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好きと言うには近すぎた  作者: 桔梗鹿々
第五章 葉子の目に映る私
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第六章 見ていてほしい人 三

 八百メートルは二周だ。

 短いようで長く、長いようで短い。

 最初の二百メートルで位置を取り、一周目では余力を残す。残り三百から速度を上げ、最後の直線で全部を使う。

 何度も練習してきた。

 けれど号砲を待つ瞬間には、そのすべてが遠くなる。

 スタートラインへ足を置く。

 身体を少し前へ倒す。

 左の靴紐は、もう気にならなかった。

 名前を呼ぶ声が聞こえた。

 小さな声だった。

 観客席からではなく、フェンスの近く。息を切らしながら、誰かが私を呼んでいる。

 顔を上げる。

 葉子がいた。

 制服ではなく、薄いシャツと長いスカート。肩にはいつもの鞄を掛け、片手にスケッチブックを持っている。

 走ってきたらしく、髪が頬へ張りついていた。

 私と目が合う。

 葉子は手を振った。

 大きな声で何かを言う。

 周囲の音にかき消され、聞き取れなかった。

 それでも、来たのだと分かった。

 胸の奥にあったものが、一気に軽くなる。

 係員が位置につくよう告げる。

 私は前を向いた。

 もう一度、左足へ体重をかける。

 号砲が鳴った。

 最初のカーブへ入る。

 隣の選手が前へ出た。追わずに、自分の速度を保つ。百メートルを過ぎ、内側へ寄る。

 呼吸は安定していた。

 葉子が見ている。

 そう考えると、以前のように身体が硬くなるかと思った。

 違った。

 今日は、見られていることが力になった。

 一周目を終える。

 時計の数字が視界の端へ入る。予定どおりのペースだった。

 残り四百。

 前の選手との差を少しずつ詰める。向こう正面で一人を抜いた。

 残り二百。

 脚が重くなり、呼吸が崩れ始める。

 右肩が下がる。

 腕が大きくなる。

 葉子が描いた私と同じだった。

 それでよいと思った。

 きれいに走る必要はない。

 今ある力を全部使う。

 最後の直線へ入る。

 観客席からいくつもの声が飛ぶ。そのなかに葉子の声があるのかは分からなかった。

 ただ、フェンスの近くにいる姿だけが見えた。

 私は前の選手へ並び、最後の数歩で抜いた。

 ゴールラインを越える。

 すぐには止まれず、そのまま数メートル進んだ。速度を落とし、トラックの外側へ寄る。

 膝へ手をつく。

 息が苦しい。

 肺の奥が焼けるようだった。

 汗が顎から落ち、赤い地面へ吸い込まれる。

 顔を上げられない。

 それでも笑っていた。

 自分でも分かった。

 記録を告げる放送が流れる。

 自己記録を、一秒近く更新していた。

 葉子の絵に描かれていたのと同じ姿勢で、私は何度も息を吐いた。


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