第一章 今までどおり 一
一
翌朝、目を覚ました瞬間から、葉子の告白を思い出した。
夢のなかで何かを見ていた気がする。けれど、その内容は目を開けるとすぐに消えた。代わりに、昨日の美術室で聞いた言葉だけが、妙にはっきり残っていた。
私、桜のことが好き。
布団のなかで仰向けになり、天井を見つめる。
枕元の時計は六時二十分を示していた。カーテンの隙間から差し込む光は弱く、窓の外にはまだ雨雲が残っている。
昨日、葉子と別れてから連絡を取っていない。
普段なら、どちらかが帰宅したころに短い連絡をする。宿題の範囲を確認したり、翌朝の電車を決めたり、夕飯のおかずを送りつけたりする。葉子の家が唐揚げの日には、写真だけが送られてくることもあった。私が悔しがるのを知っているからだ。
昨日は、何もなかった。
私も送れなかった。
何を書けばよいのか分からなかったからだ。
おやすみ、と送れば今までどおりだった。でも葉子にとって、その短い言葉まで別の意味を持つのではないか。そんなことを考えるうち、画面を閉じてしまった。
携帯電話を手に取る。
葉子からの通知はない。
安心したのか、残念だったのか、自分でもよく分からなかった。
着替えて一階へ下りると、母が台所で弁当を包んでいた。味噌汁の湯気と、焼いた鮭の匂いがする。
「昨日、葉子ちゃんと帰った?」
「帰ったよ」
「雨すごかったでしょ。二人であの傘じゃ小さかったんじゃない?」
「葉子が端に寄るから、少し濡れた」
「桜が大きいからでしょ」
母は笑いながら弁当を鞄へ入れた。
母は何も知らない。
昨日と変わらない調子で葉子の名前を口にする。そのことに、私は妙な居心地の悪さを覚えた。
告白されたことは誰にも言わないほうがいい。
葉子から頼まれたわけではない。それでも、私だけに向けて話してくれたことを、勝手に外へ出したくなかった。
朝食を終え、歯を磨いていると携帯電話が震えた。
葉子からだった。
――七時十二分のでいい?
いつも乗っている電車だった。
私は鏡の前で歯ブラシを動かしたまま、その一文を何度も見た。
昨夜のことには触れていない。
――いいよ。いつものところで。
送信すると、すぐに既読がついた。
返事は来なかった。
玄関を出ると、雨は上がっていた。道路には水が残り、低い雲のあいだから淡い光が落ちている。
駅までは歩いて十五分ほどかかる。
町の中心を通り、郵便局の前で葉子と合流する。高校へ入ってから二年間、ほとんど毎朝そうしてきた。約束をしなくても、七時前後にはどちらかが赤いポストの近くにいる。
今朝も、葉子はそこにいた。
制服の上へ紺色のコートを着て、鞄を両手で持っている。私を見つけると、少しだけ手を上げた。
「おはよう」
「おはよう」
それだけだった。
告白する前の葉子と同じ声だった。
私たちは並んで駅へ向かった。
昨夜の雨で川の水かさが増えている。橋の上は風が強く、葉子の髪が頬へ張りついた。
私はいつものように手を伸ばしかけた。
葉子の髪へ触れ、耳の後ろへ払う。今までに何度もしたことだった。葉子は髪が顔へかかっていても気にしないし、そのまま歩いて電柱へぶつかりそうになる。
指先が髪へ届く前に、昨日の言葉を思い出した。
手を止める。
葉子は自分で髪を押さえた。
「どうしたの?」
「何が?」
「今、何かしようとしなかった?」
「髪、顔についてたから」
「取ってくれればよかったのに」
葉子は何げなく言い、また歩き始めた。
私はその横顔を見た。
取ってもよかったのだろうか。
昨日までなら考える必要もなかった。葉子の髪へ触れることに、許可など求めたことがない。
恋人ではないから触れてはいけないのか。それとも幼なじみだから、今までと同じように触れてもいいのか。
答えを出すまで今までどおりにしてほしいと言ったのは私だ。それなのに、最初に今までどおりでいられなくなったのも私だった。
駅に着くころには、ホームへ電車が入ってきていた。
二人で階段を上がり、開いた扉へ急ぐ。いつもの車両は混んでいて、並んで座れる席がなかった。
葉子が空いていた一人分の席を指した。
「桜、座れば」
「葉子が座りなよ」
「昨日、階段走ったんでしょ」
「走ったけど、これくらい平気」
結局、どちらも座らなかった。
ドアの脇へ並び、揺れるたびに吊り革を握り直す。葉子の肩が私の腕へ触れた。満員というほどではないのだから、少し離れることもできる。
けれど葉子は離れなかった。
私も動かなかった。
窓の外を、濡れた田んぼと低い家並みが流れていく。
たった二十分の電車が、いつもより長く感じられた。




