第五章 葉子の目に映る私 六
六
美術室を出るころには、空が暗くなり始めていた。
葉子と並び、駅へ向かう。
五月を前にして、夕方の風は少し暖かくなっている。校庭の桜はほとんど散り、枝には新しい葉が増えていた。
「さっき、絵が好きって言ったとき、びっくりした」
葉子が言った。
「変な意味じゃないよ」
「分かってる」
「分かってるなら言わないで」
「でも一瞬、返事かと思った」
葉子は前を向いたまま笑った。
「そんな簡単に返事しないよ」
「うん」
「ちゃんと考えるって言ったでしょ」
「覚えてる」
葉子の声には、責める響きがなかった。
私は立ち止まり、少し先へ進んだ葉子を呼んだ。
「葉子」
振り返った顔を、夕方の光が照らしている。
「待ってるの、つらくない?」
葉子はすぐには答えなかった。
「つらいときもある」
正直な返事だった。
「でも、桜が考えてくれてるのは分かるから」
「私、何も返せてない」
「そんなことないよ。絵を描かせてくれた」
「それは返事じゃないでしょ」
「返事じゃなくても、嬉しい」
葉子はそう言い、私が追いつくのを待った。
隣へ並ぶ。
このままでは、葉子は私が渡す小さなものすべてを喜んでしまう。
一緒に帰ること。絵を描かせること。手首へ触れること。
私は葉子の気持ちを受け取っておきながら、自分が返せるものの意味を決めていない。
「葉子は、私が最後まで恋愛を分からなかったら、どうする?」
聞くのが怖かった。
葉子は少し考える。
「諦めると思う」
胸の奥が冷えた。
「そうなんだ」
「ずっと待ってたら、桜も困るでしょ」
「でも」
「友達には戻りたいよ。時間かかるかもしれないけど」
友達に戻る。
それは告白前と同じ関係に聞こえる。
けれど、葉子の言い方からは、今までと同じには戻れないことが伝わった。
「別の人を好きになるかもしれない?」
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。
葉子は驚いたように私を見る。
「いつかは」
「そっか」
それ以上、言葉が出なかった。
いつか葉子が、私ではない誰かを同じように見る。
その人を描きたいと思い、一緒に出かける日をデートと呼び、触れたいと願う。
想像すると、胸の奥がざらついた。
恋愛ではなくても、幼なじみを取られたくないだけかもしれない。
葉子が告白したことで、自分の場所が保証されたと思っていただけなのかもしれない。
私にはまだ、違いが分からなかった。
駅のホームへ着く。
葉子はいつもの窓際へ座り、私はその隣へ腰を下ろした。
電車が動き始める。
窓へ映る葉子の横顔を、私は何度も見た。
この顔を、いつか別の誰かが私より近くで見るのかもしれない。
そう思うたび、胸の奥に落ち着かない熱が残った。
それが何なのか、まだ名前はつけられなかった。




