第八章 眠れない距離
夏祭りの夜から、葉子の手を見ることが増えた。
教科書のページをめくる指。弁当箱を包む指。鉛筆を持ったまま、考えるように机を軽く叩く指。
今まで見たことがなかったわけではない。
小学生のころには手をつないで登校したし、中学では互いの手袋を片方ずつ交換したこともある。葉子が転びそうになれば腕をつかみ、寒い日には私の上着のポケットへ勝手に手を入れてきた。
あのころは、触れることに意味などなかった。
いまは指先が重なっただけで、その前後まで思い出してしまう。
石段の固さ。ラムネの瓶。夜空に花火が開く音。
葉子の小指が、私の小指へ重なった瞬間。
翌週の昼休み、階段の踊り場で弁当を食べながら、私はまた葉子の手を見ていた。
「卵焼き、欲しいの?」
葉子が箸を止める。
「違う」
「さっきから見てるから」
「卵焼きじゃなくて、手を見てた」
正直に答えると、葉子の指がぴたりと止まった。
もう少し考えてから言えばよかった。
「どうして?」
「どうしてだろう」
「私に訊かないで」
葉子は箸を動かし、卵焼きを弁当箱の隅へ寄せる。
「いらないなら食べるよ」
「最初から葉子のだから、好きにして」
「桜が唐揚げと交換したそうに見えたの」
「それは少し思ってた」
「じゃあ、やっぱり卵焼きを見てたんじゃない」
「手も見てた」
「どっちかにして」
葉子が笑った。
私は弁当箱の蓋を二人のあいだへ置き、唐揚げを一つ載せる。葉子もそこへ卵焼きを置いた。
「物々交換みたい」
「桜が唐揚げを通貨にするからでしょ」
「卵焼き一個なら、妥当な相場だと思う」
「作ったのはお母さんだけどね」
葉子が蓋をこちらへ押した。
受け取ろうとしたとき、縁にかけた指先が触れる。
どちらも、すぐには動かなかった。
ほんの一瞬なのに、花火の夜と同じ場所へ触れられたような気がした。
先に指を引いたのは葉子だった。
「冷めるよ」
「卵焼きは最初から冷めてるでしょ」
「そういうことじゃないの」
葉子は唐揚げを自分の弁当箱へ移した。横を向いてしまったので表情までは見えない。それでも、耳のあたりが少し赤くなっている。
祭りの夜のことを、私たちは話していない。
手をつないだとも言えないほど短く、指を絡めただけだった。あれが何だったのか訊かれても、今の私には答えられない。
ただ、間違いだったとは思っていなかった。
もう一度できるかと考えると緊張する。
でも、二度としたくないかと訊かれれば、それは違った。
「桜、今度の土曜日、空いてる?」
弁当箱を閉じながら、葉子が訊いた。
「午前は練習。午後なら」
「うちに来ない?」
「絵?」
「うん。公募展に出すほう、仕上げたいから」
私を描いた絵だと、すぐに分かった。
「モデルが必要?」
「いなくても描けるけど、いたほうがいい」
「じゃあ行く」
即答すると、葉子は少しだけ意外そうな顔をした。
「何時まで練習?」
「一時くらい」
「終わったら連絡して。お昼、何か用意する」
「葉子が作るの?」
「お母さんが」
「安心した」
「やっぱり来なくていいよ」
「冗談。葉子の料理も、一度くらい食べてみたい」
「食べたあとも走れる保証はしないけど」
「毒を入れる前提なの?」
「火が通ってるか分からないだけ」
「毒より怖いね」
葉子は不器用なことを隠そうともしなかった。
私たちは小さいころから、互いの家を行き来している。葉子の母親には何度も夕飯を食べさせてもらったし、葉子も私の家の冷蔵庫を勝手に開ける。
ただ、最後に泊まったのは中学一年の夏だった。
怖い映画を見た葉子が眠れなくなり、私の布団へ入ってきた。狭いと言って押し返したのに、朝には二人とも同じ枕を使っていた。
今なら、そんなことはできない。
そう思った途端、頼まれてもいない宿泊のことまで考えてしまった。
*
土曜日の練習は、予定より長引いた。
