第16話 車輪
朝の静寂が包むザイドリッツ邸の庭先で、己は剣の柄革を締め直していた。
昨夜は結局目を閉じて深呼吸をすることでやり過ごした。睡眠らしい睡眠は取れなかったが、此れにも幾らか慣れてきた。今の己にとっての睡眠は瞳を閉じて身体を休めることが睡眠に相当する。夜に運動をして無理くり気絶するように眠る日もあるが、他人様の屋敷で夜中に物音を立てることは憚られた。
しっとりと気持ちの良い汗をかく程度に朝の鍛錬が出来た。
「こんなところに居た!」
ひょっこりと現れたのはミリアルテ・フォン・ザイドリッツ嬢だった。
「部屋に居なかったから探したよ~」
「もう出るか? 荷物を取って来る──」
「ううん。午前中は街を案内しようと思って。午後に出発するつもり」
「……承知した」
午後に出るのでは大した距離を進めないとも思ったが、主の言うことだ。とやかく言う権利も無い。
彼女に連れられて、クラークの中心街へと向かう。煉瓦張りの緩やかな坂道を下ると、視界が一気に開けた。
クラークの街並みは己の知る八十年前の街の概念を鮮やかに塗り替えていく。
道幅は馬車が三台並んでも余りあるほど広く、地面丁寧な細工で平滑に整備されている。通り沿いには煉瓦造りの重厚な建造物が立ち並び、その一階には色鮮やかなガラス窓を掲げた店が隙間なく軒を連ねていた。
「どう? クラークもなかなか良い街でしょ?」
隣を歩くミリアルテ嬢が、胸を張って誇らしげに笑う。
「……驚いた。此れ程の賑わいと整備された街並みは、己の記憶にはない」
路地を行き交う人々は、皆身綺麗で表情にも何処か余裕がある。戦時中の合衆国の街特有の、家族の安否を心配する表情や侵攻を恐れる殺伐とした緊張感、陰鬱な気配は微塵も存在しない。
「あそこ見てごらん、イェゴール。あれがクラークの名物、セントラルタワー」
彼女が指さした先には中央広場に聳え立つ鋼鉄製の巨大な塔があった。塔の基部からは清涼な水が勢いよく吹き出し、広場の噴水を形作っている。動力を生み出しているのは絶え間なく微光を放つ魔石だろう。
「川から引き揚げているのか? 人力の井戸汲みも、大がかりな水車も見当たらないが」
「そう! 魔石を触媒に魔術師が交代で地下水脈から水を吸い上げているの。これを上下水道に流して水を循環させてるんだ。これのおかげでクラークでは病気の発生率が激減したんだよ。大学の文献にも載ってるくらい凄い発明なんだから」
ミリィは専門的な構造や、其れが齎した公衆衛生の変革について目を輝かせながら滑らかに語る。どうやら此のセントラルタワーを中心に街道と上下水道を魔術回路として設計して張り巡らせることで魔術の恩恵を効率的に享受する街造りを可能としたらしい。そして、其の設計を行ったのがミリィの祖父君なのだという。彼女が魔導具に関心を持つルーツというのはお爺様と街のことだったようだ。
学者としての知的探究心と故郷の発展を誇らしく思う少女としての可愛らしさが同居した横顔だった。己は彼女の解説に静かに耳を傾けながら、心の中で感嘆を重ねていた。
「次はあっち! 行きつけの工芸店があるの!」
彼女に袖を引かれるまま連れて来られたのは、凡そ自分には縁が無いと思っていた高級そうな雰囲気の雑貨店であった。
「これはこれはミリアルテ嬢。お久しゅうございます」
本当に行きつけらしい。一層身なりの整った瀟洒な女性が歓待する。
「新しい物は入ってる?」
「牙の削り出しの軍戯駒が入っております」
「今の一式が気に入ってるからいいかな~」
「同じくダイスも」
「運ゲーじゃん! 何か目新しい遊びは無いの?」
