第13話 旅初日
薄暗い部屋の窓から冷たい朝の光が差し込んでいる。イニシラでの最後の夜が明けたのだ。
昨日は朝市でミリィと買い物をした後で、馬を借りる手続きを済ませた。其のまま町で正食を共にして一度別れ、荷造りを終えた頃にミリィが部屋へとやって来た。軍戯を指そうと盤一式を持って来たので一局付き合ったが惨敗であった。感想戦で悪手と好手を教えてもらったものの、彼女の大局観は恐ろしい程冴え渡っており、到底付いて行けそうになかった。あれで三手詰めの詰め軍戯に手こずっていたのはどういう理屈なのだろう? 体調でも悪かったのだろうか? 今になって不思議に思う。
夕刻には、また二人でアチバセにて夕餉を共にした。相変わらず料理は味気なかったが、此れで最後と思うと不思議と感慨深いものがあった。
夜は「明日の旅に備えて眠らねば」と考えれば考える程に目が冴えてしまい、結局は酒で喉を湿らせてから軍刀を手に外へ出た。小一時間ほど夜風の中で型稽古に汗を流し、ようやく少しだけ床に就くことができたのだった。
身支度を済ませた己は背嚢を担いで一階へと下りる。部屋のドアは開け離して出た。ミリィが気付くようにと。しかし余計な世話だった。
ギルド一階のホールで彼女は先に待っていた。
「おはよう。早いな」
「ううん。私も今来たところ」
「そうか」
彼女と簡単に挨拶を交わしてから、宿の鍵をカウンターで暇そうにしていたランディーさんへと返した。
「町を出るんだってな」
「はい。帝都へ行くことにしました」
「帝国大のその嬢ちゃんとだろ? 運が良いな」
「ええ。本当に。ゾティークには明るくないもので助かります」
「俺ァ助けるのはお前になると思うけど……そうだ! 南下するなら傭兵団に気を付けな。最近暴れ回ってるって噂だ。……何て言ったっけな? レッド……なんちゃらだ。ま、お前の出番の無い安全な旅路を願ってるよ」
「ありがとうございます。ランディーさんもお体にお気をつけて。此処では大変お世話になりました。エレノアさんにも……ギルドマスターや他の皆さんにもよろしくお伝えください」
「応よ!」
ニカっと歯を見せて笑った彼が拳を突き出してきたので、己の拳をコツとぶつけて返す。
「元気でな。そっちの嬢ちゃんも気を付けて帰れよ!」
「ありがとうございます!」
◇◆◇◆
借馬屋で馬を受け取った己たちは町を抜け、衛門を潜り、雪道を進んだ。
旅日和の澄み渡る快晴──とまではいかないものの、天候は上々。雪が降っていないだけでも十分な好条件と思える。
「国道を真っすぐ南下して行くよ」
「地図は頭に入れてきた」
己は──八十年以上前のことになるが、ゾティークに居た期間が短く、加えて殆どを帝国軍敷地内で過ごした身。帝国の道には明るくなかったが、其れでも今と当時で道が全然違っていることは簡単に理解出来た。
まずもって、道が整備されている。地図上に記された道が詳細だったというのもあるが、実際に町を出てみて分かるのは、道が道としてあるという感動であった。
己が知る「道」とは、兵士の足と馬車の車輪によって泥を力任せに踏み固めただけの代物だった。雨が降れば底なしの泥濘と化し、行軍の足を奪い、補給部隊の荷車を容赦なく呑み込む牙──其れが街道というものの記憶だ。
しかし、雪の降り積もる白銀の道を馬で進みながら、己は密かに舌を巻いていた。
「……足を取られないな」
「え? クフフ、そうでしょ? 数年前に帝国のインフラ事業で、北方の主要国道は全部砕石で下地を固め直したんだよ。雪が積もっても底抜けしないようにね」
並走するミリィが誇らしげに胸を張る。
注視して見れば、積もった雪の下には等間隔に敷き詰められた細かな石があり、路面の中央がわずかに高く傾斜しているのが分かった。雪解け水が中央に溜まらず、両脇の側溝へ流れる仕組みだ。
(……工兵の突貫工事ではない。長い歳月と膨大な金が掛かっている。民の往来のために作られた道だ)
一定距離おき、1キルクごとだと感ずる──に打ち込まれた道標は雪の中でも倒れることなく、次の都市までの距離を静かに示してくれるのだろう。