午前中から気温が上がり、トラックの上には陽炎が揺れている。秋の大会へ向けた練習は始まっていたものの、夏の疲れが残っている部員も多い。
最後の一本を走り終えたとき、時計は一時半を過ぎていた。
葉子へ連絡すると、すぐに返事が来る。
急がなくていいよ。
その下に、もう一通続いた。
でもお腹すいた。
私は笑いながら、今から行く、と返した。
葉子の家へ着いたのは二時すぎだった。
玄関を開けた葉子は、薄い灰色のTシャツに短いパンツを穿いている。家で何度も見てきた格好なのに、祭りの日と同じように、制服ではないことを意識してしまう。
「遅い」
「急がなくていいって言ったでしょ」
「言ったけど、お腹はすくの」
「先に食べればよかったのに」
「桜に見せたいものがあったから待ってた」
「料理?」
「違う。期待しないで」
居間のテーブルには、冷やし中華が二皿並んでいた。
葉子の母親は仕事で出かけているらしい。昼食だけ作り、冷蔵庫へ入れておいてくれたという。
私は手を洗い、葉子の向かいへ座った。
「見せたいものって、絵?」
「食べてから」
「気になる」
「麺がのびるよ」
「もう冷たいから、少しくらい分からなくない?」
「分かるよ。桜が何でも勢いで食べるから気づかないだけ」
「走ったあとなんだから仕方ないでしょ」
話しながら食べるうちに、皿はすぐ空になった。
葉子は最後まで残していたトマトを、小皿へ避けている。
「好き嫌いはよくないよ」
「桜、トマト好きでしょ」
「好きだけど、それとこれとは別」
「食べる?」
「仕方ないなあ」
「誰も頼んでないけど」
「その割にこっちへ寄せてるよね」
小皿ごと受け取ると、葉子は満足そうに麦茶を飲んだ。
「友達同士、助け合わないと」
葉子は平然としている。
告白されてからも、私たちは何度も友達という言葉を使ってきた。
以前と同じ意味で口にできているのか、最近は分からない。
「友達なら、何でもしていいの?」
何気なく訊くと、葉子の表情が変わった。
「何でもは駄目だと思う」
「例えば?」
「お金を借りて返さないとか」
「急に現実的」
「冷蔵庫のプリンを勝手に食べるとか」
「それ、葉子が前にやったやつ」
「あれは名前が書いてなかったから」
「私の家の冷蔵庫で、私が買ったプリンなのに?」
「名前を書かなかった桜にも、一割くらい責任があるよ」
「ないよ」
私は葉子の小皿に残っていたきゅうりを指で示した。
「これもいらないの?」
「それは食べる」
「本当に?」
「疑うなら、見てて」
葉子はきゅうりを口に入れた。妙に真剣な顔で噛むので、私は笑ってしまう。
「なに」
「子どもみたい」
「桜に言われたくない」
「私は好き嫌いしないよ」
「この前、椎茸を私の皿に入れたでしょ」
「あれは葉子が好きだから譲ったの」
「今のトマトも同じだよ」
「違う。私は善意」
「私だって善意」
どちらも譲らず、顔を見合わせる。
そのまま、ほとんど同時に笑った。
こんなふうに笑っているときは、告白の前と何も変わっていない。
けれど、立ち上がろうとした拍子にテーブルの下で膝が触れると、笑い声は不自然に途切れた。
二人とも、一度動きを止める。
以前なら、そのまま押し合っていたかもしれない。
私はゆっくり足を引いた。
葉子も何も言わず、空いた皿を重ねる。
気まずいわけではない。
ただ、楽しいだけでは済まなくなっていた。
葉子の部屋へ入ると、窓際に大きな画板が立てられていた。
白い布が掛けられている。葉子は私を床へ座らせ、自分は画板の前に立った。
「心の準備は?」
「必要なの?」
「私には必要」
葉子は布の端を持つ。
「変でも笑わないで」
「葉子が描いたんだから、変なのは私じゃなくて葉子の責任でしょ」
「やっぱり見せたくなくなってきた」
「ごめん。笑わない」
「本当に?」
「たぶん」
「そこは言い切って」
私が口を閉じると、葉子は小さく息を吸い、布を外した。
そこには、走っている私がいた。
最初に見た下絵とは違う。
