第九章 私より先に
葉子の家へ泊まった翌日から、私たちは手をつながなくなった。
避けているわけではない。
昼休みには今までどおり階段の踊り場へ集まり、放課後に時間が合えば一緒に帰る。肩が触れれば軽く押し返し、葉子が私の鞄に菓子の包み紙を忍ばせれば、翌日にはそれを葉子の筆箱の奥へ戻しておく。
変わったことといえば、別れる前に少しだけ立ち止まるようになったことだった。
駅の改札。
郵便局の前。
葉子の家へ続く曲がり角。
以前なら「また明日」で終わっていた場所で、どちらもすぐには背を向けなくなった。
何かを待っている。
けれど、何をすればいいのか分からない。
結局、くだらないことを一つ言い足してから別れる。
「明日、寝坊しないでね」
「葉子こそ」
「私は起きられる」
「この前、目覚まし三回止めてたでしょ」
「あれは日曜日だから」
「曜日で音は変わらないよ」
そんなふうに笑い、今度こそ手を振る。
手をつないだ夜については、話さなかった。
ただ、なかったことにもしていない。
葉子の手を見れば思い出す。葉子もときどき、私の指先へ視線を落とす。けれど次に触れるのは、私からでなければいけない気がしていた。
葉子はもう、ただ待つだけではいられないと言った。
私も、追いつくと答えた。
だから次の一歩を、葉子に任せるのは違う。
そう思うほど、簡単には手を伸ばせなくなった。
*
八月の終わり、市民会館の公募展が始まった。
葉子の絵も、無事に出品されていた。
作品名は『視線の先』。
題を聞いたとき、私は少し恥ずかしくなった。画面のなかの私が何を見ているのか、葉子と私だけは知っている。
以前は余白だった場所に、葉子自身の姿が描き加えられていた。
観客席ではない。
トラックの外側、白いフェンスのそばに立っている。顔ははっきり描かれておらず、手にスケッチブックを持っていることだけが分かる。
走る私の視線は、そこを向いていた。
その小さな姿があるだけで、絵のなかの私はどこへ向かうのか分かる。
それが、知らない人たちの前に飾られると思うと、落ち着かなかった。
私たちのあいだにあるものを、葉子が絵のなかへ隠してしまったようにも、反対に人目へさらしてしまったようにも思える。
展示初日の土曜日、私は葉子と会場へ行く約束をしていた。
午前の練習を終え、学校の更衣室で着替える。紺色のシャツに白いパンツ。服を選ぶのに時間をかけたつもりはなかったが、鏡の前で髪を結び直していると、真琴が隣から覗き込んできた。
「今日、どこか行くの?」
「市民会館」
「葉子ちゃんの絵?」
「そう」
「デートだ」
「違う」
答えたあと、春休みのことを思い出した。
あのときも、私はすぐに否定した。
葉子は笑っていたけれど、あとで傷つけたかもしれないと気づいた。
「……たぶん」
言い直すと、真琴が目を丸くした。
「何が?」
「デートかどうか」
「そこ、本人たちで決まってないの?」
「決まってない」
「面倒くさいね」
「うるさい」
真琴は笑いながら、自分の荷物を持った。
「葉子ちゃん、ずっと待ってるよね」
「何が」
「桜を待つ時間」
私は鏡越しに真琴を見る。
からかっている表情ではなかった。
「知ってたの?」
「見てれば何となく。二年のときから、葉子ちゃんが桜を見る顔だけ違ったから」
「そんなに分かりやすかった?」
「桜以外には、ね」
胸の奥が重くなる。
私だけが知らなかった。
葉子が特別な目で私を見ていた時間も、友達のふりをしながら言葉を選んでいたことも。
告白されてからは知ろうとしてきたつもりだった。
それでも私は、葉子の気持ちを受け取るだけで、自分が何を返しているのか考え切れていない。
「待たせすぎると、ほかの人に取られるよ」
真琴は冗談めかして言った。
「物じゃないんだから、取るとかないでしょ」
「そうだね。葉子ちゃんが自分で選ぶんだもんね」
その言い方のほうが、ずっと嫌だった。
葉子が選ぶ。
私ではない誰かを。
あり得ないとは言えなかった。
*
市民会館の前に着くと、葉子は入口の柱にもたれていた。
薄い青のワンピースを着ている。
髪はいつもより低い位置でまとめられ、耳元には小さな銀色の飾りが光っていた。学校では見たことのないものだった。
私は少し離れた場所で足を止めた。
葉子が顔を上げる。
「遅い」
「約束の五分前だけど」
