↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
好きと言うには近すぎた  作者: 桔梗鹿々
第五章 葉子の目に映る私
PR
35/36

第八章 眠れない距離

 夏祭りの夜から、葉子の手を見ることが増えた。

 教科書のページをめくる指。弁当箱を包む指。鉛筆を持ったまま、考えるように机を軽く叩く指。

 今まで見たことがなかったわけではない。

 小学生のころには手をつないで登校したし、中学では互いの手袋を片方ずつ交換したこともある。葉子が転びそうになれば腕をつかみ、寒い日には私の上着のポケットへ勝手に手を入れてきた。

 あのころは、触れることに意味などなかった。

 いまは指先が重なっただけで、その前後まで思い出してしまう。

 石段の固さ。ラムネの瓶。夜空に花火が開く音。

 葉子の小指が、私の小指へ重なった瞬間。

 翌週の昼休み、階段の踊り場で弁当を食べながら、私はまた葉子の手を見ていた。

「卵焼き、欲しいの?」

 葉子が箸を止める。

「違う」

「さっきから見てるから」

「卵焼きじゃなくて、手を見てた」

 正直に答えると、葉子の指がぴたりと止まった。

 もう少し考えてから言えばよかった。

「どうして?」

「どうしてだろう」

「私に訊かないで」

 葉子は箸を動かし、卵焼きを弁当箱の隅へ寄せる。

「いらないなら食べるよ」

「最初から葉子のだから、好きにして」

「桜が唐揚げと交換したそうに見えたの」

「それは少し思ってた」

「じゃあ、やっぱり卵焼きを見てたんじゃない」

「手も見てた」

「どっちかにして」

 葉子が笑った。

 私は弁当箱の蓋を二人のあいだへ置き、唐揚げを一つ載せる。葉子もそこへ卵焼きを置いた。

「物々交換みたい」

「桜が唐揚げを通貨にするからでしょ」

「卵焼き一個なら、妥当な相場だと思う」

「作ったのはお母さんだけどね」

 葉子が蓋をこちらへ押した。

 受け取ろうとしたとき、縁にかけた指先が触れる。

 どちらも、すぐには動かなかった。

 ほんの一瞬なのに、花火の夜と同じ場所へ触れられたような気がした。

 先に指を引いたのは葉子だった。

「冷めるよ」

「卵焼きは最初から冷めてるでしょ」

「そういうことじゃないの」

 葉子は唐揚げを自分の弁当箱へ移した。横を向いてしまったので表情までは見えない。それでも、耳のあたりが少し赤くなっている。

 祭りの夜のことを、私たちは話していない。

 手をつないだとも言えないほど短く、指を絡めただけだった。あれが何だったのか訊かれても、今の私には答えられない。

 ただ、間違いだったとは思っていなかった。

 もう一度できるかと考えると緊張する。

 でも、二度としたくないかと訊かれれば、それは違った。

「桜、今度の土曜日、空いてる?」

 弁当箱を閉じながら、葉子が訊いた。

「午前は練習。午後なら」

「うちに来ない?」

「絵?」

「うん。公募展に出すほう、仕上げたいから」

 私を描いた絵だと、すぐに分かった。

「モデルが必要?」

「いなくても描けるけど、いたほうがいい」

「じゃあ行く」

 即答すると、葉子は少しだけ意外そうな顔をした。

「何時まで練習?」

「一時くらい」

「終わったら連絡して。お昼、何か用意する」

「葉子が作るの?」

「お母さんが」

「安心した」

「やっぱり来なくていいよ」

「冗談。葉子の料理も、一度くらい食べてみたい」

「食べたあとも走れる保証はしないけど」

「毒を入れる前提なの?」

「火が通ってるか分からないだけ」

「毒より怖いね」

 葉子は不器用なことを隠そうともしなかった。

 私たちは小さいころから、互いの家を行き来している。葉子の母親には何度も夕飯を食べさせてもらったし、葉子も私の家の冷蔵庫を勝手に開ける。

 ただ、最後に泊まったのは中学一年の夏だった。

 怖い映画を見た葉子が眠れなくなり、私の布団へ入ってきた。狭いと言って押し返したのに、朝には二人とも同じ枕を使っていた。

 今なら、そんなことはできない。

 そう思った途端、頼まれてもいない宿泊のことまで考えてしまった。

     *

 土曜日の練習は、予定より長引いた。

