プロローグ 答えのない帰り道
数年前に書いた作品の書き直しです
葉子が私を好きだと言ったのは、高校二年の終業式を数日後に控えた、三月の雨の日だった。
昼すぎから降り始めた雨は、放課後になるころにはグラウンドを覆っていた。水を含んだ土の上では走れず、陸上部の練習は校舎内での筋力トレーニングに変わった。それもいつもより早く終わり、私はジャージの上から制服の上着だけを羽織って昇降口へ向かった。
下駄箱には、まだ葉子の靴が残っている。
美術部は雨でも活動できる。むしろ葉子は、雨の日のほうが帰りたがらなかった。濡れて色の変わった校庭や、窓を流れる水を描くのが好きらしい。
私は傘を一本持ち、特別棟へ渡った。
二年間、何度も繰り返してきたことだった。
練習が先に終われば、私が美術室へ葉子を迎えに行く。葉子の制作が早く終わった日は、駐輪場で待っている。どちらが先に帰ろうと言い出すかは、その日によって違う。それでも、最後は二人で帰ることがほとんどだった。
特別棟の廊下は薄暗かった。雨の日は窓の外まで同じ灰色に染まる。足音を立てると、古い床が軽く軋んだ。
美術室の扉は閉まっていたが、上の小窓から明かりが漏れている。
私はノックをせずに扉を開けた。
「葉子、帰ろ。雨、弱くならないって」
いつもなら、葉子はすぐに「もう少し」と言う。絵の具を洗っているか、スケッチブックへ何か描き足しているか、だいたいそのどちらかだった。
その日は、窓際の机に座ったまま動かなかった。
美術室には葉子しかいない。流し台には洗い終えた筆が並び、雑巾から落ちる水滴が、銀色の底へ小さな音を立てていた。
葉子の前には、画用紙が一枚だけ置かれている。
描かれているのは、美術室の窓と、その向こうの校庭だった。人のいないグラウンド。いくつもの水たまり。雨に霞んだフェンスのそばに、傘を持つ誰かの影がある。
どこかで見たような後ろ姿だった。
肩へ掛かる髪。少し大きな鞄。傘を斜めに持つ癖。
私に似ている気がしたけれど、顔までは描かれていない。
「どうしたの」
聞くと、葉子は顔を上げた。
泣いていたわけではない。具合が悪そうでもなかった。ただ、いつもより少しだけ真剣な顔をしている。
「桜」
「なに」
「座って」
「帰るんじゃなかったの?」
「帰る。帰るけど、その前に座って」
葉子が向かい側の椅子を引いた。
私はそこで、何かがおかしいと気づいた。
葉子は私に頼みごとをするとき、たいてい言いながら手を動かしている。ノートを貸してほしいとか、帰りにコンビニへ寄りたいとか、そんなことを言うときも、私の返事を待っている顔はしない。
今は、私が座るまで動かなかった。
私は傘を壁へ立てかけ、椅子へ腰を下ろした。
机を挟んで葉子と向き合う。
美術室で二人きりになることは珍しくない。それでも、いつもは隣だった。正面から見た葉子は、見慣れたはずなのに少し違って見えた。
「何。改まって」
「うん」
葉子はそれだけ言って、机の端を指でなぞった。
爪の横に青い絵の具が残っている。
雨粒が窓へ当たり続けていた。特別棟にはもう誰も残っていないらしく、廊下から足音は聞こえない。
「何かあった?」
葉子はすぐには答えなかった。
机の端を押さえる指に、少しずつ力が入っていく。
「私、桜のことが好き」
葉子は言った。
最初、意味が分からなかった。
好きという言葉は、これまでにも何度も聞いている。桜の家の唐揚げが好き。放課後の川沿いの道が好き。古い駅の木の椅子が好き。葉子の好きなもののなかに、私が入っていたこともあった。
けれど、今の言い方はそのどれとも違っていた。
私から目を逸らしたまま、葉子は一度息を吸った。
「友達としてじゃなくて。たぶん、そういう意味で」
私は何も返せなかった。
葉子が困ったように笑う。
「ごめんね。気持ち悪いよね。どうしてか、自分でも分からないの。でも……桜のことを友達として好きだって言うたびに、少し嘘をついてる気がして」
机の端を押さえる指が、わずかに震えていた。
「桜と帰るのも、一緒にお昼を食べるのも、走ってるところを見るのも、昔からずっと好きだった。でも最近は、それだけじゃ足りないって思ってる自分がいて」
「葉子」
「言わないほうがよかったかも。でも、これ以上なかったことにするのも無理だった」
