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好きと言うには近すぎた  作者: 桔梗鹿々
第五章 葉子の目に映る私
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第六章 見ていてほしい人 四

 競技を終えた選手は、すぐに待機区域から出られない。

 水を飲み、呼吸を整え、係員の指示を待つ。

 私はフェンスの外を何度も見た。

 葉子は同じ場所にいた。

 スケッチブックを開かず、こちらを見ている。

 やがて退場の案内が出る。

 私は部員のテントへ戻るより先に、葉子のところへ向かった。

 まだ息が整っていない。歩くたび、脚が震えた。

「桜、お疲れ」

 葉子は私の顔を見るなり、鞄からタオルを出した。

「速かった?」

「前より一秒」

「それは、ちゃんとすごい?」

「ちゃんとすごい」

 葉子の顔が明るくなる。

「おめでとう」

 その言葉を聞いた瞬間、記録が自分のものになった気がした。

 顧問からタイムを告げられたときも、電光掲示板で数字を見たときも嬉しかった。

 でも、葉子におめでとうと言われるまで、どこか現実味がなかった。

「間に合わないと思った」

「私も。先生の話が長くて」

「走ってきたの?」

「駅から少しだけ」

「少しの顔じゃないよ」

 葉子の頬は赤く、額には汗が残っている。

 私はタオルを受け取らず、葉子の額へ当てた。

 葉子が驚いて目を閉じる。

「桜のために持ってきたのに」

「葉子のほうが必要そう」

「私は走ってない」

「走ってきたでしょ」

 額から頬へ、軽く汗を拭う。

 自分が何をしているのか意識したのは、葉子が動かずにいることへ気づいてからだった。

 指先の向こうに、葉子の頬がある。

 タオル越しでも、熱が伝わってくる。

 私は手を止めた。

「ごめん」

 今度は私が謝った。

「何で?」

「勝手に触ったから」

 葉子は目を開けた。

 それから、少しだけ笑う。

「桜ならいいよ」

 以前、私が言ったことと同じだった。

 その言葉を聞き、胸の奥が熱くなる。

 私はタオルを葉子へ返した。

「講評は?」

「途中で抜けた」

「大丈夫なの?」

「私の番は終わったから。紬が片づけしてくれた」

 また、紬の名前が出た。

 けれど今日は、胸に引っかからなかった。

 葉子がここにいる。

 私を見るために、間に合うか分からない道を走ってきた。

 それだけで十分だった。

「来なくてもいいって言ったのに」

「来てほしくなかった?」

「違う」

 私はすぐに答えた。

「来てほしかった」

 言葉にすると、思っていたより素直だった。

 葉子は何も言わない。

 風で髪が揺れ、頬へかかる。今度は葉子自身が耳の後ろへ払った。

「だったら、そう言ってくれればよかったのに」

「葉子の講評も大事だから」

「それを決めるのは私だよ」

 責める言い方ではなかった。

 でも、私は返事を失った。

 葉子は私を困らせないよう、自分の気持ちを何度も小さくする。

 私も同じことをしていたのかもしれない。

 葉子へ気を遣うつもりで、自分の望みを隠す。来てほしいと言わず、来なければ寂しがる。

「次は言う」

「次?」

「見てほしいとき」

 葉子は少し驚き、それから頷いた。

「うん。言って」

 部員テントから私を呼ぶ声がした。

 次の競技の応援へ戻らなければならない。

「終わるまで待てる?」

「そのつもりで来た」

「四時くらいになるよ」

「絵描いてるから平気」

「また私を?」

「さっきの桜、描きたい」

 葉子はスケッチブックを持ち上げた。

「すごくいい顔してた」

「苦しくて死にそうだったけど」

「だから」

 葉子の目には、あの瞬間の私がどう見えていたのだろう。

 知りたいと思った。

「変な顔に描かないで」

「約束できない」

 以前と同じ返事だった。

 私は笑い、部員のところへ戻った。

 振り返ると、葉子はもうスケッチブックを開いている。

 鉛筆を持つ横顔が、春の陽射しに照らされていた。


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