 午前中から気温が上がり、トラックの上には陽炎が揺れている。秋の大会へ向けた練習は始まっていたものの、夏の疲れが残っている部員も多い。

 最後の一本を走り終えたとき、時計は一時半を過ぎていた。

 葉子へ連絡すると、すぐに返事が来る。

 急がなくていいよ。

 その下に、もう一通続いた。

 でもお腹すいた。

 私は笑いながら、今から行く、と返した。

 葉子の家へ着いたのは二時すぎだった。

 玄関を開けた葉子は、薄い灰色のTシャツに短いパンツを穿いている。家で何度も見てきた格好なのに、祭りの日と同じように、制服ではないことを意識してしまう。

「遅い」

「急がなくていいって言ったでしょ」

「言ったけど、お腹はすくの」

「先に食べればよかったのに」

「桜に見せたいものがあったから待ってた」

「料理?」

「違う。期待しないで」

 居間のテーブルには、冷やし中華が二皿並んでいた。

 葉子の母親は仕事で出かけているらしい。昼食だけ作り、冷蔵庫へ入れておいてくれたという。

 私は手を洗い、葉子の向かいへ座った。

「見せたいものって、絵?」

「食べてから」

「気になる」

「麺がのびるよ」

「もう冷たいから、少しくらい分からなくない?」

「分かるよ。桜が何でも勢いで食べるから気づかないだけ」

「走ったあとなんだから仕方ないでしょ」

 話しながら食べるうちに、皿はすぐ空になった。

 葉子は最後まで残していたトマトを、小皿へ避けている。

「好き嫌いはよくないよ」

「桜、トマト好きでしょ」

「好きだけど、それとこれとは別」

「食べる?」

「仕方ないなあ」

「誰も頼んでないけど」

「その割にこっちへ寄せてるよね」

 小皿ごと受け取ると、葉子は満足そうに麦茶を飲んだ。

「友達同士、助け合わないと」

 葉子は平然としている。

 告白されてからも、私たちは何度も友達という言葉を使ってきた。

 以前と同じ意味で口にできているのか、最近は分からない。

「友達なら、何でもしていいの?」

 何気なく訊くと、葉子の表情が変わった。

「何でもは駄目だと思う」

「例えば?」

「お金を借りて返さないとか」

「急に現実的」

「冷蔵庫のプリンを勝手に食べるとか」

「それ、葉子が前にやったやつ」

「あれは名前が書いてなかったから」

「私の家の冷蔵庫で、私が買ったプリンなのに?」

「名前を書かなかった桜にも、一割くらい責任があるよ」

「ないよ」

 私は葉子の小皿に残っていたきゅうりを指で示した。

「これもいらないの?」

「それは食べる」

「本当に?」

「疑うなら、見てて」

 葉子はきゅうりを口に入れた。妙に真剣な顔で噛むので、私は笑ってしまう。

「なに」

「子どもみたい」

「桜に言われたくない」

「私は好き嫌いしないよ」

「この前、椎茸を私の皿に入れたでしょ」

「あれは葉子が好きだから譲ったの」

「今のトマトも同じだよ」

「違う。私は善意」

「私だって善意」

 どちらも譲らず、顔を見合わせる。

 そのまま、ほとんど同時に笑った。

 こんなふうに笑っているときは、告白の前と何も変わっていない。

 けれど、立ち上がろうとした拍子にテーブルの下で膝が触れると、笑い声は不自然に途切れた。

 二人とも、一度動きを止める。

 以前なら、そのまま押し合っていたかもしれない。

 私はゆっくり足を引いた。

 葉子も何も言わず、空いた皿を重ねる。

 気まずいわけではない。

 ただ、楽しいだけでは済まなくなっていた。

 葉子の部屋へ入ると、窓際に大きな画板が立てられていた。

 白い布が掛けられている。葉子は私を床へ座らせ、自分は画板の前に立った。

「心の準備は?」

「必要なの?」

「私には必要」

 葉子は布の端を持つ。

「変でも笑わないで」

「葉子が描いたんだから、変なのは私じゃなくて葉子の責任でしょ」

「やっぱり見せたくなくなってきた」

「ごめん。笑わない」

「本当に?」

「たぶん」

「そこは言い切って」

 私が口を閉じると、葉子は小さく息を吸い、布を外した。

 そこには、走っている私がいた。

 最初に見た下絵とは違う。

 ゴールしたあとに膝へ手をつく姿ではなく、トラックのカーブを抜けようとしている瞬間だった。身体は少し前へ傾き、髪が後ろへ流れている。顔は横から見える程度で、表情までは細かく描かれていない。