ゴールしたあとに膝へ手をつく姿ではなく、トラックのカーブを抜けようとしている瞬間だった。身体は少し前へ傾き、髪が後ろへ流れている。顔は横から見える程度で、表情までは細かく描かれていない。
それでも、私だと分かった。
腕の振り方も、足の運びも、苦しくなると顎が少し上がる癖も。
背景には誰もいない観客席が描かれていた。
けれど一か所だけ、白い余白が残されている。
トラックの外側。走る私の視線の先だった。
「ここは?」
余白を指すと、葉子は私の隣へ座った。
「まだ決めてない」
「人を描くの?」
「描くかもしれないし、光だけにするかもしれない」
私は絵の前へ近づいた。
画面のなかの私は、その空白を見て走っている。
「葉子じゃないの?」
訊くと、背後で息を呑む気配があった。
振り返る。
葉子は床へ片手をついたまま、私を見ている。
「私がいたほうがいい?」
「絵の話?」
「それ以外に聞こえた?」
「聞こえなかったから訊いてる」
葉子は困ったように笑った。
「その場所に誰かを描くと、桜がその人のためだけに走ってる絵になる気がして」
「違うの?」
「桜は、自分のために走ってるでしょ」
たしかに、走り始めた理由は誰かのためではない。
ただ速くなりたかった。
昨日の自分より少しでも前へ進めることが嬉しかった。苦しくても、ゴールしたあとの息を吐き切る感覚が好きだった。
でも、大会の日、観客席に葉子がいるかどうかを探した。
見つけたときには、身体が軽くなった。
「自分のために走ってるよ」
私は答えた。
「でも、葉子に見ていてほしい」
葉子は黙った。
「だから、そこに葉子がいても、間違いじゃないと思う」
「私を描いたら、そういう絵になるよ」
「そういうって?」
「桜が、私のところへ走ってくる絵」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
画面のなかの私は、前だけを見ている。
その先に葉子がいる。
私が葉子へ向かって走っている。
想像すると、恥ずかしい。
けれど、その余白が知らない誰かの場所になるほうが嫌だった。
「葉子にして」
私は言った。
「本当に?」
「うん」
「あとから嫌になっても、簡単には消せないよ」
「絵のことだよね?」
今度は私が訊く番だった。
葉子は返事をしなかった。
窓の外で、遠く雷が鳴った。
さっきまで強かった陽射しが弱まり、部屋のなかへ薄い影が広がる。カーテンが大きく膨らんだあと、風が急に冷たくなった。
葉子は立ち上がり、窓を閉める。
「雨、来るかも」
空の半分が黒い雲に覆われていた。
天気予報では、夕方に通り雨があると言っていた気がする。けれど、山の向こうから近づいてくる雲は、通り雨という言葉で済ませられないほど暗かった。
葉子は部屋の明かりをつけた。
私は絵の前に座り、葉子は少し離れた机へ画材を並べる。余白を埋める前に、私の顔の向きを確かめたいらしい。
「走ってるときの顔をして」
椅子に座らされ、そう言われた。
「無理でしょ」
「前だけ見てればいいから」
「息も切らしたほうがいい?」
「そこまでは頼んでない」
「部屋を何周か走る?」
「床が抜けるからやめて」
「私を何キロだと思ってるの」
「勢いの問題」
葉子は私の正面から少し外れた場所へ座った。
スケッチブックを膝へ載せ、鉛筆を動かし始める。
描かれているあいだ、何を見ればいいのか分からなかった。
葉子を見ていいのかと思ったが、正面にいるわけではない。窓際の時計へ視線を向けると、顔を動かさないで、と注意された。
「難しい注文ばっかり」
「モデルなんだから我慢して」
「葉子はずっと私を見てるのに、私は何も見ちゃ駄目なの?」
「私を見たら顔が変わるでしょ」
「変わらないよ」
「変わる」
葉子は迷いなく言った。
「最近は特に」
「どう変わるの」
「それは言わない」
鉛筆が紙を擦る音だけが残った。
