第六章 見ていてほしい人 四
四
競技を終えた選手は、すぐに待機区域から出られない。
水を飲み、呼吸を整え、係員の指示を待つ。
私はフェンスの外を何度も見た。
葉子は同じ場所にいた。
スケッチブックを開かず、こちらを見ている。
やがて退場の案内が出る。
私は部員のテントへ戻るより先に、葉子のところへ向かった。
まだ息が整っていない。歩くたび、脚が震えた。
「桜、お疲れ」
葉子は私の顔を見るなり、鞄からタオルを出した。
「速かった?」
「前より一秒」
「それは、ちゃんとすごい?」
「ちゃんとすごい」
葉子の顔が明るくなる。
「おめでとう」
その言葉を聞いた瞬間、記録が自分のものになった気がした。
顧問からタイムを告げられたときも、電光掲示板で数字を見たときも嬉しかった。
でも、葉子におめでとうと言われるまで、どこか現実味がなかった。
「間に合わないと思った」
「私も。先生の話が長くて」
「走ってきたの?」
「駅から少しだけ」
「少しの顔じゃないよ」
葉子の頬は赤く、額には汗が残っている。
私はタオルを受け取らず、葉子の額へ当てた。
葉子が驚いて目を閉じる。
「桜のために持ってきたのに」
「葉子のほうが必要そう」
「私は走ってない」
「走ってきたでしょ」
額から頬へ、軽く汗を拭う。
自分が何をしているのか意識したのは、葉子が動かずにいることへ気づいてからだった。
指先の向こうに、葉子の頬がある。
タオル越しでも、熱が伝わってくる。
私は手を止めた。
「ごめん」
今度は私が謝った。
「何で?」
「勝手に触ったから」
葉子は目を開けた。
それから、少しだけ笑う。
「桜ならいいよ」
以前、私が言ったことと同じだった。
その言葉を聞き、胸の奥が熱くなる。
私はタオルを葉子へ返した。
「講評は?」
「途中で抜けた」
「大丈夫なの?」
「私の番は終わったから。紬が片づけしてくれた」
また、紬の名前が出た。
けれど今日は、胸に引っかからなかった。
葉子がここにいる。
私を見るために、間に合うか分からない道を走ってきた。
それだけで十分だった。
「来なくてもいいって言ったのに」
「来てほしくなかった?」
「違う」
私はすぐに答えた。
「来てほしかった」
言葉にすると、思っていたより素直だった。
葉子は何も言わない。
風で髪が揺れ、頬へかかる。今度は葉子自身が耳の後ろへ払った。
「だったら、そう言ってくれればよかったのに」
「葉子の講評も大事だから」
「それを決めるのは私だよ」
責める言い方ではなかった。
でも、私は返事を失った。
葉子は私を困らせないよう、自分の気持ちを何度も小さくする。
私も同じことをしていたのかもしれない。
葉子へ気を遣うつもりで、自分の望みを隠す。来てほしいと言わず、来なければ寂しがる。
「次は言う」
「次?」
「見てほしいとき」
葉子は少し驚き、それから頷いた。
「うん。言って」
部員テントから私を呼ぶ声がした。
次の競技の応援へ戻らなければならない。
「終わるまで待てる?」
「そのつもりで来た」
「四時くらいになるよ」
「絵描いてるから平気」
「また私を?」
「さっきの桜、描きたい」
葉子はスケッチブックを持ち上げた。
「すごくいい顔してた」
「苦しくて死にそうだったけど」
「だから」
葉子の目には、あの瞬間の私がどう見えていたのだろう。
知りたいと思った。
「変な顔に描かないで」
「約束できない」
以前と同じ返事だった。
私は笑い、部員のところへ戻った。
振り返ると、葉子はもうスケッチブックを開いている。
鉛筆を持つ横顔が、春の陽射しに照らされていた。