 それでも、私だと分かった。

 腕の振り方も、足の運びも、苦しくなると顎が少し上がる癖も。

 背景には誰もいない観客席が描かれていた。

 けれど一か所だけ、白い余白が残されている。

 トラックの外側。走る私の視線の先だった。

「ここは?」

 余白を指すと、葉子は私の隣へ座った。

「まだ決めてない」

「人を描くの?」

「描くかもしれないし、光だけにするかもしれない」

 私は絵の前へ近づいた。

 画面のなかの私は、その空白を見て走っている。

「葉子じゃないの?」

 訊くと、背後で息を呑む気配があった。

 振り返る。

 葉子は床へ片手をついたまま、私を見ている。

「私がいたほうがいい?」

「絵の話?」

「それ以外に聞こえた?」

「聞こえなかったから訊いてる」

 葉子は困ったように笑った。

「その場所に誰かを描くと、桜がその人のためだけに走ってる絵になる気がして」

「違うの?」

「桜は、自分のために走ってるでしょ」

 たしかに、走り始めた理由は誰かのためではない。

 ただ速くなりたかった。

 昨日の自分より少しでも前へ進めることが嬉しかった。苦しくても、ゴールしたあとの息を吐き切る感覚が好きだった。

 でも、大会の日、観客席に葉子がいるかどうかを探した。

 見つけたときには、身体が軽くなった。

「自分のために走ってるよ」

 私は答えた。

「でも、葉子に見ていてほしい」

 葉子は黙った。

「だから、そこに葉子がいても、間違いじゃないと思う」

「私を描いたら、そういう絵になるよ」

「そういうって?」

「桜が、私のところへ走ってくる絵」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。

 画面のなかの私は、前だけを見ている。

 その先に葉子がいる。

 私が葉子へ向かって走っている。

 想像すると、恥ずかしい。

 けれど、その余白が知らない誰かの場所になるほうが嫌だった。

「葉子にして」

 私は言った。

「本当に?」

「うん」

「あとから嫌になっても、簡単には消せないよ」

「絵のことだよね?」

 今度は私が訊く番だった。

 葉子は返事をしなかった。

 窓の外で、遠く雷が鳴った。

 さっきまで強かった陽射しが弱まり、部屋のなかへ薄い影が広がる。カーテンが大きく膨らんだあと、風が急に冷たくなった。

 葉子は立ち上がり、窓を閉める。

「雨、来るかも」

 空の半分が黒い雲に覆われていた。

 天気予報では、夕方に通り雨があると言っていた気がする。けれど、山の向こうから近づいてくる雲は、通り雨という言葉で済ませられないほど暗かった。

 葉子は部屋の明かりをつけた。

 私は絵の前に座り、葉子は少し離れた机へ画材を並べる。余白を埋める前に、私の顔の向きを確かめたいらしい。

「走ってるときの顔をして」

 椅子に座らされ、そう言われた。

「無理でしょ」

「前だけ見てればいいから」

「息も切らしたほうがいい?」

「そこまでは頼んでない」

「部屋を何周か走る?」

「床が抜けるからやめて」

「私を何キロだと思ってるの」

「勢いの問題」

 葉子は私の正面から少し外れた場所へ座った。

 スケッチブックを膝へ載せ、鉛筆を動かし始める。

 描かれているあいだ、何を見ればいいのか分からなかった。

 葉子を見ていいのかと思ったが、正面にいるわけではない。窓際の時計へ視線を向けると、顔を動かさないで、と注意された。

「難しい注文ばっかり」

「モデルなんだから我慢して」

「葉子はずっと私を見てるのに、私は何も見ちゃ駄目なの?」

「私を見たら顔が変わるでしょ」

「変わらないよ」

「変わる」

 葉子は迷いなく言った。

「最近は特に」

「どう変わるの」

「それは言わない」

 鉛筆が紙を擦る音だけが残った。

 外では雨が降り始めていた。

 最初は葉が揺れる程度だったのに、数分もしないうちに窓を叩く音が大きくなる。空が白く光り、すぐ近くで雷が鳴った。

 思わず肩が動く。

「桜、雷苦手だったっけ」

「今のは誰でも驚くでしょ」

