第六章 見ていてほしい人 一
一
春の記録会が近づくにつれ、葉子がグラウンドへ来る回数は減っていった。
公募展へ出す作品の構図が決まり、下絵から本制作へ移ったらしい。大きな画用紙へ描き直すと、短い時間ではほとんど進まない。絵の具を作り、色を重ね、乾くのを待つ。私には分からない工程がいくつもある。
葉子の姿をフェンスの外に見つけなくなってからも、私は何度か練習中にそちらを見た。
ベンチには誰もいない。
代わりに、葉子が以前座っていた場所へ、薄い鉛筆の削りかすが一つ残っていた。
描くために来ていたのだから、必要なものを見終えれば美術室へ戻るのは当然だった。
それでも、少し物足りなかった。
葉子に見られていると走りにくいと思ったことが、もうずいぶん前のように感じられる。
記録会は五月最後の土曜日に、市内の競技場で行われる。
私が出るのは八百メートルだった。
三年生になって初めての外部記録会であり、夏の地区大会へ向けた大切な測定でもある。冬から続けてきた練習の成果が、数字として出る。
葉子には、日程を伝えてあった。
見に来てとは言わなかった。
これまでの記録会にも、葉子は何度か来ている。予定が合えば観客席へ座り、私が走り終えるまでスケッチブックを開いて待っていた。
だから今回も、来られるなら来ると思っていた。
記録会の一週間前、昼休みの踊り場で、葉子がその日の予定を尋ねた。
「桜の八百、何時から?」
「午後一時半。招集は一時」
葉子は携帯電話へ時刻を入力した。
「午前は?」
「九時から会場にいる。ほかの人の応援と準備」
「終わるのは夕方?」
「たぶん四時くらい」
葉子は画面を見たまま黙った。
「何かある?」
「公募展の中間講評が、その日の午前に入った」
「何時まで?」
「分からない。先生が一人ずつ見るから」
葉子は少し困った顔で続ける。
「終わったら行けると思う。でも、桜の時間に間に合うかは分からない」
私は弁当のご飯を箸でまとめた。
「無理しなくていいよ」
思ったより早く言葉が出た。
「でも」
「中間講評、大事でしょ。競技はまたあるから」
またある。
三年生として走れる記録会は、もう多くない。それでも葉子へ気を遣わせたくなくて、そう言った。
「葉子が来なくても、ちゃんと走れるし」
冗談めかして笑う。
葉子も少し笑った。
「うん。分かってる」
その返事に、なぜか胸が痛んだ。
本当は、少しくらい残念そうにしてほしかった。
「間に合いそうなら連絡する」
「競技前は携帯見られないかも」
「じゃあ、連絡しないで行く」
「来られたらね」
葉子は頷いた。
それ以上、記録会の話はしなかった。
午後の授業中も、私はその会話を思い返していた。
無理しなくていい。
葉子が来なくても走れる。
どちらも本当だった。
それでも、来てほしいと言わなかったことを後悔していた。