外では雨が降り始めていた。
最初は葉が揺れる程度だったのに、数分もしないうちに窓を叩く音が大きくなる。空が白く光り、すぐ近くで雷が鳴った。
思わず肩が動く。
「桜、雷苦手だったっけ」
「今のは誰でも驚くでしょ」
「小学生のとき、平気な顔してたのに」
「葉子が泣いてたから」
「泣いてない。ちょっと目を閉じてただけ」
「私の服をつかみながら?」
「覚えてない」
「都合の悪いことだけ忘れるね」
「桜も怖かったんでしょ」
「私は平気だった」
「じゃあ、どうして私の手を握ってたの」
言われて、記憶が少しだけ戻った。
小学校の帰り、突然の雷雨に遭い、二人で公民館の軒下へ逃げ込んだ。葉子が私の袖をつかみ、私はその手を握った。
怖かったのかどうかは、もう覚えていない。
ただ、葉子を一人にしてはいけないと思ったことだけは残っている。
「葉子が離さなかったからでしょ」
「桜が先だったと思うけど」
「記憶が曖昧なんじゃなかったの?」
「いま思い出した」
「ずるい」
また雷が鳴る。
今度は二人とも笑わなかった。
葉子の鉛筆が止まる。私は椅子へ座ったまま、窓の外を見た。
道路が見えなくなるほど雨が強い。
携帯電話には、大雨警報を知らせる通知が届いていた。町を通る電車も、雨量が規制値を超えたため運転を見合わせているらしい。
私の家までは歩いて三十分ほどだった。
傘を借りれば帰れない距離ではない。けれど、川沿いの道を通る。暗くなってからこの雨のなかを歩くのは、母が許さないだろう。
案の定、電話をすると、今日は葉子の家へ泊めてもらうよう言われた。
「着替えは明日の朝に持っていくから。迷惑かけないようにね」
「何歳だと思ってるの」
「葉子ちゃんに訊いてるの。桜じゃなくて」
電話の向こうで母が笑っている。
「スピーカーじゃないんだけど」
「どうせ隣にいるでしょ」
実際、葉子はすぐ隣でこちらを見ていた。
「泊まっていい?」
いまさら小声で訊くと、葉子は頷く。
「いいよ」
電話を切ってから、私は携帯電話を膝へ置いた。
昼に思い出した、中学一年の夏。
まさか本当に泊まることになるとは思わなかった。
「嫌なら、雨が弱くなったら帰るけど」
私が言うと、葉子は眉を寄せた。
「嫌じゃないよ」
「でも、困るでしょ」
「どうして?」
「どうしてって」
説明しようとすると、言葉が詰まる。
葉子は私が何を意識しているのか気づいたらしい。少しだけ目を伏せた。
「桜が嫌なら、別の部屋で寝てもいいよ」
「嫌とは言ってない」
「じゃあ、いいじゃない」
「葉子は平気なの?」
訊いた瞬間、部屋が静かになった。
雨の音は続いている。それなのに、葉子の息遣いばかりが近く聞こえた。
「平気じゃないよ」
葉子は答えた。
「でも、一緒にいたい」
迷いのない言葉だった。
私は、そういうところでいつも葉子に負ける。
葉子は怖がりながらも、自分の望んでいることを口にする。私は欲しいものが分からないふりをして、選ぶことを後回しにしてきた。
「私も」
声が小さくなる。
「一緒にいたい」
葉子は笑わなかった。
ただ、安心したように息を吐いた。
*
夕飯は、二人で作ることになった。
葉子の母親は雨の影響で帰りが遅くなるらしい。冷蔵庫には豚肉と野菜があり、葉子は焼きそばなら失敗しないと言い張った。
私が野菜を切り、葉子が炒める。
役割分担まではよかった。
けれど葉子は、まだ油が温まっていないフライパンへ肉を入れ、野菜を一度に全部加えた。もやしは外へ飛び出し、キャベツの一枚が床へ落ちる。
「下手すぎない?」
「味は一緒だから」
「床のキャベツは?」
「それは食べない」
「当たり前でしょ」
私が火加減を調整しようとすると、葉子は料理長は自分だと言って場所を譲らない。
結局、少し焦げた焼きそばが二皿できた。
見た目は悪い。
けれど、食べられないほどではなかった。
「おいしい?」
葉子が不安そうに訊く。
「普通」
