第六章 見ていてほしい人 五
五
記録会がすべて終わるころには、観客席の人も少なくなっていた。
テントを畳み、荷物を運ぶ。最後のミーティングを終え、解散になる。
葉子は競技場の外にある木陰で待っていた。
スケッチブックを膝へ置き、眠そうに目を細めている。
「お待たせ」
声をかけると、顔を上げた。
「終わった?」
「うん」
「お疲れさま」
立ち上がり、少し伸びをする。
「ずっと描いてたの?」
「途中で寝てた」
「見れば分かる」
「桜の競技のときは起きてたから」
競技場から駅までは、歩いて二十分ほどだった。
部員たちは先に行き、私と葉子は少し遅れて歩く。
午後の日差しで舗装された道が温かい。私は大会用の鞄を持ち、葉子はスケッチブックを胸へ抱えていた。
「今日の絵、見せて」
「まだ駄目」
「また?」
「下描きに使うから、整理してから」
「私を描いたのに、一回も見せてくれない」
「この前、大きいの見せたでしょ」
「今日の顔も見たい」
葉子は少し考え、スケッチブックを開いた。
何枚かめくったあと、一つのページを見せる。
ゴール後の私だった。
膝へ手をつき、顔を上げている。線は少なく、目元もはっきり描かれていない。
それでも笑っていると分かる。
「これ、葉子を見たとき?」
「たぶん」
「たぶんって」
「一瞬だったから。あとで思い出して描いた」
私は紙の上の自分を見る。
走り終えた直後なのに、これまでの絵ほど苦しそうではない。
「何で笑ってるの」
「私が聞きたい」
「記録がよかったからじゃない?」
「それもあると思う」
葉子はページへ目を落とした。
「でも、私を見たあとだった」
胸が鳴った。
自分では覚えていない。
ただ、葉子がいたことへ安心した。記録を伝えたいと思った。来てくれたことが嬉しかった。
その気持ちが、顔に出ていたのだろうか。
「桜」
葉子が呼んだ。
「なに?」
「今日、来てよかった」
「私も、来てくれてよかった」
自然に答えられた。
葉子は笑う。
告白への返事ではない。
それでも今日は、自分の気持ちを隠さずに返せた。
駅へ着き、電車を待つ。
ホームのベンチへ座ると、脚の疲れが一気に戻ってきた。膝から下が重く、立ち上がるのも億劫になる。
葉子は私の隣へ座り、鞄から小さな包みを出した。
「これ、お祝い」
中には、駅前の菓子店のクッキーが二枚入っていた。
「いつ買ったの?」
「朝。記録が悪かったら慰め用にするつもりだった」
「どっちにしても渡すんだ」
「買ったから」
一枚を葉子へ渡し、二人で食べる。
少し甘く、端が固かった。
「葉子」
「なに?」
「私、今日ずっと葉子を探してた」
葉子の手が止まる。
「観客席にいないか何回も見た。来なくても平気だと思ってたけど、いないと嫌だった」
話しながら、自分でも何を伝えたいのか分からなくなった。
「これが葉子の言ってる好きと同じかは、まだ分からない。でも、見てほしかったのは葉子だった」
葉子はすぐには答えなかった。
手にしたクッキーの欠片を見つめている。
「それ、期待してもいい?」
やがて小さく聞いた。
私は迷った。
簡単に頷けば、葉子を喜ばせられる。
でも、まだ答えではない。
「少しなら」
正直に言った。
「全部じゃないけど」
葉子は困ったように笑う。
「難しいね」
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
葉子は残りのクッキーを口へ入れた。
「少しでも嬉しいから」
ホームへ電車が入ってくる。
葉子が立ち上がり、私へ手を差し出した。
「脚、動かないんでしょ」
「そこまでじゃない」
「じゃあ自分で立って」
引っ込められそうになった手を、私はつかんだ。
葉子に引かれ、立ち上がる。
手を離す必要は、すぐにはなかった。
電車の扉が開く直前まで、私たちはそのままでいた。




