そのシルエット
詩は、門の小さな扉を開けてそっとのぞいてから、和音に手招きをした。
「大丈夫、今よ」
そう言った詩の後を、和音は腰をかがめるようにして、お手伝いの葉子さんに見つからないか気にしながら、息を殺してついて行った。
詩の部屋に入り、ソファに座ってやっと一息つく。音としては何度か訪れた部屋だが、和音としては初めてだ。
「冷たいのでいいよね?」
詩は冷蔵庫から炭酸を二本取り出すと、和音が座っている二人掛けのソファに肩を並べて座った。
上着を脱いでノースリーブになった詩の素肌が腕に触れて、ちょっとドキドキする。
「音ちゃん、きのうはごめんね」
「えっ、何が?」
「さんちゃんとのカラオケ。ふたりで行ったのは私のせいなのに……その……キスなんかしてあげるんじゃなかったって、あんな言い方をして」
詩は瞼を落とした。
「ああ、大丈夫だよ。あれはボクも気をつけてなきゃいけなかったんだよ。だから……」
ふと詩を見ると、少し上目遣いに真っ直ぐ和音を見ていて、視線が絡んだ。
うわ、どうしよう。心臓が破裂しそう。
詩の顔が、ゆっくりと和音に近づいたそのとき。
ジャジャジャジャーン!
ベートーヴェンの「運命」の電子音が部屋に鳴り響いた。
「きゃっ! なに?」
和音は思わず叫んだ。
「あっ、ごめん。インターホンなの」
詩はさっと立ち上がり、壁際のインターホンのボタンを押して、「はい」と返事をする。
「お嬢さま、お帰りなさいませ。お食事はすぐになさいますか?」
お手伝いの葉子さんの声だ。
「ええと、もう少ししてからでいいかな」
チラッと和音を見ながら、詩が返事をする。
「承知しました。では、お連れ様に何かお出ししましょうか?」
やばっ、しっかり見られてる。
「もう葉子さんたら。お連れ様って、音ちゃんよ」
「あら、そうでございましたか。歳のせいか最近目が悪くなりまして、嫌ですわ。では、いただいたケーキがございますので、すぐにお持ちいたします」
プツッと切れた。その瞬間。
「音ちゃん、すぐ制服に着替えて!」
「えっ、今これ制服だけど?」
「そうじゃなくて女子の方! ほら、早く。葉子さんが来ちゃう!」
そういうことか。葉子さんも僕は女の子だと思ってるはずだ。男子制服のまま葉子さんに見られたら、説明がつかない。
和音はリュックからあわてて女子服を取り出して、今着ている男子制服を脱いだ。
「し、下着は?」
「だめ、時間がないわ。そのまま服を着て」
急げば急ぐほど服が引っかかるものだ。大慌てでブラウスとスカートだけを着て、手ぐしで髪を分けたそのときだった。
コンコン、とドアが鳴った。
危機一髪だった。
「音さま、いらっしゃい。このケーキ、とても人気でなかなか手に入らないものですのよ。どうぞ召し上がって」
葉子さんは、テーブルにふた揃えのケーキセットを置いた。しかもあの短時間で飲み物も用意してあるのだ。
「ありがとうございます」
和音は丁寧にお礼を言う。
「お嬢さま、そちらはクリーニングを?」
葉子さんが言うので、ふと見ると、和音が脱ぎ捨てたばかりの男子制服がソファの背にかかったままだ。
げっ、まずい。
「あ、ああこれは、その、今度の学園祭のコスプレ衣装なの。きょうはその試着に音ちゃんがきたの」
詩が苦し紛れの言い訳を連ねた。
「はあ……では、音さまが男装なさるご予定で?」
くっ、すごい観察眼!
「あっ、はい。そうです」
詩に話を合わせて返事をしたが、和音はもう喉がカラカラだった。
「それはまた可愛い男性になりそうですね」
葉子さんはフフッと笑った。
今しがた出されたケーキを、今度は詩と向かい合わせに座って食べる。これが本当に美味しい。口の中で軽いクリームの甘さが、とろっと解けるようだ。一緒に出された乳酸菌飲料と抜群に相性がいい。
話の流れで、葉子さんはそのまま傍でニコニコしながら、ふたりの他愛ない会話を聞いていた。
下着までつける暇がなかったのが気がかりだったが、そこまでは、さすがに葉子さんも気づいていないはずだ。
せっかくピアノのある部屋に来たのだから、もう一度詩に音合わせをしてもらうつもりだった。だが、あまりにもあわてていたせいで、そのことをすっかり忘れてしまっていた。
結局、そのままの服で自宅に帰る。
「あら、お帰り。学校帰りなのに、きょうはそっちの服だったの?」
母がキッチンから出てきた。
「ああ、うん。ちょっとね」
曖昧に返事。
「でも和音、やっぱりそっちを着るときは、ちゃんとブラもつけた方がいいわよ」
「えっ、わかるの?」
「わかるわよ。肩ひももないし、シルエットもなんとなくねえ」
そう言われて、最近買った姿見の前に立つ。言われてみれば確かにそうだ。
そこまで考えて、ハッと気がついた。
きっと葉子さんも?