「それ、褒めてないよね」
「葉子が作ったと思えば、かなりおいしい」
「もっと失礼になった」
食後の皿は私が洗った。
葉子は隣で布巾を持ち、受け取った皿を拭いていく。肩が何度か触れたが、昼間のように離れようとはしなかった。
むしろ、どちらが先に避けるか試すように、そのまま作業を続ける。
最後の皿を葉子へ渡したとき、濡れた指が重なった。
葉子は皿を受け取りながら、私の手を見ている。
「また見てる」
私が言うと、葉子は顔を上げた。
「桜も見てたでしょ」
「昼から見てる」
「知ってる」
「嫌?」
「嫌だったら、言ってるよ」
花火の夜と同じ返事だった。
今度は私から、葉子の手首へ触れた。
脈が伝わる。
速い。
走ったあとの私みたいだった。
「速いね」
「桜のせい」
「何もしてないよ」
「してる」
葉子は手を振りほどかなかった。
私も、すぐには離さなかった。
この触れ方に何という名前をつければいいのか、まだ分からない。
ただ、確かめたかった。
葉子も緊張している。
私だけが変になっているわけではない。
それが分かると、少し安心した。
葉子の母親は、九時すぎに帰ってきた。
ずぶ濡れになった傘を玄関へ置き、私を見ると、昔と同じように「いらっしゃい」と笑った。泊まることにも驚かず、押し入れから来客用の布団を出してくれる。
その布団が葉子の部屋に二組並べられたところで、急に現実味が増した。
風呂を借り、葉子のTシャツと短パンを着る。
鏡の前に立つと、知らない自分のように見えた。葉子が普段着ている服に、私の身体が入っている。
少し袖が短い。
部屋へ戻ると、葉子は私を見て笑った。
「似合わない」
「貸した本人が言う?」
「桜が着ると、私の服じゃないみたい」
「伸ばして返そうか」
「やめて」
葉子は風呂へ行き、私は一人で部屋に残った。
描きかけの絵は、また白い布で覆われている。
視線の先に残された余白。
そこへ葉子が描かれる。
私が葉子のほうへ走っていく絵になる。
さっきはそれでいいと思った。
いまも嫌ではない。
けれど、絵が完成するということは、形が決まるということだ。
一度描けば簡単には消せない。
葉子が言ったのは、絵のことだけだったのだろうか。
風呂から戻った葉子は、髪を下ろしていた。
濡れた毛先をタオルで挟み、もう片方の手でドライヤーを探している。
「貸して」
私が言うと、葉子はドライヤーを渡した。
「自分でできるよ」
「乾かすの遅いでしょ」
「桜は雑だから、髪が絡まる」
「文句を言うなら返す」
「言わない」
葉子は私の前へ座った。
温かい風を当てながら、髪を指で分けていく。
葉子の髪は細く、濡れると色が少し濃くなる。耳の後ろへ風を当てると、首筋が見えた。
見てはいけないものを見た気がして、私は慌てて視線を毛先へ戻す。
「熱くない?」
「大丈夫」
「引っ張ってない?」
「少し」
「ごめん」
力を弱める。
葉子の髪に触れていることを意識すると、指がぎこちなくなった。
「桜」
「なに」
「緊張してる?」
「ドライヤーで?」
「私に触るの」
ごまかす言葉が思いつかなかった。
「少し」
答えると、葉子は前を向いたまま黙った。
「葉子は?」
「してるよ」
「ずっと?」
「三月から、だいたいずっと」
そんな状態で私の隣にいたのかと思う。
昼休みも、帰り道も、花火の夜も。
葉子にとっては、私が何気なく触れるたび、それが何かの答えになるかもしれなかった。
私は自分の気持ちを考えることに精いっぱいで、待っている葉子がどんなふうに一日を過ごしているのか、あまり考えてこなかった。
「疲れない?」
訊くと、葉子の肩がわずかに動いた。
「疲れるときもある」
予想していなかった答えだった。
葉子なら、平気だと言う気がしていた。
「じゃあ、やめたい?」
ドライヤーの音に紛れそうな声で訊く。
葉子はしばらく答えなかった。
「好きなのを?」
「私を待つのを」
髪を乾かす手が止まる。