「小学生のとき、平気な顔してたのに」

「葉子が泣いてたから」

「泣いてない。ちょっと目を閉じてただけ」

「私の服をつかみながら?」

「覚えてない」

「都合の悪いことだけ忘れるね」

「桜も怖かったんでしょ」

「私は平気だった」

「じゃあ、どうして私の手を握ってたの」

 言われて、記憶が少しだけ戻った。

 小学校の帰り、突然の雷雨に遭い、二人で公民館の軒下へ逃げ込んだ。葉子が私の袖をつかみ、私はその手を握った。

 怖かったのかどうかは、もう覚えていない。

 ただ、葉子を一人にしてはいけないと思ったことだけは残っている。

「葉子が離さなかったからでしょ」

「桜が先だったと思うけど」

「記憶が曖昧なんじゃなかったの?」

「いま思い出した」

「ずるい」

 また雷が鳴る。

 今度は二人とも笑わなかった。

 葉子の鉛筆が止まる。私は椅子へ座ったまま、窓の外を見た。

 道路が見えなくなるほど雨が強い。

 携帯電話には、大雨警報を知らせる通知が届いていた。町を通る電車も、雨量が規制値を超えたため運転を見合わせているらしい。

 私の家までは歩いて三十分ほどだった。

 傘を借りれば帰れない距離ではない。けれど、川沿いの道を通る。暗くなってからこの雨のなかを歩くのは、母が許さないだろう。

 案の定、電話をすると、今日は葉子の家へ泊めてもらうよう言われた。

「着替えは明日の朝に持っていくから。迷惑かけないようにね」

「何歳だと思ってるの」

「葉子ちゃんに訊いてるの。桜じゃなくて」

 電話の向こうで母が笑っている。

「スピーカーじゃないんだけど」

「どうせ隣にいるでしょ」

 実際、葉子はすぐ隣でこちらを見ていた。

「泊まっていい?」

 いまさら小声で訊くと、葉子は頷く。

「いいよ」

 電話を切ってから、私は携帯電話を膝へ置いた。

 昼に思い出した、中学一年の夏。

 まさか本当に泊まることになるとは思わなかった。

「嫌なら、雨が弱くなったら帰るけど」

 私が言うと、葉子は眉を寄せた。

「嫌じゃないよ」

「でも、困るでしょ」

「どうして?」

「どうしてって」

 説明しようとすると、言葉が詰まる。

 葉子は私が何を意識しているのか気づいたらしい。少しだけ目を伏せた。

「桜が嫌なら、別の部屋で寝てもいいよ」

「嫌とは言ってない」

「じゃあ、いいじゃない」

「葉子は平気なの?」

 訊いた瞬間、部屋が静かになった。

 雨の音は続いている。それなのに、葉子の息遣いばかりが近く聞こえた。

「平気じゃないよ」

 葉子は答えた。

「でも、一緒にいたい」

 迷いのない言葉だった。

 私は、そういうところでいつも葉子に負ける。

 葉子は怖がりながらも、自分の望んでいることを口にする。私は欲しいものが分からないふりをして、選ぶことを後回しにしてきた。

「私も」

 声が小さくなる。

「一緒にいたい」

 葉子は笑わなかった。

 ただ、安心したように息を吐いた。

     *

 夕飯は、二人で作ることになった。

 葉子の母親は雨の影響で帰りが遅くなるらしい。冷蔵庫には豚肉と野菜があり、葉子は焼きそばなら失敗しないと言い張った。

 私が野菜を切り、葉子が炒める。

 役割分担まではよかった。

 けれど葉子は、まだ油が温まっていないフライパンへ肉を入れ、野菜を一度に全部加えた。もやしは外へ飛び出し、キャベツの一枚が床へ落ちる。

「下手すぎない?」

「味は一緒だから」

「床のキャベツは?」

「それは食べない」

「当たり前でしょ」

 私が火加減を調整しようとすると、葉子は料理長は自分だと言って場所を譲らない。

 結局、少し焦げた焼きそばが二皿できた。

 見た目は悪い。

 けれど、食べられないほどではなかった。

「おいしい?」

 葉子が不安そうに訊く。

「普通」

「それ、褒めてないよね」

「葉子が作ったと思えば、かなりおいしい」

「もっと失礼になった」

 食後の皿は私が洗った。

 葉子は隣で布巾を持ち、受け取った皿を拭いていく。肩が何度か触れたが、昼間のように離れようとはしなかった。