「『開拓時代』という盤上遊戯はいかがですか? お茶会や集まりで遊ばれ、俄かに人気を集めている物になります」
店主が奥の棚から恭しく取り出したのは、美しい装飾が施された木製の箱だった。蓋を開けると、六角形の木製タイルと、色とりどりの小さなコマ、そして数種類のカードが整然と並んでいる。
「何これ? 軍戯の駒とは結構違うね」
「ええ。こちらは陣地を奪い合うのではなく、ダイスの出目によって得た資源をもとに街道を伸ばし、都市を築いて得点を競う遊戯にございます。時には他のプレイヤーと資源を取引する交渉術も求められますよ」
「へぇ……! 戦闘じゃなくて、物流と交渉のゲームなんだ! 面白そう!」
ミリィは目を丸くし、物珍しそうに木製のコマを手に取った。
己はその光景を、一歩引いた場所から静かに見つめていた。
(……資源の分配と交渉による領域の拡大、か)
八十年前、自分達が血を流して争っていたのは、まさに資源や国土其の物だった。泥と硝煙の中で命を削った泥沼の奪い合いが今や此の平和な街では、少女たちが笑いながら盤上で楽しむ娯楽へと昇華されている。
虚しさは無かった。只、己たちが死に物狂いで守ろうとした戦いのない未来が、確かに此処にあるのだという不思議な充足感が胸の奥に静かに広がっていく。
「イェゴール! これ買いだと思わない!?」
「……嗚呼。ミリィが気に入ったのなら、良い買い物だと思う」
思いを馳せていた余り、空返事となってしまった。
「あぁ……でも大きいし重たいね。大学に持って帰るには邪魔かも」
旅に持って行くつもりだったらしい。既に軍戯一式という小さくはない荷がある今、更に大きな娯楽品を追加することは雇用主の望みとて首肯しかねる。
「旅には軍戯だけでも十分ではないか……?」
「んん~……それもそうかぁ。お父様達とやりたいけど……保留かな」
此れから少なくとも二ヶ月余の旅をして大学へ戻り、其処から更なる研究の旅へ出る。後何年で卒業するのかは知らないが、家へ落ち着いて帰るのは数年後だろうことは無学な己でも想像に容易かった。
「左様でございますか……」
肩を落とす店員に見送られ、店を後にする。
ミリィもミリィで後ろ髪を引かれる思いではあるらしく、何やらブツブツと言っていた。
「ミリィは後何年で卒業なんだ?」
「後三年だね。今三年生で六年制だから。単位はもう全部取ったから、後は自由に研究だけに取り組めるんだ~。フィールドワーク行き放題なの!」
「そうか」
「えぇ……あ! 凄さ分かってないでしょ! 自分で言うのも何だけど、結構凄い事なんだからね! 一、二年生の内は授業詰め込んで六年分の勉強済ませたんだよ?」
「成程。其れは大変そうだ」
「~~! 何っか、こう……感情が籠ってないんだよね~……まあ、愛想無いところが可愛いんだけど」
「可愛い?」
「そ。釣れない感じが、猫みたいで」
「猫……」
「それはさておき、イェゴールが行ってみたい所とかある? 美味しいお食事処が行きたいとか、武具が見たいとか」
「特段……」
特段無いというのが正直なところだった。街並みを見ているだけで新鮮で面白みはあるものの、欲しい物等は無いのでそう言いそうになったものの、彼女の表情が暗くなったように見えたので要望を捻り出す。
「否。其れなら、遠くから時々聞こえる太い笛のような音が昨日から気になっていたのだが」
「笛? あ、汽笛だね」
「キテキ──」
知らない言葉だった。
「魔導列車って聞いたことない? 最近帝国で開通した鉄道なんだけど」
「マドウレッシャ……耳覚えはある、気が……」
数秒思い出そうとするが、何処で聞いたかは出てこなかった。
