大気をパンに変える魔法
「お待たせしました。やはひこの桜の樹は、株分けした神樹の苗から育ったもののようです。どうやらフェロニアさんは、この樹の下に埋葬された後、神樹によって魂を救済され、女神に転生したようですね……ドライアドの少女が、不思議な宿命を背負うことになったものです」
ティターニアさんは葉桜の下、静かに目を閉じて幹に触れていたが、やがて顔を上げて、僕にそう語った。
「フェロニアさんは、私が改良した作物の種と、リヒトさんの本来の魔法とを併せれば、オステンヴォルケは今すぐにでも世界で最も稔り豊かな土地になると話していました……聞かせて頂けませんか? 貴方の魔法が、どのようなものなのか」
ティターニアさんは僕にそう問い掛けた。彼女には、自分がどういう人間なのか、正直に話す必要があると思った。
僕は重たい舌をゆっくりと持ち上げて、話を始めた。
「僕は、女神となったフェロニアさんの手によって、この世界に転生しました。その際、2つの魔法を獲得しました。一つは母親から受け継いだ“斥害閃”という、あらゆる生物・無生物が僕を傷付けることができなくなる魔法。そしてもう一つが、フェロニアさんから授かった土地を豊かにする魔法です」
「土地を豊かに……というのは? カーモスさんのように腐植土を作ることができる、というようなものでしょうか」
僕は静かに首を振った。
「僕の魔法は、空気中の窒素を自由に操るというものです」
「窒素というと、肥料の成分のことですよね? 鶏糞なんかに多く含まれている……空気中からこの物質を植物が肥料として利用可能な状態で取り出すことは、最も困難なことのひとつとされています。偉大な錬金術師にも、名持ちの魔法使いにも、そんなことをできる人間は聞いたことがありません」
ティターニアさんは、そんな魔法の存在は信じられない、といった様子であった。
「窒素分子(N2)は気体で、空気中の約五分の四を占めています。つまり、資源としては無尽蔵と言えます。しかしながら、仰る通り植物はそれを簡単に使うことができません。窒素を利用するためにはアンモニア(NH3)などの他の分子に変換し、気体の窒素を固定化しなくてはなりません」
このように空気中の窒素を液体として取り出す技術は、僕の魔法を除いてこの世界にはまだ存在しない。
「窒素の固定には生物によるもの……たとえば、レンゲソウやダイズなどのマメ科の植物の根に共生する微生物ーー精霊みたいなものですーーである根粒バクテリアがいます」
この特性のため、マメ科の植物は荒れた土地でも育つ。
「その他には、空中放電……落雷によるものがあります。空気中の窒素を取り出すことができるのは、自然界にはこの2つだけです」
ちなみに落雷が多いと窒素が固定されイネの生育が促されるから、稲妻という名が付いた。
そして、この世界には登場していない技術として、ハーバー・ボッシュ法という人工によるものがある。これは窒素ガス(N2)と水素ガス(H2)を鉄触媒存在下、温度400~600℃、圧力200~1000気圧という高温高圧の条件下で反応させアンモニア(NH3)を生成する方法である。
そのアンモニアを酸化させれば硝酸(HNO3)になる。硝酸とアンモニアを反応させれば硝酸アンモニウム(NH4NO3)となる。この硝安には一分子には、2個の窒素原子があるため、高効率の窒素肥料になる。
化学肥料の誕生以前は、単位面積あたりの農作物の量に限界があるため、農作物の量が人口増加に追いつかず、人類は常に貧困と飢餓に悩まされていた。しかしハーバー・ボッシュ法による化学肥料の誕生により、ヨーロッパや北アメリカでは人口爆発にも耐えうる生産量を確保することが可能となった。
ある研究者は「二〇世紀における最も重要な発明は、収益向上に欠かせない窒素を工業的に固定することに成功したハーバー・ボッシュ法による化学肥料だ」とまで評価している。
「大気をパンに変える魔法……なんて言われたこともありました。学会では、ほとんど伝説のように扱われています。しかしながら、この魔法は僕以外に扱うことはできません。そして僕も、この魔法を簡略化したり汎用化したりする気はありません。僕自身にとっても、この魔法は身の丈に合わない過ぎた能力ですから……」
ティターニアさんは黙ったまま僕を見詰めた。僕はその視線を受け止める事ができなくて、目を逸らした。
「……リヒトさんは、どうしてその魔法を使わないのですか?」
「もう使えないのです。使う資格もありません……この魔法を、僕は、土地を豊かにして人を飢えから救うという、本来の目的以外の用途に使ってしまったのです……その報いとでも言えば良いでしょうか。あるときから、魔法を使うたびに、魔力の絶対量と寿命が削られていくようになりました」
僕とティターニアさんとの間に、風が通り抜けた。
オステンヴォルケの五月の風は、まだ少し冷たい。




