第五章 葉子の目に映る私 二
二
放課後、葉子は顧問の許可を取り、グラウンドの外側にあるベンチへ座った。
膝の上にはスケッチブック。右手に鉛筆。風でページがめくれないよう、左手で端を押さえている。
葉子がそこにいるだけで、グラウンドの景色がいつもと違って見えた。
「今日も来てるね、葉子ちゃん」
真琴が私の視線を追った。
「絵のため」
「桜を描くんだっけ?」
「たぶん」
「専属の絵描きがいるなんていいじゃん」
真琴は、私と葉子の告白について何も知らない。言葉に別の意味はない。
それでも、専属という響きが胸へ残った。
葉子は私を描く。
ほかの部員ではなく、私を選んだ。
「走るよ」
顧問の声が飛び、私たちはスタート地点へ向かった。
今日は四百メートルを五本。最初の二本は余裕を残し、後半でペースを上げる。
靴紐を結び直す。
顔を上げると、葉子と目が合った。
葉子はすぐにスケッチブックへ視線を落とした。
見られている。
そう思った瞬間、身体の動かし方が分からなくなった。
腕はいつもどのくらい振っていたのか。顔を上げすぎていないか。走るときの口元は変ではないか。
号砲が鳴る。
最初の一歩が遅れた。
前を走る真琴の背中を追う。足は動いているのに、意識だけがベンチのほうへ残っていた。
一周目を終える。
顧問が目標より遅いタイムを読み上げた。
「桜、硬い。もっと楽に」
「はい」
返事をし、スタートへ戻る。
ベンチでは葉子が鉛筆を動かしている。
何を描いたのだろう。
今の不自然な走りまで残っていたら嫌だと思う。
二本目も、思うように身体が動かなかった。
三本目の前、紗季先輩が私の横へ来た。
「葉子に見られてるからって、格好つけすぎ」
「つけてません」
「じゃあ何でいつもより遅いの」
言い返せなかった。
紗季先輩はベンチを見た。
「葉子は、速い桜だけ描きたいわけじゃないでしょ」
私は葉子のほうを見た。
彼女は紙へ目を落としている。
「何を描きたいかは、聞いてません」
「なら普段どおり走れば」
簡単に言い、先輩は離れていった。
普段どおり。
告白されてから、その言葉ばかり聞いている。
今までどおりにする。普段どおりに走る。
意識した時点で、それはもう同じではない。
三本目が始まる。
最初のカーブで、私は葉子のことを考えるのをやめた。
前を走る真琴の肩だけを見る。呼吸を整え、足を運ぶ。直線へ入ったところで速度を上げる。
身体がようやく軽くなった。
四本目では真琴の前へ出た。
五本目、最後の百メートルで脚が重くなる。呼吸が崩れ、腕を大きく振った。
右肩が下がっているかもしれない。
それでも直そうとはしなかった。
そのままゴールを越える。
膝へ手をつき、何度も息を吐く。汗が顎から落ち、赤い土へ小さな点を作った。
顔を上げる余裕はなかった。
しばらくして呼吸が落ち着き、ベンチを見る。
葉子は私を見ていた。
鉛筆を動かさず、まっすぐこちらへ顔を向けている。
目が合うと、葉子はわずかに笑った。
私は何となく視線を逸らした。
走っているあいだより、見つめられた今のほうが胸が苦しかった。