葉子が振り返った。
近い。
こちらを向いた葉子の顔が、思っていたよりずっと近くにあった。
「待ってるだけじゃないよ」
「でも、私が答えを出さないと、何も変わらないでしょ」
「桜は、何も変わってないと思ってる?」
返せなかった。
春休みに二人で出かけた。
大会へ来てほしいと言った。
祭りの日には待ち合わせをして、指を絡めた。
今は葉子の髪へ触れている。
何も変わっていないわけではない。
「変わったと思う」
「私もそう思う」
「でも、それでいいの?」
「ずっとは嫌」
葉子は静かに言った。
「いつかは、ちゃんと桜の言葉で聞きたい」
責められているとは思わなかった。
葉子は期限を決めようとしているわけでも、答えを急がせようとしているわけでもない。
ただ、どこまでも待てるわけではないと伝えている。
当たり前のことだった。
それなのに、胸の奥が苦しくなった。
「分かった」
それしか言えない。
葉子は前を向き直った。
私は再びドライヤーを動かした。
乾いた髪が指のあいだから零れていく。つかんでおくことはできない。それでも、何度もすくい直した。
*
十一時を過ぎて、部屋の明かりを消した。
二組の布団は、少し離して敷かれている。
昔のように同じ枕を使うことも、布団へ潜り込むこともない。それだけの距離があるはずなのに、葉子がすぐ隣にいると思うと眠れなかった。
雨は弱くなっていた。
軒先から落ちる雫の音と、時計の秒針だけが聞こえる。
「葉子、起きてる?」
「起きてる」
「眠れない?」
「桜が何度も寝返りするから」
「ごめん」
「嘘。私も眠れない」
暗闇のなかで、葉子の布団がわずかに動いた。
「中学のとき、覚えてる?」
「怖い映画を見たとき?」
「葉子が勝手に入ってきた」
「桜が端に寄ってくれたんでしょ」
「押し返したの」
「最後は入れてくれた」
「眠かったから諦めただけ」
「今も入ったら、諦めてくれる?」
冗談なのか、本気なのか分からなかった。
鼓動が速くなる。
「今は、無理」
正直に答えた。
「そっか」
葉子の声が少し遠くなる。
「嫌だからじゃないよ」
慌てて付け足す。
「分かってる」
「分かってない言い方」
「じゃあ、どうして?」
「近すぎるから」
「昔も近かったよ」
「今は違うでしょ」
それを言うと、葉子は黙った。
私たちは、もう何も知らなかったころには戻れない。
葉子の気持ちを知っている。
私も、葉子に触れたいと思うようになっている。
同じ布団に入れば、昔と同じでは済まない。その先に何があるのか知らないから、怖かった。
布団の外へ右手を出す。
二組の布団のあいだには、手のひら二つ分ほどの床が見えている。
「葉子」
「なに」
「手、出して」
少し間があった。
やがて、暗闇のなかから葉子の手が伸びてきた。
指先が私の手を探る。
最初に小指が触れ、それから手のひらが重なった。
今度は、私から指を絡めた。
花火の夜より深く、手のひらが離れないように握る。
葉子の指は少し冷たかった。
「これなら平気?」
葉子が訊いた。
「分からない」
「またそれ」
「でも、離したくない」
言葉にした瞬間、自分の声が震えた。
葉子の指へ力が入る。
「桜」
「なに」
「こっち向いて」
暗くて顔はよく見えない。
それでも、互いに横を向いたことだけは分かった。
布団と布団のあいだで手をつなぎ、見えない顔を見つめる。
唇が触れるような距離ではない。
近づこうと思えば近づける。
でも、どちらも動かなかった。
「絵の余白」
葉子が言った。
「うん」
「私を描く」
「うん」
「途中で消してって言っても、すぐには消せないからね」
「言わないよ」
「今は、でしょ」
祭りの夜、私が使った言葉だった。
葉子ならいい。
少しなら期待してもいい。
今は離したくない。
私はいつも、未来の自分が逃げられる言い方を選んでいた。
それが葉子を傷つけないためだと思っていた。