「まだ帝国内でも数都市しか通ってない最先端の技術だよ。物資輸送とかで使われてるの。見に行ってみよっか!」
ミリィに手を引かれて歩くこと十分弱。旅路で目にした宿駅を何倍も大きくしたような駅舎があった。
「来てるかな……? あ! 丁度停まってるよ! タイミングが良かったね」
「何と……!」
鉱山で使われるトロリー──其れのあらゆる部分を金属で置き換えて巨大化したような代物があった。鋼鉄のレールに黒光りする巨大な車体、其れを支える車輪。最前の車両は煙突が生えており、もくもくと煙を吐いている。
「水を貯えてるところだね。それを炎魔術で加熱して、蒸気で動くの。道も整備して線路を通してるから馬車なんかよりずっと速いんだって」
「はぁ……!」
只々感嘆の声が漏れた。八十年の技術の進歩に驚かされるばかり。
「乗ってみたいものだな……」
「総統閣下はゆくゆくは大衆化したいと考えているみたいだよ」
「お父様!?」
己の呟きに声を掛けてきたのはヴァルダー氏だった。「やぁ」と気さくに手を振ってきたので会釈を返す。
「何でこんな所に?」
「まあまあ、良いじゃあないか。今は未だ貨物輸送が主だし、数もそう走っていないけれど、列車を増産して便を増やしたら定期運行することで人の移動も活発化させたいと上の方は考えているんだ。もう二、三年……を目標に五年以内には公共交通機関として定着する見込みだよ」
「ほぉ……其れは凄い」
「へぇ~……そんなことまで喋って大丈夫なの? お父様」
「流石に話したらいけないことの分別は付けているよ」
ミリィの指摘にヴァルダー氏は苦笑する。
「ところで、今日の夕方に新型の旅客車両の運用試験があってね。その座席を二つ押さえたんだが、乗らないかい? レガーティア行きの便だ。丁度今停まっているのがそれだね」
「え!」
「……!」
「乗りたい乗りたい乗りたい!! ふえぇ~お父様凄い! 大好き!!」
「クッハッハッハ!」
ガバリと娘に抱き着かれて心底嬉しそうに彼は笑う。
「権力は娘に愛されるために使わないとねぇ」
とても楽しそうに言う。言葉尻だけ捉えれば汚職役人だ。
昨夜は三男坊だの一介の役人だのと言っていたが、恐らく半分嘘だろう。それなりの立場と力がある上流階級の人間と見て然るべきだ。
「勿論、タダでとはいかない。運用試験の視察だからね。試乗レポートを出す必要がある。ザイドリッツの名義で。頼めるかな? ミリィ」
「任せて! レポートは得意なんですから」
六年分の授業を二年でこなしたという彼女の言葉は力強いものがあった。
「クフフ、頼んだよミリィ。僕は判子を押すのは好きだけれど、長々と文章を書くのは苦手だからね」
「あの……感謝致します。ザイドリッツ卿」
「クハ! よしておくれ。昨日あんなに話し込んだのに今更他人行儀な。それに気にすることはないよ。ミリィとイェゴール君が乗らなかったら、妻とマーサと三人分──無理を言って押さえるつもりだったからね。寧ろ我が儘を言わずに済んだくらいなものさ」
「左様ですか」
「えぇ~! 私の護衛なんですけど。お父様でも譲れないよ!」
「取らない取らない」
己の腕をグイと引くミリィをヴァルダー氏はクハハと笑って流した。
「――では、これが乗車票と試乗視察の記録用紙だ。夕方十七時の発車までに、駅の軍用受付へ出すといい」
ヴァルダー氏は鞄から羊皮紙の書状を取り出し、ミリィに手渡した。
「期待しているよ。……それと、イェゴール君」
ミリィが嬉々として書状を改めている間、ヴァルダー氏はふと己に視線を向けた。其の瞳の奥には、昨夜見せたような、男としての──そして親としての思慮深い色が宿っていた。