◇◆◇◆
正午を過ぎた頃、街道の脇に大きな木造の建物が見えてきた。二階建ての主屋と、その奥に併設された広い厩舎。屋根からは細く白い煙が立ち上り、漂ってくる香ばしい薪の匂いが、寒さに晒された鼻腔をくすぐる。
「あ、見えてきた! 最初の宿駅だね」
ミリィが馬上で嬉しそうに声を上げた。
「乗合馬車が馬を休めたり、旅人が温かいものを食べたり泊まったりする場所。イニシラを出て最初に休憩するならあそこって決めてたの」
成程、と己は頷く。
「お昼休憩にしよっか。この子たちにもちゃんとご飯あげないとだし」
「了解した」
水は一刻おき程でやっていたが、自分達も含め食事休憩は取っていなかったため、宿駅で一休みすることとなった。
馬を繋ぎ、宿へ入った。
「はぁ~! あったかい!」
暖炉のおかげで外とは比べ物にならない暖かさであった。
主屋の一階は飲食店風であり、長机が多く並んでいた。人は疎ら。イニシラのアチバセの方が余程繁盛していたと感じられる。
「馬に干し草をあげたいのと、このスープのセットを──」
彼女と目が合ったので、頷き返す。
「二つ下さい」
料理を選ぶのは得意ではない。軍に居た頃は出されるものを食べていたし、此方へ来てからはどうにも自分の選ぶ料理で美味しいと思えるものが引けずにいたので、選ぶことが億劫になりつつあった。故に彼女と同じものを選んだという次第。
「何事も無ければ、ここからもう半日くらい行った先にある集落で休む計画だよ」
地図を広げて彼女は言った。
「存外と宿もあるのだな。てっきり、野宿に次ぐ野宿かとばかり」
「えぇ~? そっちの方が良かった? 国道を外れたらそういうこともあるけど、基本はこんな感じだよ。今は」
クフフと笑って彼女は言う。
「そうか。平和な事は良い事だ」
運ばれてきたのは、根菜と大ぶりな豆がごろごろと入った熱々のスープと、表面の香ばしいパンのセットだった。
ひとくち口に運ぶと、じんわりとした温かさが口いっぱいに広がる。
「スープ美味しいね! パンもほら! 焼き加減ばっちり」
「嗚呼」
嘘を吐いた。美味しくはなかった。
パンは麦の香りが強く、口に運ぶまでは美味しそうだという期待を抱くも、実際に齧れば口の水分を奪うだけの存在に思えた。イニシラでの食事同様、ゾティーク北部の食事が口に合わないのかもしれない。
八十年前の──己にとっては一週間程前の事だが、部隊での冷えた飯の方が余程味を感じた。美味しいと思えた。技術や生活の代償に食文化は後退したのだろうか? しかし、ミリィは美味しいと言っている。ミリィが戦闘糧食を食べたら美味しさで気絶するんじゃないかと心配になった。
「イェゴール、食べるの早いね」
「え、嗚呼……。美味しかったから、という事で……」
「嘘」
「……」
ドキリと心臓が跳ねた。
「急いで食べるのが癖になってるだけでしょ? ここは戦場じゃないんだから。もっと落ち着いて食べなよね」
が、彼女の指摘は己の予測とは少し違うが、確かに的を射た意見であった。
「そう……だな」
身に沁みついたものかもしれない。五分飯とか言って、食堂へ入って糧食を受け取り食べ終えて出るまでが五分なんて事も幾度か経験した。
「一緒に食べる相手とペースを合わせるのもマナーだよ?」
「気を付けよう」
年下の少女にマナーを指導されてバツの悪い己は、外へ出て乾草と水を馬たちにやるのだった。
◇◆◇◆
午後の陽光は低く傾き、白銀の景色を淡い橙色に染めていく。風は次第に冷たさを増していったが、しっかりと固められた国道のおかげで馬の足取りは終始安定していた。
予定通り陽が落ち切る直前に、目指していた小さな集落へと滑り込む。家々の煙突から細く煙が上がり、路面を照らすランプの明かりが温かい。
集落に一軒だけある木造の小さな宿に入り、宿主と思われる好々爺に声をかけた。
「いらっしゃい。……あぁ、すまんねぇ。昼過ぎに行商人グループが入っちまって、今空いてるのは二人部屋が一室だけなんだよ」