「私は十五分前からいた」
「それは葉子が早いの」
「知ってる」
葉子は柱から身体を起こした。
私の服を上から下まで見る。その視線を意識してしまい、落ち着かない。
「なに」
「別に」
「何か変?」
「変じゃない。ちゃんとしてるから、どうしたのかと思った」
「普段はちゃんとしてないみたいに言わないで」
「部活帰りの桜は、だいたい髪が半分ほどけてる」
「今日は結び直した」
「うん。きれい」
さらりと言われ、返事に困った。
葉子のほうが、いつもよりずっときれいに見える。
そう言えばいいだけなのに、言葉が喉へ引っかかった。
「葉子も」
「私も、なに?」
泊まった夜と同じように、葉子は返事を急がせず待った。
困らせて楽しんでいるだけかもしれない。それでも、逃げたくなかった。
「……きれいだと思った。今日の葉子」
声が小さくなる。
葉子の頬が少し赤くなった。私も恥ずかしいのに、その変化を見て少しだけ息がしやすくなった。
「ありがとう」
葉子はそう言い、会館の扉を開けた。
先に入っていく背中を見ながら、私はやっと息を吐いた。
入口には、公募展の案内板が立っていた。
一般の部と高校生の部に分かれ、油彩、水彩、版画が並んでいる。受付のそばには美術部の顧問がいて、葉子を見つけると、作品の横に感想ノートが置かれていると教えてくれた。
葉子は落ち着かない様子で会場へ入る。
絵を見に来たはずなのに、足が少し速い。
「緊張してる?」
「してない」
「嘘」
「桜だって大会前に訊くと、同じこと言うでしょ」
「私は本当にしてないときもある」
「私は今、本当にしてない」
「じゃあ、手が冷たいのは?」
葉子の指先に触れた。つかんでから、自分が何をしたのか気づく。
葉子も足を止めた。
周りには人がいる。
「桜」
「なに」
「人がいるよ」
「知ってる」
「見られるかも」
「手を温めてるだけ」
「葉子が嫌なら離す」
葉子は首を振った。
「このままでいい」
私は、その言葉を聞いても、手のひらまでは握れなかった。指先だけをそっと重ねたまま、会場の奥へ進んだ。
春の私ならできなかった。
知らない人の前で、葉子へ触れる。
何と思われるかより、葉子が緊張していることのほうが気になった。
その変化を、私は少しだけ嬉しく思った。
葉子の絵は、高校生の部の中央近くに飾られていた。
美術室で見たときより大きく見える。
白い壁の上で、トラックの赤と夏の空の青が強く浮かび上がっていた。
そして、視線の先にいる葉子。
画面のなかの葉子は小さい。
けれど、その人がいなければ絵の意味が変わってしまう。
私はしばらく絵を見つめた。
「変じゃない?」
隣で葉子が訊く。
「変じゃない」
「本物が見ても?」
「本物より足長く描いてない?」
「気のせい」
「少し格好よすぎる」
「私にはそう見えたの」
葉子は絵のなかの私を見ている。
横顔は穏やかだった。
私が走る姿を、葉子は何度も見た。
練習の日も、大会の日も、息を切らして駆けつけてくれた日も。
その時間が一枚の絵になっている。
「好き」
思わず、口から出た。
葉子がこちらを向く。私はその目を見返せず、絵へ視線を逃がした。
「……この絵。好きだと思う」
言い直したとたん、葉子の口もとの笑みが薄くなった。
「そう」
葉子は私の指先から自分の手を抜き、感想ノートのほうへ歩いていく。
怒っているわけではないのだろう。
でも、今の言い方で葉子を傷つけたことだけは分かった。
私はその場に残り、絵を見上げた。
好き。
たった二文字なのに、口にするだけで身体が固まる。
葉子に対して言えないことを、絵にだけ言った。
その違いが、自分でも分からなかった。
感想ノートには、すでに何人かの言葉が書かれていた。
躍動感がある。
視線の先が気になる。
走る人を見守る温かさを感じた。
葉子は一行ずつ読み、落ち着かないようにページの端へ触れている。
「私が誰を見ているか、誰も気づかないね」
「気づかなくていいの」
「どうして」
「見る人が、それぞれ自分の知ってる誰かを置けばいいから」
「私の視線の先なのに?」
「絵になったら、桜だけのものじゃないよ」
「じゃあ、絵のなかの私は、知らない誰かを見てることになるの?」
葉子は呆れたように私を見た。
「そこ、気にする?」
「少し」
「心が狭い」
「葉子が私を描いた絵なんだから、葉子を見ててほしい」
