第六章 見ていてほしい人 二
二
記録会当日の朝は、雲一つない晴天だった。
六月を前にして、陽射しには夏の強さが混じっている。競技場の赤いトラックが光を返し、観客席には学校ごとのテントが並んでいた。
私は部員たちと準備運動を終え、午前の競技を応援した。
葉子から連絡はない。
中間講評が始まったころだろう。携帯電話を鞄へしまい、競技へ集中することにした。
午前十一時を過ぎる。
昼食を取っても、葉子からの通知はなかった。
十二時半、八百メートルの招集に備えてスパイクへ履き替える。
新しい白い靴には、すでに赤い土が残っている。葉子は、使った証拠だからそのほうがよいと言っていた。
左の靴紐を結ぶ。
一度立ち上がり、またしゃがんで結び直す。
緊張しているときの癖だった。
「今日、何回目?」
隣にいた真琴が聞いた。
「何が?」
「左の紐。さっきから三回くらいやってる」
「緩い気がするから」
「葉子ちゃん、来ないの?」
唐突に名前を出され、手が止まった。
「どうして葉子」
「桜、ずっと観客席見てるから」
「ほかの学校の走り見てただけ」
「ふうん」
真琴はそれ以上追及しなかった。
私は紐を結び終え、招集所へ向かった。
トラックの内側へ入ると、観客席の全体が見える。
家族連れ。部員。大会関係者。色の違うジャージと、日除けの帽子。
そのなかに葉子の姿はなかった。
分かっていたことなのに、胸の奥へ小さな失望が落ちた。
講評が長引いているのだろう。
葉子には葉子の大事なものがある。
私が走ることと同じように、葉子にとって絵を描くことは大切だ。
頭では理解している。
それでも、見てほしかった。
私が走るところを葉子に見てほしい。
告白される前にも、そう思ったことはある。大会の結果を葉子へ話したい。よい記録が出れば褒めてほしい。
でも今日の願いは、それよりも強かった。
葉子が描いている私と、実際に走る私が同じなのか、見届けてほしかった。
招集が始まり、名前を呼ばれる。
返事をして、腰のゼッケンを確認する。
同じ組の選手たちと待機場所へ並ぶ。
もう観客席を探すのはやめた。




