握手券はいかが?
自室のピアノに手を置いたが、そのまま何も音を鳴らさずに、太ももに手を置いて詩はうつむいた。
わかってる。ただ気楽に弾けばいいだけよ。
だが、それができない自分に、詩は少しいらだっていた。
きょうは音ちゃんに八つ当たりまでしちゃってさ。あの日のカラオケなんて、私が行かなかったからふたりになっただけなのに。
詩はキュッと唇をかんだ。
*
「握手券?」
「そう。メイド服を着た人と握手する権利も販売するの」
学園祭を直前に控えてクラスミーティングが開かれている。握手券の発案者は詩織だった。
メイド服は男子3人のほかに、女子も数人自前のドレスなどを着るのだ。
「せっかくだからさ、ただお茶売って接客するだけじゃなくて、握手券も売ればうちのクラスでやるイベントの利益にできない?」
「じゃあ会場もつくるの?」
「それは……場所を作るのもめんどいから、例えば、コーヒーをテーブルに持っていったときに握手券を出してきた人には、その場で握手してあげるとかさ」
教室がざわついている。
「メイド係の人、それオッケー?」
進行役の委員長、竹本さんが言う。
「まあ、あたしはやってあげてもいいかな」
と、メイド係のひとりの希空が言うと、他の女子たちも賛同するようにうなずいた。
「ちょっと待て。もしかして俺らも?」
メイド男子のひとりが立ち上がる。
「もちろんじゃん」
「俺、ドレス着て男と握手するのか?」
「大丈夫だって。あのさ、男子メイドには、他校の可愛い女子が握手してって言ってくるんじゃないの?」
「そ、そうかな。そっか。まあ、女子ならしかたないな」
何を想像したのか、彼がニヤけて顔面を崩した。
詩が和音を見ると、口をポカンと開けている。
「ボ、ボクも?」
和音がコソッと詩に聞いてくるので、
「しゃべんなくてもいいから、ニコッと笑って握手したげればいいのよ」
わかった? 目で合図すると、和音はしぶしぶ頷いた。
「詩ちゃんさ、リハーサルとか、もっとやっとかなくていい? ボク、まだ自信がないんだけど」
その日の帰り道、和音がそう言う。
「でも、場所がないよね。うちでやるなら、着替えてこないと、ママは音ちゃんは女の子だと思ってるでしょ? でも、学校のピアノでやってると、音ちゃんが和音くんだってバレちゃうしさあ」
「うん、そっか」
「大丈夫よ、音ちゃんなら。自信を持って」
そう言うと、和音がやっと笑顔を見せた。
家の近くまで着いて、まだ離れたくなくて、いつものようにふたりでおしゃべりをしていたときだ。二人の隣にスーッと車が止まり、後ろの座席の窓が静かに開いた。
「あら、詩さん。お帰りなさい。そちらは……《新しい》お友だちかしら?」
詩の母だった。
「マ、ママ! あの、この方はご近所に住んでいらっしゃるクラスメイトで、その、たまたまきょうはここでご一緒したので、その、ちょっと明日の授業のことで立ち話を」
いつもはまだ母も帰ってくる時間ではない。虚をつかれた詩はしどろもどろで言い訳に必死となった。
「あの、どこかで……お会いしましたかしら」
そのとき詩の母がジッと和音を見て言った。
「ママ、この方はお呼びしたこともないので、ご存じないと……」
詩が慌てて打ち消すと、
「では勘違いですね。ママとパパはきょうは代議士の方と会食が入りましたので、お早めにお帰りなさいね」
こういうことは詩は慣れてる。夕食は葉子さんが準備をしてくれているはずだ。
「はい。もう帰るところでしたので、じゃあ、上杉さん、明日のことよろしくお願いしますね。では、ごきげんよう」
とても他人行儀な挨拶をして、和音も頭をペコリと下げ、ふたりは別れた。
母の車が見えなくなるのを待って、詩は急いで和音のところにかけ戻った。
「音ちゃん、チャンスよ。パパもママもいないからさ、ちょっとうちに遊びに来る?」
「いいけど……」
和音が少し言い淀んだ。
「どうしたの?」
「さっき、詩ちゃんのママの車の窓が閉まるとき、もう一度ボクを見て、クスッと笑ったような気がしたんだよね。まさかボクだって気づいたとか」
和音はそう言って、今、車が行った方向を見ている。
「まさか、それはないと思うけど。まあ、いいじゃん。ほら」
詩は和音の袖を引っ張った。
「あのお手伝いの葉子さんは?」
「離れに住んでるから、そっと私の部屋に行けば、勝手に入ったりはしないよ。ほら、早く」
今度は腕を取って先に歩き出した。