 むしろ、どちらが先に避けるか試すように、そのまま作業を続ける。

 最後の皿を葉子へ渡したとき、濡れた指が重なった。

 葉子は皿を受け取りながら、私の手を見ている。

「また見てる」

 私が言うと、葉子は顔を上げた。

「桜も見てたでしょ」

「昼から見てる」

「知ってる」

「嫌?」

「嫌だったら、言ってるよ」

 花火の夜と同じ返事だった。

 今度は私から、葉子の手首へ触れた。

 脈が伝わる。

 速い。

 走ったあとの私みたいだった。

「速いね」

「桜のせい」

「何もしてないよ」

「してる」

 葉子は手を振りほどかなかった。

 私も、すぐには離さなかった。

 この触れ方に何という名前をつければいいのか、まだ分からない。

 ただ、確かめたかった。

 葉子も緊張している。

 私だけが変になっているわけではない。

 それが分かると、少し安心した。

 葉子の母親は、九時すぎに帰ってきた。

 ずぶ濡れになった傘を玄関へ置き、私を見ると、昔と同じように「いらっしゃい」と笑った。泊まることにも驚かず、押し入れから来客用の布団を出してくれる。

 その布団が葉子の部屋に二組並べられたところで、急に現実味が増した。

 風呂を借り、葉子のTシャツと短パンを着る。

 鏡の前に立つと、知らない自分のように見えた。葉子が普段着ている服に、私の身体が入っている。

 少し袖が短い。

 部屋へ戻ると、葉子は私を見て笑った。

「似合わない」

「貸した本人が言う?」

「桜が着ると、私の服じゃないみたい」

「伸ばして返そうか」

「やめて」

 葉子は風呂へ行き、私は一人で部屋に残った。

 描きかけの絵は、また白い布で覆われている。

 視線の先に残された余白。

 そこへ葉子が描かれる。

 私が葉子のほうへ走っていく絵になる。

 さっきはそれでいいと思った。

 いまも嫌ではない。

 けれど、絵が完成するということは、形が決まるということだ。

 一度描けば簡単には消せない。

 葉子が言ったのは、絵のことだけだったのだろうか。

 風呂から戻った葉子は、髪を下ろしていた。

 濡れた毛先をタオルで挟み、もう片方の手でドライヤーを探している。

「貸して」

 私が言うと、葉子はドライヤーを渡した。

「自分でできるよ」

「乾かすの遅いでしょ」

「桜は雑だから、髪が絡まる」

「文句を言うなら返す」

「言わない」

 葉子は私の前へ座った。

 温かい風を当てながら、髪を指で分けていく。

 葉子の髪は細く、濡れると色が少し濃くなる。耳の後ろへ風を当てると、首筋が見えた。

 見てはいけないものを見た気がして、私は慌てて視線を毛先へ戻す。

「熱くない?」

「大丈夫」

「引っ張ってない?」

「少し」

「ごめん」

 力を弱める。

 葉子の髪に触れていることを意識すると、指がぎこちなくなった。

「桜」

「なに」

「緊張してる?」

「ドライヤーで?」

「私に触るの」

 ごまかす言葉が思いつかなかった。

「少し」

 答えると、葉子は前を向いたまま黙った。

「葉子は?」

「してるよ」

「ずっと?」

「三月から、だいたいずっと」

 そんな状態で私の隣にいたのかと思う。

 昼休みも、帰り道も、花火の夜も。

 葉子にとっては、私が何気なく触れるたび、それが何かの答えになるかもしれなかった。

 私は自分の気持ちを考えることに精いっぱいで、待っている葉子がどんなふうに一日を過ごしているのか、あまり考えてこなかった。

「疲れない?」

 訊くと、葉子の肩がわずかに動いた。

「疲れるときもある」

 予想していなかった答えだった。

 葉子なら、平気だと言う気がしていた。

「じゃあ、やめたい?」

 ドライヤーの音に紛れそうな声で訊く。

 葉子はしばらく答えなかった。

「好きなのを?」

「私を待つのを」

 髪を乾かす手が止まる。

 葉子が振り返った。

 近い。

 こちらを向いた葉子の顔が、思っていたよりずっと近くにあった。

「待ってるだけじゃないよ」

「でも、私が答えを出さないと、何も変わらないでしょ」

