第五章 葉子の目に映る私 五
五
五月の連休前、葉子は最初の下絵を美術室へ持ってきた。
放課後、部活が休みだった私は、葉子に呼ばれて特別棟へ向かった。
窓際の大きな机に、木炭紙ほどの画用紙が立てかけられている。鉛筆と薄い木炭だけで描かれ、まだ色はついていない。
紬は少し離れた席にいた。
私が入ると、葉子は画用紙の前へ立った。
「まだ途中だから」
「分かってる」
「完成したら変わるかもしれない」
「先に言い訳しないで見せて」
葉子は少し迷ったあと、横へ退いた。
紙の上に、私がいた。
ゴールした直後らしい。
身体はわずかに前へ傾き、両手を膝へついている。髪が肩から落ち、顔の半分を隠していた。
きれいな姿ではない。
肩は上下し、口が少し開いている。ジャージは脚へ張りつき、靴には土がついていた。
それでも、目を離せなかった。
自分の姿なのに、自分ではないように見える。
苦しそうだった。
同時に、何かをやり切ったあとの静けさがあった。
「私、こんな顔してる?」
聞くと、葉子は絵を見た。
「してる」
「もっとひどくない?」
「少しだけ直した」
「変な顔は描かないって約束しなかったもんね」
「でも、きれいにしたわけじゃないよ」
葉子は画用紙の端へ触れた。
「桜が一番きれいに見えたところを描いた」
言葉が胸の奥へ落ちる。
私は、絵のなかの自分を見る。
「走ってるところじゃないんだ」
「走ってる途中も好き。でも、終わったあとが一番、桜が何も隠してないから」
「隠してるつもりないけど」
「普段の桜は、けっこう隠すよ」
葉子は私を見た。
「疲れてても平気って言うし、悔しくても笑う。誰かが困ってたら、自分のことを後にする。でも走り終わった直後だけは、苦しいなら苦しい顔をするし、嬉しいならちゃんと笑う」
そこまで見られていたとは思わなかった。
葉子は私の走りだけではなく、私自身を見ている。
その視線から逃げたいような、もっと見てほしいような、不思議な気持ちになった。
「紬は、どう思う?」
私は少し離れた席へ聞いた。
紬は自分の絵から顔を上げた。
「葉子らしい」
「それ、褒めてる?」
「半分」
紬は立ち上がり、こちらへ来た。
絵の前で腕を組む。
「桜を描いてるというより、葉子が見たい桜を描いてる」
葉子の表情が硬くなった。
「違う?」
「違わないけど」
「公募展へ出すなら、それでいいのか考えたほうがいい。桜を知らない人には、葉子の気持ちまで見えないから」
紬の言葉は厳しかったが、葉子を傷つけるためではない。
葉子も分かっているらしく、反論せずに絵を見つめた。
「桜はどう思う?」
今度は紬が私へ尋ねた。
私は返事に迷った。
技術のことは分からない。公募展で評価される絵かどうかも判断できない。
それでも、この絵を見たときに感じたことはある。
「好きだよ」
葉子が顔を上げる。
告白への答えのように聞こえたことに気づき、私は慌てて続けた。
「絵が。自分の絵を好きって言うの、変かもしれないけど」
「変じゃない」
葉子は小さく答えた。
「桜にそう言ってもらえるなら、描いた意味ある」
紬は私たちを順番に見た。
何か言いたそうだったが、結局、自分の席へ戻っていった。
私はもう一度、画用紙へ目を向ける。
走り終えた私。
葉子だけが知っていた顔。
それを公募展へ出せば、知らない人も見ることになる。
恥ずかしいと思う。
けれど、葉子が見つけた私なら、見てもらってもよい気がした。