私はすぐに首を振った。
「気持ち悪くないよ」
葉子が顔を上げる。
「そんなこと言わないで。私が困ってるのは、葉子が嫌だからじゃない」
その先を、私はうまく言えなかった。
葉子は私の幼なじみだった。
小学校へ入る前から家が近く、互いの家を行き来していた。私の家の味噌汁が薄いことも、葉子が朝に弱いことも知っている。高校へ入ってからの二年間も、同じ教室で過ごしてきた。
葉子は、私が本気で怒るときだけ黙ることも、走る前に左の靴紐を結び直す癖も知っている。
知っていることが多すぎて、葉子を友達ではない何かとして考えたことがなかった。
考えたことがないから、違うとも言えない。
「葉子のことは大事だよ」
ようやく言葉が出た。
「すごく大事。でも、私、恋愛ってよく分からない。誰かを好きになることも、付き合うっていうことも。それが葉子の言ってる好きと同じか、今は分からない」
言葉にしてみると、ひどく曖昧な返事に聞こえた。
葉子は、少しだけ目を伏せた。
「うん」
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
葉子は笑おうとした。
けれど、うまく笑えていなかった。
その顔を見て、胸の奥が痛んだ。何かを言い足したかった。ごめんではない言葉で、葉子を傷つけたいわけではないと伝えたかった。
「断る?」
葉子が聞いた。
「え?」
「私が、そういうことを言うのが嫌なら。今までどおりにして、忘れる」
私はすぐに首を振った。
「忘れなくていい」
葉子の顔がわずかに上がる。
「忘れないでいいの?」
「だって、葉子が言ってくれたことなのに」
「でも桜が困るなら」
「困ってる」
言ってから、私は少しだけ笑った。
「困ってるけど、嫌じゃない。葉子が私を好きだって言ってくれたことを、なかったことにはしたくない」
葉子は黙っている。
いつもの葉子なら、ここで何か言う。私の言い方が変だとか、真面目な顔が似合わないとか、たぶん笑わせようとする。
でも、今日は待っていた。
私は、葉子を待たせる側になったことがほとんどなかった。
「少し考えてもいい?」
やっとそう言うと、葉子はすぐに頷いた。
「うん」
「すごく勝手だけど」
「勝手じゃないよ」
「もっと一緒にいて、ちゃんと考えたい。葉子のことも、自分の気持ちも」
葉子の張りつめていた肩から、少しだけ力が抜ける。
「そんなのでいいの?」
「そんなのって?」
「すぐ断ってもいいのに」
「断りたいと思ってないから」
自分で言ってから、その言葉の重さに気づいた。
葉子も同じだったらしい。私を見たまま、何も言わない。
「答えを出すまで、今までどおりにしてていい?」
しばらくして、私は尋ねた。
葉子は窓の外へ目を向けた。
雨でぼやけた校庭を眺めながら、少し困ったように笑う。
「努力はする」
「努力?」
「今までどおりって、たぶん難しいから」
私は返事ができなかった。
告白された私より、告白した葉子のほうが、そのことを分かっていた。
それで話は終わったはずだった。
葉子は画用紙を棚へしまい、使った鉛筆を筆箱へ戻した。私は椅子を元の場所へ運び、入口の傘を取る。
美術室の明かりを消すと、窓の外の雨だけが白く浮かんだ。
二人で特別棟の階段を下りる。廊下の窓は曇り、外にある木の枝が風で揺れていた。
昇降口で靴を履き替えるあいだも、私たちはほとんど話さなかった。
外へ出ると、雨はまだ強かった。
傘を開く。
葉子がいつものように私の右側へ入った。肩が少し触れる。私たちはいつも、こうして一本の傘で駅まで歩いている。
同じなのに、急に意識してしまった。
葉子の髪が濡れないよう、私は傘を少しだけそちらへ傾ける。葉子は何も言わず、私の腕に軽く触れて柄を中央へ戻した。
「桜が濡れる」
「葉子のほうが背、低いから」
「それ、今言う?」
「ごめん」
「謝るところじゃない」
葉子は笑った。
私もつられて笑う。
それだけで、少し安心した。
校門を出ると、道路の向こうが雨で霞んでいた。
葉子は私の隣にいる。歩く速さも、傘の持ち方も、昨日までと変わらない。
けれど、さっきの言葉だけは消えなかった。
私、桜のことが好き。
今までどおりに帰ることが、もう今までどおりではないような気がした。