宿主の言葉に、隣のミリィが「えっ」と小さく声を漏らした。
己としては屋根と壁があり、寒さを凌げるなら十二分。安全が保障されているのであれば野宿でもいっこうに構わないつもりでいた。
「厩舎で寝ても構いませんか?」
「え゛っ!」
己が伺うと、ミリィが太い声を発した。
「はぁ……? まぁ構わんけど……」
「いやいやいや! 何言ってるの!?」
「子女と相部屋は良くないかと思い、外で寝ようかと」
「良くなくない! 護衛なんだよ? イェゴール風邪ひいたらどうするの? 二人部屋ならベッド二つありますよね?」
「そりゃあ勿論」
「ほら! 馬鹿な事言わないの! それにもうイェゴールは私と一夜過ごしたんだから。恥ずかしいところも見られたし……」
其れを言われると否定はし難かったが、言い方が良くないと思えた。確かに己の部屋で彼女を一晩寝かせたし、嘔吐の世話もしたが、疚しいことはない。
「おやおや……」
だというのに、爺は勘違いをした視線を寄越した。
「80カッパに負けてやるから、さっさと行きなされ」
ミリィは銅貨を支払い、鍵を受け取るや否や己の腕を引くのだった。
翁の視線は生温かかった。
雇用主に引き摺られ、大人しく部屋へ。
こじんまりとした素朴で落ち着きのあるものだった。
「はぁ~……冷えるね。あ、灯り灯り……インヴォーク・ファイア」
ミリィが使いさしの蠟燭が刺さる燭台を発見し、火を灯した。
木造の宿故か、各部屋であまり大きな火を焚くことは危険視されてか暖炉等の暖房器具は無かった。代わりとして、二台少し間隔を空けて並ぶベッドの毛布や掛布団は厚手の物が用意されていた。
さっさと寝ろといったところか。
荷物を置いて、部屋を散策──といっても、一室区切られて浴室があるのを確認したのみ。余りにも簡素な部屋だ。とは言え、風呂が無いよりは有る方がありがたいのは言うまでもない。
「冷えるなら風呂を沸かすか?」
「バスタブだけのタイプだよ? 火はどうするの?」
浴槽の下に火をくべて湯を沸かせる入浴を考えられた型と、水浴びの受け皿としての浴槽のみの型とがあるが、此処のは後者であった。
「何のための魔術か」
掌を浴槽に翳して魔力を練り上げる。炎と水を掛け合わせる──調整してやれば適温のお湯が出来上がる。
ドドドドドと小さな滝となって湯を張る。
「あのさ、イェゴール。道中でも気になってたけど、貴方のそれってインヴォークメソッドじゃ……」
「ないな。試しはしたものの、使えなんだ」
「じゃあ完全な無詠唱……。詠唱破棄も勿論……?」
「物によるが一通りは扱えるつもりだ」
「はぁああ……」
彼女は目を丸くした。インヴォークメソッドは簡単な魔術を誰でも扱えるように整備した発明ではあるのだろうが、一般人は其処から先の魔術を身に付ける必要がなくなる都合、体系的な魔法技術の発展は止まっているように感じられた。
「やっぱり昔の人は凄いねぇ……。や、こればっかりはイェゴールがスゴイのか」
「そう言ってくれると嬉しくはあるな。そら、溜まったぞ。先に入ってくれ」
「なっ……! んッんん! の、覗いちゃダメだからね!」
「嗚呼。部屋を出ておくから、着替えが済んだら呼んでくれ」
そう言い残して、部屋を出る。
退屈しのぎにドアの前で「腕立て伏せ、屈み跳躍、上体起こし」のローテーションを繰り返した。
「お、お待たせ~……」
十六セット目を終えた頃に部屋のドアが遠慮がちに開けられた。
「って! えぇ~! 何でそんな汗だくなのッ!?」
「少々……トレー、ニングを……」
息を上げている己を見て、彼女は早く汗を流せと叱った。臭かったのだろう。
灯りの無い風呂に入っていると、自分のものでない長い髪の毛が浮いているのに気付く。そして、ふと考える。
綺麗な湯を先に使ってもらいたいと考えて彼女に先に入ってもらったが、彼女の残り湯に己が浸かるという行為はミリィからして好ましくない行為なのではないかと。