「桜は、何も変わってないと思ってる?」

 返せなかった。

 春休みに二人で出かけた。

 大会へ来てほしいと言った。

 祭りの日には待ち合わせをして、指を絡めた。

 今は葉子の髪へ触れている。

 何も変わっていないわけではない。

「変わったと思う」

「私もそう思う」

「でも、それでいいの?」

「ずっとは嫌」

 葉子は静かに言った。

「いつかは、ちゃんと桜の言葉で聞きたい」

 責められているとは思わなかった。

 葉子は期限を決めようとしているわけでも、答えを急がせようとしているわけでもない。

 ただ、どこまでも待てるわけではないと伝えている。

 当たり前のことだった。

 それなのに、胸の奥が苦しくなった。

「分かった」

 それしか言えない。

 葉子は前を向き直った。

 私は再びドライヤーを動かした。

 乾いた髪が指のあいだから零れていく。つかんでおくことはできない。それでも、何度もすくい直した。

     *

 十一時を過ぎて、部屋の明かりを消した。

 二組の布団は、少し離して敷かれている。

 昔のように同じ枕を使うことも、布団へ潜り込むこともない。それだけの距離があるはずなのに、葉子がすぐ隣にいると思うと眠れなかった。

 雨は弱くなっていた。

 軒先から落ちる雫の音と、時計の秒針だけが聞こえる。

「葉子、起きてる?」

「起きてる」

「眠れない?」

「桜が何度も寝返りするから」

「ごめん」

「嘘。私も眠れない」

 暗闇のなかで、葉子の布団がわずかに動いた。

「中学のとき、覚えてる?」

「怖い映画を見たとき?」

「葉子が勝手に入ってきた」

「桜が端に寄ってくれたんでしょ」

「押し返したの」

「最後は入れてくれた」

「眠かったから諦めただけ」

「今も入ったら、諦めてくれる?」

 冗談なのか、本気なのか分からなかった。

 鼓動が速くなる。

「今は、無理」

 正直に答えた。

「そっか」

 葉子の声が少し遠くなる。

「嫌だからじゃないよ」

 慌てて付け足す。

「分かってる」

「分かってない言い方」

「じゃあ、どうして?」

「近すぎるから」

「昔も近かったよ」

「今は違うでしょ」

 それを言うと、葉子は黙った。

 私たちは、もう何も知らなかったころには戻れない。

 葉子の気持ちを知っている。

 私も、葉子に触れたいと思うようになっている。

 同じ布団に入れば、昔と同じでは済まない。その先に何があるのか知らないから、怖かった。

 布団の外へ右手を出す。

 二組の布団のあいだには、手のひら二つ分ほどの床が見えている。

「葉子」

「なに」

「手、出して」

 少し間があった。

 やがて、暗闇のなかから葉子の手が伸びてきた。

 指先が私の手を探る。

 最初に小指が触れ、それから手のひらが重なった。

 今度は、私から指を絡めた。

 花火の夜より深く、手のひらが離れないように握る。

 葉子の指は少し冷たかった。

「これなら平気?」

 葉子が訊いた。

「分からない」

「またそれ」

「でも、離したくない」

 言葉にした瞬間、自分の声が震えた。

 葉子の指へ力が入る。

「桜」

「なに」

「こっち向いて」

 暗くて顔はよく見えない。

 それでも、互いに横を向いたことだけは分かった。

 布団と布団のあいだで手をつなぎ、見えない顔を見つめる。

 唇が触れるような距離ではない。

 近づこうと思えば近づける。

 でも、どちらも動かなかった。

「絵の余白」

 葉子が言った。

「うん」

「私を描く」

「うん」

「途中で消してって言っても、すぐには消せないからね」

「言わないよ」

「今は、でしょ」

 祭りの夜、私が使った言葉だった。

 葉子ならいい。

 少しなら期待してもいい。

 今は離したくない。

 私はいつも、未来の自分が逃げられる言い方を選んでいた。

 それが葉子を傷つけないためだと思っていた。

 本当は、自分が傷つかないためだったのかもしれない。

「消してって言わない」

 もう一度、言い直した。

