障煙の魔女
「あの騎兵隊長はヴェストヴェスト戦からの帰還兵で、相当の手練れです。そして、騎兵隊の兵士たちも粒ぞろいです。万全の状態ならまだしも、いまの私では足止めすることしかできません」
ラピエルは剣を抜きながら、僕らにそう言った。
「あたいもいる。こんなときのために来た。リヒトさんとマルメッラーダは先に逃げて……あとからラピエルと一緒に追いつく」
アナベルはラピエルと並んで立った。ヴィヴィアンが結構強いと評していただけあって、頼もしい気迫である。
しかし、この人数を相手に二人だけで立ち回るのには限界がある。
「……今回の亡命作戦、見つかってしまった時点で失敗です。これ以上、殿下にご迷惑をおかけする訳には参りません。私が奴らを引き付けますから、お逃げ下さい」
ラピエルは剣を構えた。アナベルは拳を握った。
「迷惑だなんて……そんなことありません!」
自分の声が、必死の色を帯びているのに驚いた。「――殿下にご迷惑をおかけする訳には参りません」。その言葉は、僕にとっては呪詛も同然なのだ。
そうなのだ。死なれる方が、よほど迷惑なのだ。
「みんな揃って、生きて帰らなくてはなりません。一度オステンヴォルケで受け入れると言った以上、貴女は僕の肉親も同然です。貴女が幸福になってくれない限り、僕の幸福もあり得ません。ですから……何としてでも、どんな手段を用いても、この状況を切り抜けます」
僕はこの騎士爵をオステンヴォルケに亡命させると決めたのだ。
自分の命を削ってでも。他人の生命を奪ってでも。
「十秒後に、目をつぶって息を止めて下さい。良いと言うまでは、絶対に目を開けたり、息を吸い込んではいけません……十、九」
僕は三人にだけ聞こえるようにそう伝えると、二人を下がらせて、一歩前に出た。
騎兵隊の隊長は、それに応じるように馬を進めた。
「貴様は……その姿、どこかで」
八、七、六……。
僕はフードを脱いで、ヴェストヴェストからの帰還兵を見た。もしかすると、戦場ですれ違ったりしているかもしれない。お互い、あの場所で大切な仲間を殺されているかもしれない。
そう考えると、因果なものである。
「顔を見せたのは、もう隠す必要がなくなったからです」
五、四、三……。
彼らはもう、この墓場から帰ることはできない。これは、もうすでに戦争である。自分の命を守るために、あらゆる手段を用いて敵対者を排除する営為である。
この亡命作戦は極秘であるから、僕ら協力者の存在に関して、絶対に知られてはならないことになっている。
ラピエルやオステンヴォルケの人々の安全が脅かされかねない以上、気は進まないが、彼らにはこの世から退場して貰うより他ない。
「二、一……」
次の瞬間、墓場が地獄に変わる。
「……苦界障土」
地面から沸き上がった刺激臭のある無色の瘴気が、一瞬にして墓地を包む。
「息を吸うな! ……かはっ」
騎兵隊長の叫びは、一瞬遅かった。
墓地に続々と集まった騎馬兵達は、ひと呼吸するうちに全員が戦闘不能になった。
僕はすぐに毒ガスを無害な物質にまで分解し、後ろで目を瞑り息を止めている三人に戦闘が終わったことを伝えた。
「もう息をしても大丈夫だよ。だけど、もうしばらく目は開けない方がいい。失明はしないにせよ、視力が落ちるかもしれないから」
もはや酸素を取り込めなくなり、藻掻き苦しむ追っ手の兵たちは、口を金魚のようにパクパクさせ、声なき声を振り絞り「苦しい。殺してくれ」と懇願した。
彼らはもう助かることはない。このまま放っておいても苦しみが長く続くだけだ。僕は願いを聞き入れて、一人ずつ止めをさした。
そして戦闘の痕跡を完全に隠蔽するため、錬金術でその亡骸を物質に還元していく。
錬金術でも人間を造ることはできない。しかし人間を物質に分解することは容易である。
科学の目は、人間を単なる物質としてのみ理解する。しようと思えば、この物質を用いて石鹸や肥料を造ることだって可能であるのだ。
「き、貴様は……」
まだ喋ることができる人間がいたのか。掠れた声に振り返ると、騎兵隊長が這々の体で落とした剣を手を伸ばしていた。
「貴様だったのか、インウィクトスの光の皇子……」
息も絶え絶えになりながら、白濁していく目で僕を睨みつけていた。
ヴェストヴェスト要塞の戦いを生き残ったということは、僕の毒ガスに対する耐性があったか、もしくはそのときに耐性を獲得したか……いずれにせよ、この魔法をこの至近距離食らって、これだけ長く話すことができるとは。
「今の魔法、忘れもしない……ツァラトゥストラの戦士たちの、仲間の仇……障煙の魔女……ヴェストヴェストを地獄に変えた悪魔め……」
ああ、なんて忌まわしい、呪われた二つ名なのだろう。神をも殺す毒息を吐く、神話の中の化物。
「とんだ皮肉だな……無数の兵士から光を奪った障煙の魔女が、故国では光の皇子と呼ばれているとは」
今際の際にそんな言葉を投げかけて、騎兵隊長は苦しみながら、ただの一塊の物質に変わった。




