
尻尾の動きが弱くなる。
別のオオカミも、
ドサッ。
その場に座る。
さらに別のオオカミも、
ゴロン。
横になる。
「……満腹になったんでしょうか?」
兵士が言った。
昆布が双眼鏡を覗く。
「そのようです」
巨大オオカミも、
「……ワン」
小さく鳴いた。
そして森の方を向いた。
トコトコ。
歩き始める。
「帰るのか?」
魔王が言った。
巨大オオカミは一度振り返った。
王都を見る。
そして、
「ワン!」
尻尾を振った。
森へ戻っていく。
その後ろを、他のオオカミモンスターたちがついていく。
ゾロゾロ。
ゾロゾロ。
ゾロゾロ。
「……」
王都の兵士たちは、誰もしゃべらなかった。
ただ見送る。
森へ入っていくオオカミたち。
一匹。
また一匹。
そして最後の一匹が、
「ワン!」
と鳴いて、
森の中へ消えた。
静かになった。
王都の外には――
誰もいない。
昆布が光る靴を下ろした。
「……全て帰りました」
魔王が言う。
「終わった……?」
昆布がうなずく。
「終わりました」
兵士たちは、
「…………」
その場に座り込んだ。
「疲れた……」
「ものすごく疲れた……」
「こんなに疲れた籠城戦は初めてだ……」
「俺は一度も敵に攻撃していないのに……」
鍋さんも鍋を置いた。
「疲れました……」
激辛も肩を回す。
「肉鍋を作りすぎました」
魔王が言った。
「激辛さんも鍋さんも、本当にお疲れ様でした」
鍋は笑った。
「でも、料理で戦いを終わらせられたのは良かったですね」
激辛も言う。
「はい」
そのとき勇気が、兵士たちと激辛と鍋の前に立った。
そして笑顔で言った。
「皆さん」
全員が勇気を見る。
勇気は大きな声で言った。
「お疲れ様でした。よく頑張りましたね」
兵士たちから、
「……ありがとうございます」
という声が返ってきた。
鍋も、
「ありがとうございます」
激辛も、
「ありがとうございます」
魔王も笑った。
「勇気さんの励まし、こういうときにいいですね」
昆布もうなずいた。
「指向性メガホンとの相性も抜群です」
勇気がメガホンを見る。
「これ、便利ですね」
国王もベランダの上から外を見ていた。
「……」
しばらく沈黙。
そして国王が言った。
「昆布よ」
「はい」
「これは……勝ったのか?」
昆布は少し考えた。
「はい」
「敵を倒していないが?」
「はい」
「武器もほとんど使っていないが?」
「はい」
「兵士たちは疲れ切っているが?」
「はい」
「料理を大量に投げただけだが?」
昆布は静かに答えた。
「王都は守られました」
国王は腕を組んだ。
「……勝利とは、難しいものじゃな」
魔王が言う。
「でも、誰も傷ついていないなら、それが一番いいですよ」
国王はうなずいた。
「そうじゃな」
しかし――
その直後だった。
森の奥から、
「……ワン」
小さな声が聞こえた。
全員が振り返る。
「…………」
魔王が言う。
「……帰ったんじゃなかった?」
昆布が光る靴を森へ向ける。
「……何かいます」
兵士が立ち上がる。
「まだオオカミがいるのか!?」
「警戒!」
「全員、構えろ!」
森の奥。
木々の間に――
二つの目が光った。
しかし、
「ワン」
ではなかった。
「……ニャ?」
「…………」
魔王が固まる。
昆布も固まる。
母が言った。
「今の……猫?」
ゴプリンが小さく言った。
「……ネコ?」
森の奥から、
さらに別の声がした。
「ブヒッ」
「…………」
鍋が言った。
「豚?」
さらに、
「コケコッコー!」
兵士が叫んだ。
「鶏までいるぞ!」
昆布は眉をひそめた。
「……おかしいですね」
魔王が聞く。
「何が?」
昆布は森を見つめる。
「オオカミ軍が、食事をして帰っただけではないのかもしれません」
「どういうこと?」
昆布は答えた。
「もしかすると――」
そのとき。
森の奥から、
ズシン……
ズシン……
ズシン……
と、巨大な足音が響いた。
兵士たちが息をのむ。
魔王も森を見る。
昆布が光る靴をさらに高く掲げた。
そして照らされた森の奥に――
巨大な何かの影が浮かび上がった。
国王が叫ぶ。
「まだ敵がいるのか!?」
魔王が言う。
「……まさか」
母が小声で言った。
「今度は何を食べたいのかしら?」
鍋が真剣な顔をした。
「もしや……」
激辛も言った。
「また肉鍋でしょうか?」
昆布は沈黙した。
そして、
「……それはまだ分かりません」
魔王が森を見る。
巨大な影が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
ズシン。
ズシン。
ズシン。
王都の兵士たちは再び緊張した。
今度こそ本当の戦いが始まるのか。
それとも――
また食事なのか。
魔王軍は、誰にも分からないまま森を見つめていた。
そして巨大な影が、
ついに森から姿を現そうとしていた。




