第五章 葉子の目に映る私 四
四
葉子が本格的に私を描き始めてから、放課後の過ごし方が少し変わった。
美術部の活動日ではない日にも、葉子はグラウンドへ来る。
毎日ではない。
動きを見たい日だけ、練習の前に連絡が届く。
――今日、見に行っていい?
私が断ることはなかった。
葉子はフェンスの外やベンチへ座り、何枚もスケッチを描いた。
スタート前の姿。カーブを走る横顔。ゴール後に膝へ手をつくところ。水筒の蓋を開けている手元。靴紐を結ぶ指。
走っているところだけを描くのだと思っていた。
でも葉子は、練習の合間にある何でもない姿まで紙へ残していく。
「そんなところ、作品に必要?」
水道の脇で靴の泥を落としているとき、私は聞いた。
「どこを使うか決めてないから」
「靴を洗ってる絵になるかもしれないの?」
「それはないと思う」
「じゃあ何で描くの」
葉子は少し迷い、答えた。
「桜を覚えておきたいから」
手にしていたブラシが止まった。
葉子はすぐに言葉を足す。
「絵を描くために。あとで動きを思い出せるように」
「そういう意味ね」
「ほかに何だと思ったの」
「何でもない」
私は再び靴へ水をかけた。
絵のため。
分かっているのに、最初の言葉だけが胸へ残る。
桜を覚えておきたい。
葉子は、卒業後に町を離れるかもしれない。
私も進路によっては、別の場所へ行く。
来年の春になれば、同じ電車で通うことも、毎日昼食を食べることもなくなる。
そのことと、葉子の言葉が重なった。
「卒業したら、絵を見れば私のこと思い出す?」
軽い調子で聞いたつもりだった。
葉子は笑わなかった。
「絵がなくても思い出すよ」
「離れるって決まってないでしょ」
「決まってない。でも、同じ学校には行かないと思う」
「私、美術は無理だからね」
「桜が美術大学にいたら、毎日モデル頼まれると思う」
「どうして」
「背が高いし、姿勢もいいから」
葉子は私の肩から脚までを見る。
絵を描くための視線なのだろう。
それでも、身体を見られていると思うと、急に居心地が悪くなった。
「そんなに見ないで」
「描くって決めたの、桜でしょ」
「葉子が描きたいって言ったから」
「嫌になった?」
また、葉子は引こうとする。
私は首を振った。
「嫌じゃない。ただ、恥ずかしいだけ」
「私も恥ずかしいよ」
「葉子は見るほうでしょ」
「好きな人をずっと見てるんだから、普通に恥ずかしい」
葉子は言ってから、スケッチブックで口元を隠した。
「今の忘れて」
「忘れない」
「桜、最近そればっかり」
「葉子が言ったことだから」
葉子は顔を隠したまま、しばらく動かなかった。
その耳が赤くなっている。
告白されるまで、葉子が照れているところをほとんど見たことがなかった。
私が気づかなかっただけなのかもしれない。
「私、前にもこういうこと言ってた?」
聞くと、葉子はスケッチブックを少し下げた。
「言ってない。心のなかだけ」
「今は言うんだ」
「桜が忘れないって言うから」
葉子の言葉を、私は一つずつ受け取っている。
受け取るだけで、まだ何も返せない。
それでも葉子が隠さずに話してくれることを、嬉しいと思っていた。




