第六章 見ていてほしい人 三
三
八百メートルは二周だ。
短いようで長く、長いようで短い。
最初の二百メートルで位置を取り、一周目では余力を残す。残り三百から速度を上げ、最後の直線で全部を使う。
何度も練習してきた。
けれど号砲を待つ瞬間には、そのすべてが遠くなる。
スタートラインへ足を置く。
身体を少し前へ倒す。
左の靴紐は、もう気にならなかった。
名前を呼ぶ声が聞こえた。
小さな声だった。
観客席からではなく、フェンスの近く。息を切らしながら、誰かが私を呼んでいる。
顔を上げる。
葉子がいた。
制服ではなく、薄いシャツと長いスカート。肩にはいつもの鞄を掛け、片手にスケッチブックを持っている。
走ってきたらしく、髪が頬へ張りついていた。
私と目が合う。
葉子は手を振った。
大きな声で何かを言う。
周囲の音にかき消され、聞き取れなかった。
それでも、来たのだと分かった。
胸の奥にあったものが、一気に軽くなる。
係員が位置につくよう告げる。
私は前を向いた。
もう一度、左足へ体重をかける。
号砲が鳴った。
最初のカーブへ入る。
隣の選手が前へ出た。追わずに、自分の速度を保つ。百メートルを過ぎ、内側へ寄る。
呼吸は安定していた。
葉子が見ている。
そう考えると、以前のように身体が硬くなるかと思った。
違った。
今日は、見られていることが力になった。
一周目を終える。
時計の数字が視界の端へ入る。予定どおりのペースだった。
残り四百。
前の選手との差を少しずつ詰める。向こう正面で一人を抜いた。
残り二百。
脚が重くなり、呼吸が崩れ始める。
右肩が下がる。
腕が大きくなる。
葉子が描いた私と同じだった。
それでよいと思った。
きれいに走る必要はない。
今ある力を全部使う。
最後の直線へ入る。
観客席からいくつもの声が飛ぶ。そのなかに葉子の声があるのかは分からなかった。
ただ、フェンスの近くにいる姿だけが見えた。
私は前の選手へ並び、最後の数歩で抜いた。
ゴールラインを越える。
すぐには止まれず、そのまま数メートル進んだ。速度を落とし、トラックの外側へ寄る。
膝へ手をつく。
息が苦しい。
肺の奥が焼けるようだった。
汗が顎から落ち、赤い地面へ吸い込まれる。
顔を上げられない。
それでも笑っていた。
自分でも分かった。
記録を告げる放送が流れる。
自己記録を、一秒近く更新していた。
葉子の絵に描かれていたのと同じ姿勢で、私は何度も息を吐いた。