「絵が完成しても、葉子がいるほうがいい」

 葉子の呼吸が止まる。

 私は続けた。

「まだ、好きって同じ意味では言えない。でも、葉子がいなくなるのは嫌。ほかの人のところへ行くのも嫌だし、私を待つのをやめるって言われたら、たぶん困る」

「それ、ずるいよ」

「うん」

「桜が困るから待っててって言われたら、私は断れない」

「分かってる」

「分かってない」

 葉子の声は、少しだけ震えていた。

 握った手が緩む。

 離れてしまうと思い、私は思わず強く握った。

「だから、待っててとは言わない」

 胸の奥が痛む。

 言いたいことと、言ってはいけないことが、同じ場所にあった。

「私が考える。葉子を待たせるんじゃなくて、ちゃんと追いつくから」

 言い切ったあと、不安になった。

 できるかどうかは分からない。

 恋愛というものも、自分の気持ちも、まだうまく説明できない。

 それでも、葉子が立ち止まったままでいることに甘えてはいけないと思った。

 今度は私が動かなければならない。

「走るの、速いもんね」

 葉子が小さく言った。

「そういう話じゃないけど」

「知ってる」

「茶化さないで」

「泣きそうだから、茶化してるの」

 暗闇のなかで、葉子が笑った。

 泣いているのかもしれない。

 確かめることはできなかった。

 私は手を離さず、親指で葉子の指の付け根をそっと撫でた。

「近くまで来たら、呼んで」

「どうして」

「私も少しくらい、桜のほうへ行きたい」

「待ってるだけは嫌なんじゃなかったの」

「だから行くの」

 葉子らしいと思った。

 私がどれだけ迷っても、葉子はただ答えを待つだけの人ではない。絵を描き、知らない人と話し、自分の行きたい場所を見つけていく。

 その葉子に追いつきたい。

 隣にいたい。

 それが恋なのかどうか、まだ分からない。

 けれど、もう友達だからという言葉だけでは足りなかった。

「おやすみ」

 私が言う。

「おやすみ、桜」

 手をつないだまま、目を閉じた。

 眠りに落ちる直前、葉子の親指が、私の手の甲を一度だけ撫でた。

 朝、目を覚ますと、二組の布団のあいだはなくなっていた。

 どちらが動いたのか分からない。

 私たちは同じ枕こそ使っていなかったけれど、互いの布団の端を重ね、手をつないだまま眠っていた。

 葉子はまだ目を閉じている。

 寝顔を見るのは久しぶりだった。

 起きているときより幼く、小学生のころとあまり変わらない。頬にかかった髪を払おうとして、触れる直前で指を止めた。

 そのまま見ていると、葉子が目を開けた。

「おはよう」

「起きてたの?」

「今、起きた」

「嘘。ずっと見てたでしょ」

「少しだけ」

「気持ち悪い」

「告白した人が言う?」

 言ってから、まずかったと思った。

 けれど葉子は傷ついた顔をせず、眠そうに笑った。

「そうだね。私のほうが、もっと見てる」

「いつ」

「桜が気づいてないとき」

「やめてよ」

「嫌?」

 私は少し考えた。

「写真は撮らないで」

「見るのはいいんだ」

「……勝手にすれば」

 葉子はつないだままの手を持ち上げた。

「これは?」

 朝の光のなかで見ると、夜より恥ずかしい。

 それでも、すぐには離さなかった。

「あと五分」

「何が?」

「離すまで」

「短いね」

「朝ごはんに呼ばれるから」

「じゃあ、呼ばれるまで」

「それだと十分以上あるかも」

「得した」

 葉子は目を閉じた。

 私は天井を見上げる。

 窓の外には、雨上がりの光が差していた。昨夜までの雲はなく、濡れた屋根が白く光っている。

 五分が過ぎても、私たちは手を離さなかった。

 階下から葉子の母親に呼ばれ、ようやく指をほどく。

 起き上がると、手のひらに葉子の温度が残っていた。

 昨日までなら、それを消さないように手を握りしめていたかもしれない。

 でも今は、もう一度触れられる気がした。

 そのことが、少しだけ嬉しかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。