第一章 今までどおり 四
四
放課後、グラウンドはまだ使えなかった。
水たまりの残るトラックを避け、陸上部は校舎の階段で練習することになった。一階から四階までを駆け上がり、歩いて下りる。それを何度も繰り返す。
外を走るより距離は短いのに、太腿へ重い疲労が溜まる。呼吸の音が廊下へ反響し、何本目なのか分からなくなっていく。
「桜、今日は遅い」
踊り場で時計を持つ紗季先輩が言った。
「すみません」
「体調悪い?」
「大丈夫です」
身体は動いていた。
ただ、気持ちが集中していない。
階段を上るたび、昼休みのことが浮かぶ。朝の電車で触れた肩。私の机へ身を寄せた葉子。何も言わずに弁当へ入れられた唐揚げ。
全部、昨日までと同じだった。
同じだったからこそ、そのたびに考えてしまう。
葉子はどんな気持ちで、今までそれをしていたのか。
次の一本が始まる。
考えることをやめ、階段を駆け上がった。床を蹴り、腕を振る。息が切れるほど速く動けば、余計なことは頭から消える。
四階へ着くころには呼吸が苦しくなり、膝へ手をついた。
「今のはよかった」
紗季先輩の声がする。
顔を上げると、先輩は時計を確認していた。
「何かあった?」
「何もないです」
「ふうん」
紗季先輩はそれ以上聞かなかった。
練習が終わり、部室で制服へ着替える。
携帯電話を見ると、葉子から連絡が来ていた。
――美術、終わった。まだかかりそう?
その文章を読み、少し迷った。
一緒に帰りたい。
でも、それは葉子が好きだからなのか。二年間、一緒に帰ることが習慣になっているだけなのか。
答えの出ないことを考えているうちに、新しい通知が表示された。
――疲れてたら先に帰るよ。
私はすぐに返信を打った。
――待ってて。今終わった。
送信してから急いで鞄へ制服を詰めた。
昇降口へ下りると、葉子は校舎の入口にいた。
窓際の壁へ寄りかかり、スケッチブックを読んでいる。私に気づくと、すぐ閉じた。
「お疲れ」
「待たせた?」
「十分くらい」
「ごめん」
「いつもより早いよ」
外へ出ると、夕方の空には雲が残っていた。舗装された道の端を水が流れている。
駅へ向かって並んで歩く。
練習で疲れた脚が重い。葉子はそれに気づいたらしく、いつもより少しゆっくり歩いた。
「今日、練習どうだった?」
「階段。明日は脚が動かないかも」
「駅の階段、背負おうか」
「葉子が?」
「鞄を」
「私じゃないんだ」
「桜は無理」
葉子が笑った。
その笑顔に、私もつられて笑う。
やはり、葉子との会話は楽だった。
言葉を選ばなくてもいい。返事を考えているあいだに話題が変わっても、黙ったまま歩いても構わない。
恋人になったら、これは変わるのだろうか。
手をつないだり、抱きしめたりするのだろうか。
キスもするのだろうか。
そこまで考えた瞬間、自分の足に引っかかりそうになった。
「危ない」
葉子が腕をつかんだ。
転ぶほどではなかった。けれど葉子の手はすぐには離れない。
制服の上からでも、指の力が分かる。
私が立ち止まると、葉子は慌てたように手を離した。
「ごめん」
「何で謝るの」
「触ったから」
その言葉に、胸が詰まった。
「転びそうだったんだから、普通でしょ」
「うん」
「そんなことで謝らないで」
葉子は黙って頷いた。
それから、少しだけ距離を空けて歩き始める。
私はその隙間を見た。
肩が触れるほど近くを歩いていたのに、今は腕一本分ほど離れている。
葉子は、私のためにそうしている。
告白したことで、私が嫌がるかもしれないと思っている。
「葉子」
「なに」
「告白したこと、後悔してる?」
気づけば、聞いていた。
葉子は足を止めた。
駅へ向かう道の途中。雨上がりの川から、冷たい風が上がってくる。
「してるよ」
思っていなかった答えだった。
「そうなの?」
「桜を困らせたから。言わなければ、こんなふうに変に考えさせなかった」
葉子は前を向いたまま続ける。
「でも、好きになったことは後悔してない」
その言葉は静かだった。
私の答えを求めるような響きも、自分を納得させるような強さもない。ただ、自分の気持ちをそのまま置くように聞こえた。
「桜に知られたことが怖いだけ」
「私は、葉子を嫌いにならないよ」
「分かってる」
「だったら」
「分かってても、怖いものは怖いよ」
葉子は少し笑った。
私は、自分が葉子のことを何でも分かっているつもりだったと気づく。
葉子が苦手な食べ物も、朝に機嫌が悪いことも、美術の先生へ褒められた日は帰り道で少し早口になることも知っている。
でも、葉子が何を怖がり、どんな気持ちで私の隣にいたのかは知らなかった。
「いつから?」
私は聞いた。
「何が?」
「私のこと、そういう意味で好きになったの」
葉子はすぐに答えなかった。
二人で再び歩き始める。水たまりを避け、橋の手前まで来たところで、ようやく口を開いた。
「はっきり分かったのは、去年の冬」
「きっかけは?」
「桜が、告白されたらどうするって話したとき」
覚えていなかった。
葉子はそのことを責めるでもなく、少し笑う。
「駅で電車を待ってたとき。真帆が別のクラスの子に告白されたって聞いて、そういう話になった」
「あったような気もする」
「桜は、好きな相手なら付き合うかもしれないって言った」
「普通じゃない?」
「普通だよ。でも、桜が誰かと付き合って、私と帰らなくなるのを考えたら、すごく嫌だった」
橋の下を、昨夜の雨で増えた水が流れている。
「それまでも、桜がほかの子と帰ると面白くなかったし、大会を見に行けないと悔しかった。でも、幼なじみなら普通なのかなって思ってた」
「違った?」
「たぶん。だって、桜と手をつなぎたいとか、キスしたいとか思うのは、友達としてじゃないでしょ」
葉子は平静に言おうとしたのだと思う。
けれど、最後のほうは声が小さかった。
私は立ち止まった。
葉子も数歩先で止まり、こちらを振り返る。
キス。
さっき、自分でも考えた言葉だった。
葉子は私とキスをしたいと思っている。
その事実を本人の口から聞くと、胸の奥が大きく鳴った。
「ごめん。やっぱり今の忘れて」
葉子は顔を逸らした。
「忘れないよ」
「桜」
「葉子が話してくれたことだから」
「そういう真面目な顔で言わないで。余計恥ずかしい」
葉子はコートの襟へ口元を埋めた。
耳が赤くなっている。
二年間、毎日のように一緒にいたのに、こんな葉子を見たことはなかった。
知らない葉子を見つけた。
そのことに戸惑いながら、ほんの少し嬉しいと思っている自分もいた。