否、己が嫌なのかと言うと嫌ではない。寧ろ、可愛らしいうら若き娘の後の風呂かと思うと滾りさえ覚える。否、滾り……は、起こらない。己の愚息はうんともすんとも訴えて来ない。頭では状況に興奮を抱きつつも、本能的には此の状況は好ましくないのやもしれない。罪悪感が勝つのか、雇用主相手だぞという理性が勝つのか、いきり立たんという気概が感じられなかった。
ミリアルテ・ザイドリッツが己にとって女性として魅力的ではないのか──? という線も一考する。しかし其れもまた否。己は彼女を少なからず好ましく思っている。自分の常識外れな言い分を否定せず受け入れてくれた。剰え己の合衆国往きの手助けまでしてくれると言い出した。やや距離感が近く思えはするが、現代では普通なのかもしれない。そんな彼女を邪険にも出来ない。好悪で言えば当然ながら好きではある。
だというのに、脳裏に浮かぶのは──。
「此れ以上考えるのは止そう」
己は風呂から上がるのだった。
◇◆◇◆
イェゴールが風呂に入っている間、ミリィは部屋に残っていた。淑女の湯浴みで男が席を外すのは兎も角、その逆は不要だと彼が言うからだ。
しかし、それはそれ。紳士の湯浴み中に不埒な真似をする女が居ないとは言ってはいない。イェゴールは十代女子の性欲を甘く見ていた。一般的な十代男子の性欲が盛んであるように、彼女らも興味関心に溢れているのだ。
ミリアルテはイェゴールが脱いで掛けていた外套をそっと拝借する。ズシリと重たい。特殊な繊維で織られているのだろう宮廷魔導師が着用する一点物のような雰囲気を感じる。これが塵界魔京戦役に参加した彼の……という歴史的価値を普段なら考え、興味を強く惹かれるところだが、今は違った。
ミリィはそれに顔を寄せて、深呼吸をした。土や鉄めいた臭いに混じり、何とも言い難い男の匂いがした。初めて嗅ぐが、これこそ戦う男の匂いだと少女は感じた。いつだか書物で読んだことがある。良い匂いのする人間とは身体の相性も良い──と。嘘か誠か、何を根拠に書いているのかは覚えていない。だが、今は真実に思える。
──ザパ。
水音を察知し、慌ててミリアルテはコートを元に戻す。
そうこうしていれば、インナー姿の彼がやって来た。
「は、早かったね~」
イェゴールは入って数分で上がってきた。ホカホカと体から湯気が上がってはいることからも、浸からなかったということはなさそうだが、ミリィは少し心配になる。と、同時に邪な気持ちが湧いた。
「そうだろうか?」
「脚とか揉んで長湯した方が疲れが取れるんじゃないカナ~?」
イェゴールの心配とは裏腹に、彼女は自分の後の湯だということを気にした様子はなかった。杞憂だったらしい。下衆の勘繰りだったと彼は内心で深く反省をする。
彼女としては、それどころではないだけだったのだが。
「ミリィは疲れていないか?」
申し訳なさ半分、素直な心配半分から、イェゴールはマスターの体調を気遣う。
「まだまだ平気。初日だしね」
ムン、と拳を握って元気だとアピールする。
「ご飯食べて早いとこ寝よっか」
「嗚呼」
冷たい保存食を食べ、寝支度をし、ミリアルテはすぐに眠った。
口では元気だと言っていたが、長時間馬に跨っているのも体幹を要する。しっかりと休んでほしいとイェゴールは思った。
静かに一定の寝息を立てる彼女の寝顔を不躾だとは思いながらも彼は眺めた。
(長い睫毛だな……)
目元の次に唇へ視線が奪われた。半開きの口がどうにも愛おしく思える。数年前──より正確には九十年近く前の記憶にはなるが、妹の寝顔もこんなだったように思う。
(アンナ……。ドミトリー……。元気──もう死んでいるだろうな。せめて、幸せな人生を送ってくれたろうか……?)
生きていれば九十前後だろう妹と弟──一般的な寿命が六十歳前後であることを思えば無理からぬ話だ。寂しくは思えど、悲しみは湧いてこないイェゴールであった。
(己が軍へ行き、金の大半を家へ送っていたはずだが、作戦行動中行方不明となった後はどう扱われたのだろうか? きちんと二人が生活できるだけの金は渡っていたろうか?)