最後まで言い切って、私は葉子を見た。
葉子はすぐに答えなかった。感想ノートを閉じ、そのあとでもう一度だけ私の指先へ触れた。
*
会場を一周し、昼を過ぎたころ、一階の喫茶室へ入った。
休日なので席は混んでいた。
窓際の二人席を見つけ、私はアイスコーヒー、葉子はクリームソーダを頼む。葉子は毎回、見た目だけで飲み物を選ぶ。最後には甘すぎると言うくせに、次も似たものを頼む。
「一口いる?」
葉子がグラスを少し持ち上げる。
「甘いからいい」
「まだ飲んでないのに」
「見れば分かる」
「食べ物を見た目で判断しちゃ駄目なんだよ」
「さっきトマトを押しつけた人が言わないで」
「あれは助け合い」
「都合のいい言葉だね」
私たちは笑った。
展示を見終えた安心からか、葉子の表情は会場へ入る前より柔らかい。
そのとき、背後から名前を呼ばれた。
「葉子」
小夜だった。
白いブラウスに長いスカートをはき、手には展示の目録を持っている。一人ではなく、少し離れたところに小夜の母親らしい女性が立っていた。
葉子は驚いたあと、席から立ち上がった。
「来てくれたの?」
「うん。お母さんが近くに用事あったから」
教室や廊下で何度か見かけた程度の私にも、小夜は会釈をして、「桜さん」と名前で呼んだ。
「葉子の絵、見ました」
「どうだった?」
私が訊くと、小夜は少し考えてから答えた。
「葉子らしいと思いました」
上手だった、きれいだった、ではない。
葉子らしい。
私はその言葉を使えなかった。
「どこが?」
葉子が尋ねる。
「走ってる人と、その先にいる人とのあいだまで描いてる。葉子、前より人を描くのが好きになったんだね」
葉子は少し驚いた顔をした。
「分かる?」
「文化祭の背景を描いてたころは、人を入れたがらなかったから」
「よく覚えてるね」
「覚えてるよ」
小夜は自然に笑った。
二人だけが知っている時間だった。
同じ教室で過ごし、進路の資料を見て、文化祭の作業をしてきた。私はそのどこにもいない。
葉子の絵を見ても、私は自分がどう描かれているかばかり気にしていた。
小夜は、葉子がどう変わったかを見ている。
胸の奥に、小さな焦りが生まれた。
「その絵の人、桜さんですよね」
小夜が言った。
「分かるの?」
私が訊くと、小夜は頷いた。
「葉子がよく話してるから」
「何を?」
「それは葉子に訊いてください」
葉子が小夜の腕を軽く叩く。
「余計なこと言わないで」
「悪いことは言ってないよ」
「桜はすぐ調子に乗るから」
「もう乗ってる」
私が言うと、葉子は露骨に嫌そうな顔をした。
小夜が笑う。
二人のあいだに入ろうとする気配はなかった。葉子が私を特別に思っていることを、小夜も薄々は知っているように見えた。
だからこそ、私は落ち着かなかった。
小夜の母親がこちらを呼んだ。
「じゃあ、また学校で」
小夜は葉子へそう言い、私にも会釈をして離れていく。
背中を見送っていると、葉子が席へ戻った。
「小夜、来るって言ってたの?」
「聞いてない。今週は家の用事があるって言ってたから」
「ふうん」
「なに」
「別に」
私はアイスコーヒーの氷をストローで押した。
真琴の言葉が頭へ戻る。
葉子が自分で選ぶ。
小夜は葉子の絵を理解している。
同じ教室にいる。
進路の話もできる。
私より先に、葉子の変化へ気づく。
「小夜と、仲いいんだね」
「三年になってからは、よく話すよ」
「どれくらい?」
「どれくらいって?」
「昼を一緒に食べるとか、休日に出かけるとか」
「昼はたまに。出かけたのは画材を買いに行ったときくらい」
「二人で?」
「紬もいたよ」
質問するたび、自分が嫌な人になっていく気がした。
葉子もそれに気づいたらしい。
「気になる?」
「少し」
「どうして」
「葉子のこと、よく見てるから」
「桜も見てるでしょ」
「私より分かってるみたいだった」
「そんなことないよ」
「でも、絵が変わったってすぐ分かった」
「小夜は、文化祭のころから手伝ってくれてたから」
慰めになっていない。
私の知らない葉子を知っている理由が増えただけだった。
「桜」
葉子はテーブルの上へ手を置いた。
指先が、私の手の近くにある。
「小夜は友達だよ」
葉子は言った。
その言葉に安心しそうになり、思いとどまる。
私だって、葉子の友達だ。
友達という名前の内側に、どんな気持ちが隠れているか知っている。
