第五章 葉子の目に映る私 一
一
葉子が私を描くと決まってから、最初の一週間は何も起こらなかった。
昼休みに会っても、葉子は絵の話をしない。帰りの電車でも、公募展について触れなかった。
私のほうも、自分から尋ねることはできなかった。
どんなふうに描くのか。どこを見て描くのか。完成したら誰に見せるのか。
気になることはいくつもあったけれど、口に出せば楽しみにしていると思われそうだった。
実際、楽しみにはしていた。
それを認めることが、少し恥ずかしかった。
金曜日の昼休み、弁当を食べ終えた葉子が、鞄から小さなスケッチブックを取り出した。
開かれたページには、何本もの線が重なっている。腕を曲げた人。前へ踏み出す脚。腰を落とした姿勢。どれも顔は描かれず、身体の動きだけが残っていた。
「陸上部を見に来たの?」
「昨日、特別棟の窓から少しだけ」
「気づかなかった」
「遠かったから、桜がどれか分からなかった」
葉子はページをめくった。
同じジャージ姿が何人も並び、線の濃さだけが違っている。
「でも、走り方で途中から分かった」
「そんなに癖ある?」
「桜は、疲れてくると右の肩が少し下がる。あと、前の人を抜こうとすると腕が大きくなる」
私は自分の右肩へ触れた。
顧問にも言われたことがない。
「それ、直したほうがいい?」
「私は好きだけど、走り方としていいかは知らない」
葉子は何げなく答え、次のページを開いた。
鉛筆で描かれた後ろ姿がある。
長い髪を高い位置で結び、スタート地点に立っている。左足を半歩引き、身体は前へ傾いていた。
顔は見えない。
それでも、自分だと分かった。
「これ、いつ描いたの?」
「昨日。桜が最後の一本を走る前」
「そんなところまで見てたんだ」
葉子は鉛筆でページの隅を軽く叩いた。
「描くって決めたから」
私はもう一度、紙の上の自分を見る。
実際の私よりも背が高く、細く見えた。線だけで描かれているせいかもしれない。
スタートを待っているとき、自分がどんな姿をしているのか考えたことはなかった。
葉子は私が知らない私を見ている。
「今日、近くで見てもいい?」
葉子が聞いた。
「グラウンド?」
「邪魔にならないところにいる。先生にも聞くから」
「いいけど」
私は少し迷った。
「ずっと見てるの?」
「描くあいだは」
「走りにくいかも」
「じゃあ見ない」
葉子はすぐにスケッチブックを閉じようとした。
「見ないでどうやって描くの」
「写真を撮ってもらう」
「葉子が描きたいって言ったんでしょ」
「でも桜が嫌なら」
「嫌とは言ってない」
また同じことを繰り返していると思った。
葉子は私を困らせないよう、少しでも拒まれそうになると引く。私は引かれると、その距離を埋めたくなる。
「見てていいよ」
言い直す。
「その代わり、変な顔は描かないで」
「約束できない」
「そこは約束してよ」
葉子は笑い、スケッチブックを鞄へ戻した。
午後の予鈴が鳴る。
教室へ戻る階段を上がりながら、私は右肩の動きを気にしていた。
走っているところを葉子に見られるのは、これまでにもあった。
でも今日は、ただ見られるのではない。
私の姿が葉子のなかへ残り、葉子の手を通して絵になる。
そう考えると、午後の授業が終わるまで落ち着かなかった。




