第一章 今までどおり 五
五
終業式の日、教室の机はいつもよりきれいだった。
ロッカーの中身をすべて持ち帰り、掲示物も外されている。壁に残った画鋲の跡だけが、二年生の教室だった名残のように見えた。
体育館で式を終え、最後のホームルームが始まる。
担任は春休みの過ごし方と受験について長く話した。三年生になれば時間は思っているより早く過ぎる。進路について家族と話しておくように。毎年聞かされるような言葉なのに、今年は少しだけ重かった。
卒業まで、あと一年。
その一年が終われば、今のように葉子と毎日会うことはなくなるかもしれない。
私は地元の大学を考えている。葉子は、美術系へ進みたいと言っていた。県外の学校の資料を見ていたこともある。
離れる可能性について、今まで真剣に考えたことがなかった。
葉子は私の斜め前の席に座っている。
窓から差す春の光が、机の上の通知表を照らしていた。
告白される前なら、春休みに入ることをただ喜んでいたと思う。朝早く起きなくていい。練習以外の予定も自由になる。葉子とは連絡を取れば、いつでも会える。
今は、会うために連絡をすることさえ、少し違って感じられる。
ホームルームが終わると、教室のあちこちで写真を撮る声が上がった。
美咲が私と葉子を呼び、四人で窓際へ集まる。真帆が携帯電話を持ち、画面へ全員を収めた。
「桜、もっと葉子のほう寄って」
言われるまま、葉子の隣へ寄る。
肩が触れた。
葉子の身体が一瞬だけ固くなる。
それでも離れなかった。
撮影音が鳴る。
画面のなかで、私と葉子は以前と変わらない顔で笑っていた。
「三年も四人一緒だったらいいね」
美咲が言った。
「無理じゃない? 選択科目も違うし」
真帆は現実的だった。
葉子は美術系の科目を選び、私は理系でも文系でもない中途半端な選択をしている。二年間同じだったことのほうが、偶然なのかもしれない。
「桜と葉子は離れたほうがいいかも」
真帆が続けた。
「どうして?」
「二人とも、相手がいるとそれで満足するから。最後の一年くらい別々の友達作れば?」
冗談めいた言い方だった。
葉子は笑った。
「それもいいかもね」
私も笑うべきだった。
でも、うまくできなかった。
告白の返事を考えるためには、もっと一緒にいたいと言った。
三年生で別のクラスになったら、その「もっと」は今までより難しくなる。
葉子が新しい友達を作る。私の知らない話をして、私の知らない顔で笑う。そこまで考えたところで、胸の奥が少しざらついた。
まだ何も決まっていないのに。
教室を出る前、葉子は自分の机へ手を置いた。
「二年間、お世話になりました」
机へ向かって頭を下げる。
「何してるの」
「桜もやったほうがいいよ」
「やらない」
「机、悲しむよ」
「葉子の机じゃないし、来年また誰か使うでしょ」
「冷たい」
葉子は笑いながら鞄を持った。
昇降口を出ると、空はよく晴れていた。
昨日までの雨が嘘のようだった。校庭の端には雪がわずかに残っているが、陽の当たる場所では土が乾き始めている。
駅までの道を、二人で歩く。
終業式の日には部活がない。鞄には春休みの課題と、持ち帰った教科書が詰まっている。
「春休み、いつ空いてる?」
葉子が聞いた。
「部活の予定出てるから、あとで送る。葉子は?」
「美術部は最初の一週間だけ。あとは家で描く」
「じゃあ、どこか行く?」
言ってから、これは誘ってよいのだろうかと思った。
葉子も少し驚いた顔をした。
「いいの?」
「何が?」
「二人で出かけても」
「今までも出かけてたでしょ」
「そうだけど」
葉子は前を向いた。
「今は、私にとってデートになるから」
胸が跳ねた。
ただ買い物へ行くだけでも、葉子にとってはデートになる。
私はそこまで考えていなかった。
「桜が嫌なら、みんなで行こう」
「嫌じゃない」
また、すぐに答えてしまった。
葉子がこちらを見る。
「嫌じゃないけど、デートになるかは分からない」
「うん」
「それでもいい?」
「いいよ」
葉子は笑った。
「桜にとっては、今までどおりの休日でいい」
その言葉に安心した。
同時に、どこか引っかかった。
葉子にとってはデートで、私にとっては今までどおり。
同じ場所を歩いても、二人には違う時間が流れる。
それで本当に葉子は平気なのだろうか。
「葉子」
「なに?」
「デートって、何するの」
葉子は少し考えた。
「私も知らない」
「知らないの?」
「桜と出かけることしか考えてなかったから」
あまりに素直に言われ、今度は私が前を向く番だった。
顔が熱くなった気がする。
葉子は何も言わず、私の隣を歩いている。
ホームへ上がる階段の手前で、風が吹いた。葉子の髪が頬へかかる。
今度は迷わず、私はその髪を指で払った。
葉子が動きを止める。
「何?」
「髪、ついてたから」
「朝は取ってくれなかったのに」
「朝は……まだ慣れてなかった」
「今は慣れた?」
「少しだけ」
葉子は耳の横へ触れた。
私の指が触れた場所を確かめるような仕草だった。
電車がホームへ入ってくる。
二人で同じ扉から乗り、いつもの席へ並んで座る。葉子は窓側、私は通路側。二年間で何度も繰り返した位置だった。
電車が動き始めると、葉子は窓へ額を寄せた。
春休みが終われば、三年生になる。
クラスはまだ分からない。
進路も、葉子への答えも分からない。
それでも私は、葉子との休日を楽しみにしていた。
その気持ちにどんな名前がつくのかは、まだ考えないことにした。