そんな不安が今になって押し寄せて来る。
瞳を閉じて思い描かれるは、餓え瘦せさらばえた幼い二人。
どうして今まで思いも付かなかったのだろう? どうして思い出してやらなかったのだろう? 不安に押し潰されそうになり、彼の呼吸はどんどんと浅くなる。
──そして、気が付けば朝だった。
イェゴールは憂いの渦に飲み込まれて気絶したのだ。因果の善し悪しに目を瞑れば、一番睡眠時間は長く取れた形と相成る。睡眠の質が良かったかどうかは……言うまでもないだろう。
ミリィを起こさぬ様にそっとベッドから這い出て、窓を開ける。朝の冷たい風が部屋へ入り込んだ。
「んんぅ……」
少女が布団を被り直し、寝返りを打つ。起こしてしまったかと思われたが、彼女は未だ目覚めなかった。
イェゴールはほっと胸を撫で下ろし、水を含んでうがいをした。口が乾いている感じがあったので、入念に。
「んん……ふぁ……ぁ」
水の音と冷気で察したのか、布団の中から小さな欠伸が漏れた。
振り返ると、ミリィが髪を小さく跳ねさせたまま、目をごしごしと擦りながら起き上がるところだった。
「おはよ……イェゴール……ん、窓開けたの? 寒っ……!」
「嗚呼、おはよう。起き抜けの空気を入れ替えていたところだ。済まない、寒かったか」
「ううん、目が覚めて丁度いいけど……」
ミリィはベッドから這い出ると、じっとイェゴールの顔を覗き込んだ。その澄んだ瞳に見つめられ、彼は思わず身構えてしまう。
「……イェゴール、ちゃんと眠れた? 何だか……顔色が良くないよ? クマは……普段通りだけど、何と言うか、すごく疲れた顔してる」
「……否。問題ない」
「ほんと……?」
眠気眼ながら、何かを見透かすようなミリィの視線がイェゴールには痛かった。
イェゴールは先に着替えを済ませて部屋を出た。淑女の身支度は時間がかかる。同席して待つ訳にもいかず、ドアの前で待っていた。しかし、彼が想定するよりはずっと早くミリィは部屋から出てきた。
「お待たせ! 朝ご飯食べたら出発だね!」
「嗚呼。……失礼」
彼は、言葉足らずながら断りを一応入れてから、彼女の髪をそっと撫ぜた。
「え!? ふぇっ──!?」
不意の出来事にミリィは目を白黒させながらも、されるがまま撫でられる。
「直らんな……。少し濡らしますよ」
そう言って、男は指先に小さな水滴を纏わせた後に、再びそっと髪へ指を通す。その後、掌から温風を発生させて乾かし整えてやる。
「出来ましたよ。マイマスター」
冗談めかして言い、苦笑する。
「なッ──はぁっ……!」
(夢か?)
数秒固まった後、突然ミリィは自身の頬を両手で叩いた。
「痛い……」
突飛な行動の後に、呆けた声で彼女は言った。
「其れはそうだ」
呆れた様に男が首肯する。
「夢じゃない……」
「嗚呼」
「ノワアアアア!!!」
ミリアルテ・ザイドリッツは絶叫を上げて宿のカウンターへと駆けこんだ。
◇◆◇◆
「……」
「……」
ホールで宿が出してくれた干し肉とパンとスープ、それと薄い茶の朝食を摂る。雇用主──ミリィとは目が合わない。目を合わせてもらえない。彼女は頬を赤くしながら、「機嫌が良くないです」と訴えているご様子。
無言の朝食だった。
だが、気まずいだとかは特に無く、己は何も考えず無意識にパンを丸呑みにして二分で平らげそうになったが、向かいでスープを少しずつ口へ運ぶ彼女の姿が視界に入り、ぴたりと手を止めた。
(……ペースを合わせる、だったな)
昨日彼女に言われたマナーを思い出し、己は噛み終えたパンを飲み込むのを少し遅らせ、お茶を一口含んだ。
其の不自然な動きに気付いたのか、ミリィはパンを手にしたままパチパチと瞬きをし、やがて噴き出すように笑った。
「クフフ、すっごくぎこちない!」
「……意識しろと言ったのは貴女だろう」
「クハハハハごめんごめん! でも、ちゃんと覚えててくれたんだね。ありがとう」
怒っている様子ではなかった。機嫌が直ったのなら其れで良い。
「今日はケイン郡までは行っておこうかなと思ってる」
「此処からだと50キルクと少しか」
現実的な距離だと思えた。
そして、借馬屋があれば彼らは交代するのが無難かとも考える。
「うん。食べたら出発するよー!」
其の言葉を受けて食料を一気に流し込んだら、ミリィに頭を叩かれた。早く食えという意味ではなかったらしい。