「葉子にとっては、そうでも」
小夜がどう思っているかは分からない。
最後までは言えなかった。
「何?」
「何でもない」
葉子の指先に触れようとして、やめた。
さっきまでならできた。
小夜と話す葉子を見たあとでは、触れることが自分の場所を主張する行為のように思えた。
私はまだ、葉子の恋人ではない。
それなのに、ほかの誰かが近づくことだけを嫌がっている。
そんな自分を、葉子に見抜かれたくなかった。
*
夏休みが終わり、二学期が始まった。
葉子の絵は公募展で奨励賞を取った。
大きな賞ではないと本人は言ったが、校内の掲示板には名前が載り、美術部の顧問も職員室で何度も葉子のことを褒めていたらしい。
私は嬉しかった。
誰かに葉子の絵を褒められるたび、自分のことのように誇らしくなる。
同時に、少し寂しかった。
絵が評価されるほど、葉子の行く場所が遠くなるように感じる。
美術系の大学や専門学校の資料が増え、放課後には顧問と面談をしている。小夜も同じように進路を考え始めていて、二人で説明会の日程を比べることがあった。
私は秋の県大会を目指し、放課後のほとんどをグラウンドで過ごしていた。
夏休み前よりも帰る時間が合わない。
それでも、昼休みだけは会うようにしていた。
階段の踊り場。
唐揚げと卵焼き。
離れた教室にいる私たちが、同じ一日のなかへ戻るための時間だった。
九月の半ば、その昼休みに葉子は来なかった。
携帯電話にも連絡はない。
急な用事なら、あとで連絡が来るだろうと思った。私は一人で弁当を食べ、予鈴が鳴る前に教室へ戻る。
放課後、グラウンドへ向かう途中で葉子を見つけた。
特別棟へ続く渡り廊下の手前に立っている。
向かいには小夜がいた。
二人は話していたが、私の位置から声は聞こえない。
通り過ぎるつもりだった。
練習に遅れるわけにはいかない。葉子が誰と何を話していても、私が立ち止まる理由はない。
そう思ったのに、小夜が葉子の手を取った。
足が止まった。
指先だけではない。
小夜は葉子の手を両手で包むように握っていた。
葉子は振りほどかなかった。
何かを言われ、驚いた顔をしている。
胸の奥が大きく揺れた。
私は渡り廊下の手前の壁際へ身を寄せた。
見てはいけない気がした。
けれど、離れることもできない。
風が廊下を抜け、小夜の声が聞こえた。
「急に言って、ごめん」
葉子は黙っている。
「困らせたいわけじゃない。でも、卒業してから、あのとき言えばよかったって思うのは嫌だから」
握られた葉子の手ばかりが目に入る。
夏祭りの夜、私が触れた手。
泊まった夜、朝までつないでいた手。
いまは、小夜が握っている。
「私、葉子のことが好き」
小夜は言った。
「友達としてじゃなくて」
聞き間違える余地はなかった。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
真琴に言われたときは、想像の話だった。
ほかの誰かが葉子を選ぶ。
葉子が、その人を選ぶかもしれない。
いま、それが目の前で起きている。
葉子はまだ答えない。
横顔からは、何を考えているのか分からなかった。
私は、自分の右手を握りしめた。
あの夜の温度は、もう手のひらには残っていない。思い出せるだけだった。
それなのに私は、葉子が同じ場所で待っていてくれると思っていた。
答えが出るまで。
私が走り着くまで。
誰の手も取らず、私だけを見ていてくれると。
そんな約束は、どこにもなかった。
小夜の告白を聞いた瞬間、最初に浮かんだのは、葉子を取られたくない、という気持ちだった。
次に浮かんだのは、葉子が何と答えるのか、聞きたくないという気持ちだった。
私はその場から離れた。
振り返らず、グラウンドへ向かう。
走れば何も考えずに済むと思った。
けれど、練習が始まっても呼吸はうまく整わなかった。
足を前へ出すたび、葉子の手を握る小夜の指が浮かぶ。
私がためらっているあいだに、小夜は言葉にした。
好きだと伝えた。
葉子の答えを受け取る覚悟を決めた。
私より先に。
最後の一本で、私は設定タイムから大きく遅れた。
ゴールしたあとも顔を上げられず、膝に手をつく。
絵のなかの私は、視線の先に葉子を置いて走っている。
けれど現実の葉子は、いつまでも同じ場所に立っているわけではなかった。