本当は、自分が傷つかないためだったのかもしれない。
「消してって言わない」
もう一度、言い直した。
「絵が完成しても、葉子がいるほうがいい」
葉子の呼吸が止まる。
私は続けた。
「まだ、好きって同じ意味では言えない。でも、葉子がいなくなるのは嫌。ほかの人のところへ行くのも嫌だし、私を待つのをやめるって言われたら、たぶん困る」
「それ、ずるいよ」
「うん」
「桜が困るから待っててって言われたら、私は断れない」
「分かってる」
「分かってない」
葉子の声は、少しだけ震えていた。
握った手が緩む。
離れてしまうと思い、私は思わず強く握った。
「だから、待っててとは言わない」
胸の奥が痛む。
言いたいことと、言ってはいけないことが、同じ場所にあった。
「私が考える。葉子を待たせるんじゃなくて、ちゃんと追いつくから」
言い切ったあと、不安になった。
できるかどうかは分からない。
恋愛というものも、自分の気持ちも、まだうまく説明できない。
それでも、葉子が立ち止まったままでいることに甘えてはいけないと思った。
今度は私が動かなければならない。
「走るの、速いもんね」
葉子が小さく言った。
「そういう話じゃないけど」
「知ってる」
「茶化さないで」
「泣きそうだから、茶化してるの」
暗闇のなかで、葉子が笑った。
泣いているのかもしれない。
確かめることはできなかった。
私は手を離さず、親指で葉子の指の付け根をそっと撫でた。
「近くまで来たら、呼んで」
「どうして」
「私も少しくらい、桜のほうへ行きたい」
「待ってるだけは嫌なんじゃなかったの」
「だから行くの」
葉子らしいと思った。
私がどれだけ迷っても、葉子はただ答えを待つだけの人ではない。絵を描き、知らない人と話し、自分の行きたい場所を見つけていく。
その葉子に追いつきたい。
隣にいたい。
それが恋なのかどうか、まだ分からない。
けれど、もう友達だからという言葉だけでは足りなかった。
「おやすみ」
私が言う。
「おやすみ、桜」
手をつないだまま、目を閉じた。
眠りに落ちる直前、葉子の親指が、私の手の甲を一度だけ撫でた。
朝、目を覚ますと、二組の布団のあいだはなくなっていた。
どちらが動いたのか分からない。
私たちは同じ枕こそ使っていなかったけれど、互いの布団の端を重ね、手をつないだまま眠っていた。
葉子はまだ目を閉じている。
寝顔を見るのは久しぶりだった。
起きているときより幼く、小学生のころとあまり変わらない。頬にかかった髪を払おうとして、触れる直前で指を止めた。
そのまま見ていると、葉子が目を開けた。
「おはよう」
「起きてたの?」
「今、起きた」
「嘘。ずっと見てたでしょ」
「少しだけ」
「気持ち悪い」
「告白した人が言う?」
言ってから、まずかったと思った。
けれど葉子は傷ついた顔をせず、眠そうに笑った。
「そうだね。私のほうが、もっと見てる」
「いつ」
「桜が気づいてないとき」
「やめてよ」
「嫌?」
私は少し考えた。
「写真は撮らないで」
「見るのはいいんだ」
「……勝手にすれば」
葉子はつないだままの手を持ち上げた。
「これは?」
朝の光のなかで見ると、夜より恥ずかしい。
それでも、すぐには離さなかった。
「あと五分」
「何が?」
「離すまで」
「短いね」
「朝ごはんに呼ばれるから」
「じゃあ、呼ばれるまで」
「それだと十分以上あるかも」
「得した」
葉子は目を閉じた。
私は天井を見上げる。
窓の外には、雨上がりの光が差していた。昨夜までの雲はなく、濡れた屋根が白く光っている。
五分が過ぎても、私たちは手を離さなかった。
階下から葉子の母親に呼ばれ、ようやく指をほどく。
起き上がると、手のひらに葉子の温度が残っていた。
昨日までなら、それを消さないように手を握りしめていたかもしれない。
でも今は、もう一度触れられる気がした。
そのことが、少しだけ嬉しかった。