「……娘を、頼んだよ。帝都までの三千キルク、何かと騒がしい旅になるだろうが」
「御意。此の命に代えても、ミリアルテ様をお守り致します」
「フ、堅い堅い。けど――その言葉、心強いよ」
ヴァルダー氏は己の肩を一度だけ強く叩くと、其れ以上は何も言わず、満足そうに頷いて去っていった。その背中を見送りながら、己は昨夜の彼の言葉をもう一度胸の中で反芻していた。
◇◆◇◆
一度ザイドリッツ邸へと戻り、旅装を整える。
マーサさんが用意してくれた数日分の保存食等が詰まった革袋を受け取り、夕刻の駅へと戻った時には空は茜色と紫のグラデーションに染まり始めていた。
駅舎の警備は想定以上に厳重であった。当然と言えば当然か──最先端技術である魔導列車に部外者を近寄らせる訳にもいかないだろう。なぞと考えている自分が正に部外者なのだが。
軍装の受付にミリィが乗車票と学生証を見せれば、彼らの態度が急に恭しいものになる。此れまで衛門等を通過するのに彼女の学生証──帝国大学の威光と思っていたが、ザイドリッツの名でパスして来たのではないかと今になって思う。
何両もの貨物車を通り過ぎ、最後尾の客車を目指す中で一つ気になる点があった。
──帝国兵と思われる人間の数が予想以上に多い。魔導鉄道を運用するには此れ程の人員を要するのか。更に、皆一様に神経質な視線を走らせている。今回の新型旅客車両運用試験でミリアルテ以外にも高貴な身分の人が乗るためであろうか?
「見てイェゴール! 客車、凄く綺麗だよ!」
彼女に続いて乗り込む。
「……およそ旅の道中とは思えんな。一国の王侯貴族の客間のようだ」
(入ったことはないが……)
己は車内を見回す。他の乗客──見るからに品位の高そうな風体の人物が多かったため、あまりキョロキョロすることは憚られた。が、少し見ただけで豪奢な内装だと理解させられ目が潰れそうな錯覚を覚えた。
(客車には軍の者が詰めていない……重要な貨物なのか?)
軍人なぞという下働きと同じ空気は吸いたくないとでも言われたのだろうか? 客車内には帝国軍兵士は居なかった。が、下々の人間という意味では己は正しくそうだ。勝手な思い込みで居心地が悪くなる。
「真ん中に机があるから軍戯出来るね!」
「あ、嗚呼」
ミリィに言われ、視線を戻す。二人がけのソファーが対面する形で設置され、長机が設置されているのが自分たちの座席らしい。四人席を二人で使う形で、かなり広々とした印象を受ける。
促されるまま彼女と向かい合って腰を下ろし、しばらくすると「ゴーッ」という地鳴りのような低い駆動音が足底から伝わってきた。
やがて一際高く、腹に響く汽笛が鳴り響いた。
ガタリと心地良い振動と共に車体が滑り出す。
窓の外には見送りの群衆があり、其の中にザイドリッツ夫妻とマーサさんが小さく手を振っているのを見付ける。ミリィは窓に張り付くようにして、千切れんばかりに激しく手を振り返していた。
「お父様ー! お母様ー! マーサー! 行ってきまーす!」
街並みが少しずつ後方へと流れていく。煉瓦造りの建物、セントラルタワー、整備された大街道――其れらが夕闇に呑み込まれ、やがて広大な田舎風景へと切り替わっていった。
速度が上がっていく。馬車の比ではない。風を切り、鉄の路を滑るように突き進む其の力強さはまさに現代技術の結晶だった。
鉄の巨獣は夜の帳を下ろした大地を切り裂き、帝都レガーティアを目指して一直線に疾走する。
三千キルクの長き旅路──其の先に待ち受ける運命の車輪は既に回り始めていた。




